名前を呼んでくれる!! 彼女が退院して、自分の目の前から永遠にいなくなってしまったらどうしよう、と考えるようになってから、ハルカは寝つきが悪くなった。
どうもなにも、元の生活に戻るだけだと足りない頭でも理解していたけれど、「でも」「だって」が止まらなかった。ぐるぐると同じことを考えていた。ハルカは視野がひとよりずっと狭いのだ。
二度と会えなくなる。
彼女のことを前よりよく観察するようになったが、良くなってるのかまだ悪いままでいてくれるのか、ハルカには判断できなかった。どうしよう。気持ちばかりが焦っていく。
――自分も退院し、母親の元ではなく、自力で生きていく未来はうまく思い描けなかった。
■
「ハルカくんは趣味とかあるの?」
「しゅみ、ですか」
夕食後の病棟。二人は消灯までの時間、バラエティ番組をぼんやり眺めて過ごすことが暗黙の了解になっていた。番組の内容はなんでもよかった。横に並んで座り、雑談するのが目的だった。ハルカは人がいいので案外ここでは人気者なのだ。対して彼女は日中ひとりで過ごすことが多い。それは、一対一以外のコミュニケーションを苦手としていたためだった。
「今日の診察で主治医の先生にね、言われたの。ストレスを解消する趣味を探していこうって。でも病院って全然楽しくないよね……」
「え、楽しく、ないですか?」
「楽しくないよ。暇でしょ。何もないじゃん」
あれ? 自分たちは同じ気持ちを共有しているのではなかったのか?
ハルカは自他の境界が曖昧だったので、すっかり裏切られたみたいな気持ちになっていた。
「ぼ、ぼくは、楽しいです。……そうだ! 佐藤さんとか、優しいです、それと、田中さんとか同い年くらいだから、きっと、お話しして楽しいです。だから、その、」
「ごめん、看護師さんの名前覚えられなくて」
「……か、患者さんです……」
沈黙が続いた。彼女は明らかに機嫌を悪くしている。
「…………部屋戻るね」
「あ! 待って!!」
間ちがえた! と思ったが遅かった。そうだ、そもそも彼女は心に壁があって……。あって……?
その事実に気がついたとき、ハルカはぶぁっと気持ちが昂るのを感じた。
そして、彼女を失う不安など一瞬で燃えるように消え去てしまったのだった。
■
「なに、ニヤニヤして。怖いんだけど」
「で、でも今夜も逢えましたよね」
いつもの時間、いつもの場所に彼女は来た。それだけで今のハルカには十分すぎた。
「今夜のハルカくんヘンだよ。なにがあったの?」
「いえ? なにも?」
「え、どうして嘘つくの?」
彼女の不機嫌な様子を見ても、ハルカはもうなにも憂うことはなかった。むしろ舞い上がっている。不気味ですらあった。
「……看護師さん呼ぶね。うん、今夜は寝よう」
「! それですよ!」
「は?」
なにが? 立ち上がった彼女を引き止めるように、ハルカは勢いよく捲し立てる。
「だって、██さん、僕以外の人の名前呼ばないですよね? 先生とか看護師さんとか、そういう風には言いますけど、だから」
嬉しくて、つい。
「名前も顔も覚えてないんですよね? 興味がないんだ!!」
「……よく見てるね」
「ずっと見てます」
「そう……」
半分事実であった。
全くできないことはない。彼女は人の顔を名前を一致させることが苦手であり、苦手な自分を恥じており、だから限られた人間以外と交流することを不得手としていたのであった。
「え、へへ……。気づいてからは名前を呼ばれるたび、うれしくてうれしくて……」
「ハルカくん、怖いよ」
「ありがとうございます」
純粋に彼女は怯えていたのだが、ハルカは理解力を褒められたつもりでいた。ニコニコである。
僕だけが彼女の秘密に気がついた! 心に触れられた! 僕は馬鹿じゃないんだ!! と思い込んでいたからだ。
ちなみに彼女の主治医のシドウは最初から知っている。当たり前の話だが。
■
「櫻井さん、今日はもうお薬飲んで寝ましょうね」
「██さんも早くお部屋に戻ってね」
そして当然のことだが、立ち上がって大きな声で騒いでいたので看護師が来て彼らに早く眠るよう促した。
「す、すいません」
「ごめんなさい……」
二人はそそくさと部屋に戻る。閉鎖病棟において看護師の力は絶大なのである。
ハルカは興奮したまま布団に入る。今夜は眠れないかと思いきや、あっさり頓服薬に負けて眠ってしまった。
彼女の方はどうか。ドキドキして全然眠れなかった。
恐怖のドキドキなのか恋のドキドキなのか、彼女にはまだ分からない。