スイートスポット 情報システム部と総務部なんて一番縁遠そう部署がどういうわけか同じフロアで隣り合っているのは、結局どうしてなんだっけ。
クロウリーに聞くと「実働とそれ以外みたいに雑に分けてんだろ、どうせ」とか言うけれど、あの日のことを思い出す限り二人にとってこのオフィスの不思議な配置は幸運と言う他なかった。
土曜の昼下がりだった。産休中のアンナが人事書類を提出しにくるというので、アジラフェルはガランとした休日のオフィスで彼女らを待っていた。それ自体は前々から予定していたことだったし、こちらにもあちらの用意した書類にも不備はなかったから手続きは無事済んで、復職時期の相談もできた。誤算だったのは、どこから情報が漏れたのか、生まれたてのかわいいアンナの赤ん坊を一目見ようとやれ彼女の所属する営業部のだれそれや、同期のなにがしがわらわらとオフィスを覗きに来て、アンナはアンナで「これ皆さんでどうぞ」なんて言ってえらいタイミングでお菓子の箱を出してきたことだ。チョコとバナナのふんわり甘い匂いのするマフィン。個包装だから持ち帰れはするが、まあみんなこの場でいただく流れだろう。そういうタイミングだ。カップが足りない!
うちの次に来客が多いのはたぶん秘書課だが、フロアが違う。苦し紛れに隣の部屋のドアを開けたら、彼がいた。
ひんやりとした薄暗い室内に蹲るようにして座る彼は、それでもアジラフェルが「すみません!」と声をかけるとぱっと顔を上げて「なんだ」と返事を寄越した。
「ごめん、ちょっと予想外の来客があって……この部屋余分なカップとかないか?」
「あ? あー……紙コップでよければ?」
「助かるよ」
彼の示す方を覗いても休憩スペースらしき場所が見当たらない。立ちすくんでいるとすいと寄ってきた彼が「サーバー置いてある部屋にキッチンなんてない。細かいビスやらグリスやら小分けにするやつでよければ余ってるから……ほら、全部持って行っていい」と本当にほとんど使っていないような紙コップを包みごとくれた。そのまままた部屋の奥に引っこもうとするので、「待って」と呼び止める。
「もし今すごく忙しいとかじゃなければ君も隣でどうかな、休憩するのは」
「いや、いい。知らないやつが急に来ても邪魔だろ」
「……君のことはみんな知ってるんじゃないか?」
つい口を滑らせてからはっとして口を噤む。クロウリーはサングラスをずらしてこちらを見、「なんで」と眉をしかめた。なんでもなにも、実際彼はちょっとした有名人だった。外出もせず来客もない、一日中サーバー室にこもってるだけの部署の人間なのに、いつも隙のない細身のスーツで出勤してきて、室内だというのに常にサングラスをかけている。おまけにサングラス越しでもわかるほどハンサムで女子社員に人気がある。
「……君が、とてもおしゃれでハンサムだから」
「へえ? あんたもそう思うのか?」
「え? ああ、まあ」
「あんたがそう言うなら行ってもいい」
アーモンド型の大きな目が人懐っこく笑う。もっと無愛想なタイプかと思っていたが、どうもイメージと違う。まあ、噂から人柄を推し量ろうなんて無茶だってことだ。
「本当に、休日出勤でだれとも一緒じゃなくてもスーツなんだね」
歩きながら聞くとクロウリーはちょっと首を傾げて「そりゃあ、システムのリリースにも脆弱性の検証なんかにもキマった服は必要ないが……」と、アジラフェルを覗き込むように目を合わせてくる。
「それならそっちだって俺と同じ、ずっと内勤で来客もたまにしかない部署にいるくせにいつも洒落たスリーピースだろ。ちゃんとしたとこで仕立てたやつだ」
びっくりして目を丸くすると、クロウリーがまたいたずらっ子のような笑顔を見せてくる。
「……こだわりとかはないんだけど、なんというか、ちゃんとしていたくて」
「そうか、ちゃんとして見えるよ。あと俺の趣味じゃないがよく似合ってる」
頬にかーっと血の気が集まるのがわかった。ありがとうと言うべきだっただろうが、言ってしまえばそこで話が終わってしまいそうで口ごもってしまう。「ここで少し待っていて」と部屋の前で待ってもらって、久しぶりの会話に花を咲かせているみんなに紙コップとポットを渡すとテーブルから自分と彼の分のマフィンを失敬して廊下へ戻った。クロウリーはマフィンを受け取りながらちょっと部屋を覗き込む仕草をして「赤ん坊が来てるのか」と言った。
「そうだよ。挨拶しにいく?」
「知らない大人が急に出てきたら怖がるだろ。ちょっと見えたからいいよ」
子ども好きなのか。意外だ。
クロウリーが手元でぺりぺりとマフィンの紙を外すのをなんとなく眺める。……本当に、ちょっとした所作がすごく画になる。シャープな頬の上に星のように散った薄いそばかすがもぐもぐ動くのがなんだかかわいい。思わず伸ばした手を避けられて慌ててひっこめた。
「ごめん」
「いや……あー、どうかしたか?」
「いや、どうもしない。その……君のそばかすがかわいくて」
「………………はあ?」
急にすまないと重ねて謝ろうとしたのをまたひっこめる。耳まで真っ赤になったクロウリーが黙ってマフィンに齧り付くのを見たら(あれ? もしかしたら触れてもよかったのでは)なんて思い上がったことを考えてしまって。
「……うまいな、これ」
「え? ああ、うん。よかった。アンナの家の近くのお店のだそうだよ」
へえ、と相槌を打つ彼の耳たぶがまだ赤い。「脆弱性」という言葉がなぜか頭に過ぎった。いつかはわからないが、次は彼の頬に散る星に手を触れるだろうなと確信めいた予感がした。