誰かはそれを愛と呼ぶけれど 盲導犬と同じ要領なのか。なるほどそれは合理的だな。天井からぶら下がるスクリーンに映し出された教育ビデオ――実際にはDVDだ――は、なぜダイナミクスにおいて指示に使われる言語が英語なのかを説明していた。それを聞いてそう思った。
曰く、日本には方言間の発音や男女間の言葉づかいの差異が大きいのでいっそ英語で統一した方が混乱が少ないから。
曰く、ダイナミクスという概念が西洋から伝播したものだから。
曰く、普段使用しない言語であった方が都合がいいから。
前二つは盲導犬に英語で指示する理由と同じだ。最後だけが人間の人間による人間のためだけの理由になる。ビデオでは何にとって「都合がいい」のか言及はされなかったけれど視聴覚室に詰め込まれた者たちのおそらくほとんどがどういう意味であるかは理解していた。すり鉢を縦に半分に切ったようなその部屋は若草色のブレザーで埋まっている。俺は後ろの方でそのようなことを考えながらなんとなく眼下の同級生たちを見渡した。普段の教育ビデオと違って性の匂いを醸し出す今日のプログラムでは舟を漕ぐ輩はいない。ビデオは最後にダイナミクスとは暴力で繋がった支配-被支配関係ではなく、健全な心で繋がる対等な人間関係なのだと説いて終わった。安っぽいBGMとともに文科省のロゴマークがアップになったかと思うと教師がリモコンをむけてスクリーンは闇に閉ざされた。
そして、今、俺の目の前には犬がいる。
アイマスクをして俺のベッドの上で膝を立てて尻をつくタイガの姿はまさに犬の座り方だった。飼い主に贈られた革の首輪をつけて従順に次の命令を待つ俺だけの犬。
「いいよ」
俺が許すと小さな白い歯が咥えていた氷を噛み砕いた。二人きりの部屋に氷が咀嚼される硬質的な音がこだまする。尖った犬歯が水滴を飛ばしながら上下する。そうしていると犬のような座り方でも背徳よりも野性味が勝ってむしろタイガにふさわしい気さえしてくる。
「何が入ってた?」
「いちご」
「ブッブー。はずれ」
「嘘だろ」
「嘘じゃないよん。ほら」
アイマスクをずらしてやるとタイガと同じ氷の粒をのせた舌を見せる。タイガの目には透き通った氷に閉じ込められた黄桃の欠片が見えているはずだ。
「マジかよ。全然わかんなかった」
「だから言ったじゃん」
サイドテーブルのガラスの器にはまだ氷の欠片がいくつか残っている。融けた水が底に甘い湖を作っていた。ミナトッチが丹精込めて作ったデザートをこんなことに使うのはホントは少し気が引ける。でも、タイガが「見えない状態でものを食べると味がわからなくなる」というテレビか何かで知った雑学を絶対嘘だと言い張るものだからおもしろくなってついじゃあ実験してみる、なんて提案してしまったのだ。
果物の欠片をシロップに沈めて固めた氷菓子はシンプルだけれど作り手らしい優しい味がした。何て名前のお菓子なのと尋ねたら、特にないなとのことだった。鷹梁家では夏に涼みたくなった誰かが作るものらしい。シンプルで傍にあるからこそ名前のないもの。俺はますますこの氷菓子が気に入ったのだった。
甘い水が体を冷やしてくれるのを感じながら俺は再びタイガのアイマスクを目元におろして正面から抱きすくめた。
「んだよ」
「おしおきしなくちゃいけないにゃーと思って」
「な、んで」
おしおきの一言でタイガは腕の中で身を竦ませた。固く小さくなっていく体を膝の上にのせる。視覚を奪われたタイガはなされるがままに俺の下半身に跨る形になった。
「首輪つけてって言ったときはそういうことするときだって約束しなかったっけ」
「……した」
見えないことが不安なのかタイガはせわしげに頭を振っている。
「目隠しして食べたら終わりだと思ってた?」
もう声もない。タイガは首を小さく縦に振る。ざんばらになった前髪が目元を覆った。
