闇に呑まれる 静かな夜にタイプライターの金属音がキンと響いた。報告書の作成が一段落して、書類の束を一纏めにする。
気分転換に選んだのは、庭園での散歩。夜露に濡れた花々の香りを楽しんでいると、遠くから微かに聞こえてきたのは馬の蹄が地面を軽快に蹴る音だ。
城門へ急ぐと、闇夜に浮かび上がる城の前でジュートさんが馬車から降りる姿があった。月灯りの中、夜風で靡いた髪を煩わしそうにかき上げながら、冷ややかな目線がこちらに向いた。
「まるで忠犬やな。主人の帰りを待ち伏せしとったん?」
「庭園にいたんです。馬車の音が聞こえたので、走ってきちゃいました」
彼は恋人を歓迎する気はないようだ。つまらなさそうにしている無表情な顔。その歪んだ整った顔が愛おしくて笑顔を向ける。
「何にやついとるん。国賓か何か知らんけど胡散臭い奴らが出入りしとるんや。夜は出歩かんとき」
「はい。フォーゲルの皆さんには注意します」
きっと悪い人たちではない。そう思うけれど、まだ警戒が必要な段階だ。特にジュードさんにお仕置きをされない為には。
「のこのこ散歩したいんやったら、俺かエリスがいる時にしとけ」
「……ジュードさん、一緒に散歩してくれるんですか?」
「は。可愛い恋人の頼み事なら断らんよ。ご所望なら首輪にリード付けたるわ」
此処に首輪がなくて良かった。首輪を装着させて愉しむ嗜虐趣味があると知っているからこっちは笑えないのだ。
すると双眼が細められてじっと己の顔に向くのを感じた。
「なんですか……?」
「……こうやってお前と顔合わせるん久々やな」
「そうですね。ジュードさん、泊まり掛けの任務が多くて、なかなか二人の時間が作れませんでしたから」
「暇なかったんはお互い様やろが」
任務から自室に戻った時に、白檀が香ったことを思い出す。相手が恋しかったのは私だけではない。白い指先に頬を撫でられて、胸がきゅんと締め付けられる。
「は。お前の邪心の欠片もない見てると力抜けるわ」
「ジュードさん……」
彼の上品な香りを求めて抱き付こうと距離を詰める。鼻腔を掠めたのは―――。
濃い血の薫りだ。黒い外套服が吸い上げた夥しい血液を教えてくる。
顔を上げれば、残虐の余韻を残したアメシストの瞳孔が鈍く光る。ぞくりと震えた身体。その恐れを確かめるように、骨張った指先が首筋を撫でた。
「あぁ……。ほんま、こんな城から攫って、誰にも盗られんように首輪付けられたらええな」
「っ、」
クラウンの会議に思考を巡らせる。彼の任務は養護施設の横領の証拠品の確保。ヴィクトルから簡単なものだと聞いてはいたけれど、彼の心を酷く蝕む何かが起こったのだろうか。
断罪が必要な事案に遭遇したことは確かだった。
「ジュードさん、今日の任務は……」
「何。俺に喰われるより重要な話があるん」
どうせ欲求不満の癖に。そう嗤った唇に上唇を食まれる。ぬるりと入り込んだ舌が絡み付かれて、呼吸が上擦っていく。
「ぁ、ん……」
甘噛された唇が解放されて、見つめたアメシスト。切れ長の瞳に宿るのは、やり場のない怒り。そして、虚しさだ。
(あっ……、月が……。)
空を見上げれば、月が暗雲に呑まれていた。
柔らかな月光は途絶えて、地上は闇に包みこまれる。
「ジュードさん……」
優しい闇。この闇夜になら囚われてもいい。
月光の届かない場所で、私は漆黒の闇を抱き締めた。