金木犀と五線譜 ごめんと謝る声が聞こえて顔をあげると、深緑色のジャケットをはためかせながらヒロが駆けてくるのが見えた。薔薇園にいたのだろう。僕の前で息を整えているヒロからほのかな薔薇の香りがする。ベンチの真後ろで咲いている金木犀の香りと混じる。僕は腰を浮かせて横にいざった。座ったヒロは脚をぶらぶらさせて横目で僕を窺うように見つめた。
「待たせてごめん」
「全然待ってないよ。僕もさっき来たところ」
これは嘘で本当は少し、いや、だいぶ待ったかもしれない。でも、ヒロを待つ時間は苦痛でもなんでもなかった。今日はどんな話をしてどんなレッスンをしてどんな歌を歌おう。そればかりを考えていた。この瞬間を想いながら五線譜にシャープペンシルで書いて四小節分のメロディーを早く披露したくてたまらなかった。
「嘘だね」
「嘘じゃないよ」
「本当に?」
ヒロはにやりと見つめるとツンと顎をあげてもう一度嘘だぁと歌うように呟いた。
「ほ、本当だよ」
「だって、さっき来たのならそんなに頭の上に花が落ちてるはずないだろ」
ヒロは右手で僕の髪を軽く撫でた。音もなく橙色の星屑みたいな花弁が僕の頭上からばらばら降ってきた。
「あ」
見上げると僕たちを隠すようにして咲く金木犀の枝が揺れていた。秋風が枝をゆすってまた花びらが雪のように落ちる。甘い香りにむせ返りそうだ。
「ほら行こう」
ヒロの手に引かれて僕は慌てて鞄を持ち上げた。脇に挟んだ五線譜からは金木犀の香りがした。
了