「五つ食べてぜーんぶ間違えたんだもん」
「それは、そうかもしんねえけど」
背に腕を回してさすってやる。すこし安心したのか二の腕にしがみつく指が緩められた。
「痛いやつ? はずかしいやつ?」
観念したらしいタイガが耳元でぼそりと尋ねる。あれだけ氷を飲みこんだのに体は火照っていて、耳朶に触れる息だけがかろうじてまだ冷気を保っていた。
「痛くてはずかしいやつ」
襟足をまさぐってうなじを軽く掻く。不満気な唸り声がすぐに嬌声に変わるのは俺達二人が判っていることだった。
熟れた桃のようになった丸い尻は目隠しがなかったとしてもタイガからは見えない。薄紅色の二つの肉を輪郭をなぞるように撫でてやると、か細い悲鳴とともにうつ伏せになった体が仰け反った。アイマスクは濡れてじっとりとしている。重たくなった楕円の布を片手で払うと、涙の痕が乾いて歪んだ潮の道が出来た頬が露わになる。
熟したキウイの果肉のような瞳が俺を見上げる。期待に濡れきったそこには涙の膜が張っている。じっと見つめ合う。先に微笑む。にらめっこなら俺の負け。
「いい子だよ」
喉の奥で声にならない叫びをあげながらシーツに再び突っ伏したタイガの尻を労わるようにさする。サイドテーブルに置いていた氷菓子は案の定融けきっていて、その器についた結露を両掌で掬ってもう一度タイガの肉に触れた。やわらかさを確かめながら叩かれて熱をもった皮膚を冷やしてやる。俺のタイガ。俺はタイガのためなら何でもしてしまうし、タイガもそうだろう。犬にだって悪魔にだってなれる。
「頑張ったね」
獣みたいな唸り声がクッションに吸われる。
「きもちい?」
「ん、ん」
タンクトップ一枚で悶えるタイガの腰がシーツにこすりつけられている。
「あ、ダメダメ。今日はそういうの無しにして、俺っちだけで気持ちよくなって」
「う、んう」
返事なのかうめきなのかそれでもタイガは腰を浮かすと寝返りを打って両手を伸ばした。それを引いて腿にのせてやる。おしおき前の姿勢に戻ると、やっと人心地ついた気がした。
「かける」
「なあに」
とろんとした瞳は今にも零れ落ちそうで、瞳孔が収縮した薄緑の虹彩は輪郭を滲ませて涙にとけようといていた。弛緩した腕を俺の首元に巻きつけさせる。
「あー、えっと、」
「いい。言わないで。当てるから」
俺はサイドテーブルの器の中身を全て口に含んだ。すっかり融けてシロップになったそれを半分ほど飲みこむ。喉の渇きが癒されるのを感じる。夢中になっていたのはお互い様だったらしい。タイガは何も言わずに唇を薄く開けて俺を待っていた。唇を繋げると甘い水が蜜柑の粒やパインの欠片とともにタイガの内へと流れていく。こくこくと喉仏が動くのを確認しながら俺は少しずつシロップを注いだ。飲み干した後は堰を切ったようにタイガの舌が俺の口腔を舐めまわした。まるで口の中にフルーツの欠片が残っていると信じているみたいだった。
「なあ、おれ、おれな」
タイガは涎の糸を引きながら必死になにかをしゃべろうとする。サブスペースに入ったタイガは子供のように饒舌になる。
「うん」
促しながら片手で髪を梳いてもう片方の手で背から腰にかけてをさする。
「あ、おれ、すき。これ」
「どれが好きなの」
「おめが、なでるの」
「そっかあ」
酩酊状態のタイガは頭を揺らして全身を身もだえさせた。
「ふだん、手つめたいのに、なでるときはあったかくなって」
予想外の言葉に一瞬だけ手が止まる。そうなんだろうか。自分の掌を見つめてみても体温なんてわかりはしなかった。髪を梳いていた指でタイガの唇をなぞる。シロップと涎と汗で濡れた唇は天蓋越しの淡い照明の下でも艶めいていた。
「おれしかしらねえだろ」
ふっと勝ち誇ったように笑うとタイガはうっすらと汗の浮いた頬で頬ずりをしてから眠りに落ちていった。