鱗をもたない僕たちは 外国人の英語教師とはまた違った発音でカズオは俺を呼ぶ言葉を発した。土曜日の朝、ひとり湯船の中で遅めのフロにつかるそいつはいつものように眼鏡をかけたまま、戸口に佇む俺を呼んだ。おいで。そう呼ばれると俺の体は何よりも従順になってあいつの元へと向かっていく。そんな時、小学生の頃に道徳の授業で習ったことを思い出す。「わたしたちは男性や女性などといった他に『褒めたい性』と『褒められたい性』に分類されます」。Dom、Subの名前の方が知られているけど、教科書に沿って敢えて言うなら俺は『褒められたい性』だ。
おいでの一言に俺が抗えないのは俺がその『性』だからで何も悪くない。そういったことは学校の授業は教えてくれたけれど、湿ったタイルにハーフパンツが濡れるのにも構わずに膝をつくことの気持ちよさは教えてくれなかった。
「おすわり」
この一言にも俺は言うとおりにするしかない。湯船の縁に肘をついて見上げる瞳は結露に覆われたレンズ越しに、しゃがみこむ俺をじっと覗いた。曇ったガラスに期待に満ちた俺の顔が写る。褒められたい。今すぐ頭や頬を撫でていい子だと教えてほしい。湯船からあふれたぬるま湯が俺の膝元を波のように濡らしてはひいていく。ぐしょぐしょになったハーフパンツの生地が肌にはりつく。
「何しにきたにょお? まさかノゾキ?」
「んなっわけ、アレ、忘れて」
俺は顎をしゃくって鏡の一つを示した。その前にはポツンと青い紐が残されている。
「あー、ミサンガ」
「外したの置いてたら忘れちまったんだよ」
ふうん、とカズオは息をつくと腕をたたんでその上に突っ伏した。顔だけをこっちに向けて。そして、意味ありげに片頬をあげる。揺れる湯がまた脚を濡らした。
「おいで。もっと近く。そのままで」
カーブを描いた天井に反響する声が俺の脳味噌をいつも以上におかしくさせる。こもったあいつの呼び声が耳奥を舐める。手をタイルにつくと貝の裏側のようなつるりとした感触がした。掌もすぐに水濡れになる。尻をあげて膝に重心をかける。片手と片膝を交互に前進させて縁へと近づいた。水滴があいつの肩を滑り落ちていく。レンズの向こうの金色の瞳は四つん這いの俺から逸らされることは絶対にない。見ないでほしい気持ちとちゃんと見て俺がどれだけカズオの為に頑張っているのか見てほしい気持ちが渦を巻く。やっと、縁に手をかけられたと思ったら、カズオは湯船に潜って沖の方へと泳いでいった。橙色の髪が広がってイソギンチャクみたいに水中で踊る。と思えばすぐに水面から顔を出し、すうと力を抜いて仰向けに浮いた。
「タイガくーん、助けてえ。溺れちゃうよお」
天井に投げられたしらじらしいSOSは壁に水面に跳ね返って俺の全身をくすぐりまわす。カズオは脚をゆるくダウンキックしてさらに遠ざかった。
「しっかり泳いでんじゃねえか!」
へたっていた脚に瞬時に力がみなぎる。飛沫を立てて俺はカズオを目指して飛び込んだ。湯の中に体が沈むと世界から音が消える。無音の中で俺とあいつの間にあるのは泡と水だけ。わざと水中で瞳を閉じて息を止めて俺を待つ馬鹿を救いに俺はぬるい海を蹴る。入浴剤のハッカの匂いが鼻をついた。まといつく服が前進の邪魔をする。漂う体に追いつくと力のないふりをした肩を掴んで引き揚げようともう片方の手を掻いた。
「ここは人工呼吸っしょ、人魚姫サマ」
そんな台詞が聞こえた気がして、そして泡と波の中で唇が塞がれた。ぬるい唇を離すたびに呼吸が弾けて水面へと昇っていく。本当に溺れてしまいそうなほど俺たちは何度も水の中でくちづけを繰り返した。舌が侵入すると窒息するかと思うくらい水が口を流れていったが気にする余裕はなかった。裸のカズオの体が俺を捉えて離さない。カズオが腕を回すたびにタンクトップが鰓みたいに体の周りを跳ねた。
数えきれないキスの後、俺達はほぼ同時に水面から顔を出した。肩をそびやかして大きく息をつく。肺に酸素が行き渡るのを感じる。おいでと呼ばれなくても済むくらいにカズオは近い距離にいた。水中から海獣の鰭のように自然に右手を伸ばすと俺の頬に触れた。全身がその挙動を歓迎する。皮膚が粟立って顔に熱が集まるのがわかる。早く撫でろと言わんばかりに俺は無意識に触れられた頬をその手におしつけた。
「タイガ」
「ん」
「眼鏡がどっかいっちゃったから探してきてくれにゃあい?」
濡れてしおれた癖毛は毛先から雫をいくつも落とした。それは波紋を作ってまだ荒れる水面に模様を描く。俺は落胆と苛立ちを露わにすると、あてつけるようにさっき以上に飛沫を立てて水中に潜りこんだ。目当てのものはあいつの足元近くに転がっていた。さしこむ照明の光の一筋がレンズを照らす。指先にそれを引っかけると、水面を目指す。舌打ちの代わりに唇を歪めると肺から貴重な空気が逃げていった。
水中から頭をあげると同時にカズオの両手に後頭部を捕まえられた。俺は新鮮な空気を吸いたかったのにカズオの唇がもう一度塞ぐからそれは叶わなかった。ただでさえ不足気味だった酸素を奪われて体から力が抜けていく。ちぅ、ちぅとさっきのキスの時には聞こえなかったさえずりがぼおっとした脳味噌にこだまする。
「か、ず……」
息が苦しいことを伝えようとすれば髪をゆっくり梳きながら耳元でいい子と返された。
「んんっ」
「いい子だよ> g o o d b o y]]、タイガ。[[rb:いい子」
顎を支えるように両頬をつままれる。涎か水かわからない液体がカズオの指を伝った。
「こんなにびしょぬれになって俺っちのとこまでかけつけてくれるなんて、タイガくんってばなんて健気なんだろ」
「かずお」
「そんなタイガくんにはご褒美あげなきゃね」
「ごほうび」
そうだよ、ご褒美。囁きながらカズオの白くて長い指ははりついた服を剥がしにかかっている。水を吸ったタンクトップは湯船をゆらゆら泳いで俺達から離れていった。風呂に入るときは裸が当たり前なのに、今は鎧を奪われたような気がする。
「タイガは何してほしい?」
剥き出しの金色の瞳に射すくめられた俺はすっかり冷えた湯の中でハーフパンツのウエストに手をかけた。