記憶が香る古城 微睡みの中、頬に太陽のほのかな熱を感じる。この世に生まれ落ちた日から忌み嫌われる自分には不似合いな温もりに思えた。
存外に心地よい眠りに身を委ねれば、どこかで茨の香が香った気がした。
「ジュード。……ジュード」
真っ暗な視界の中で己の名前を呼ぶ声がする。ゆっくりと瞼を開ければ、そこにはエリスが立っていた。椅子で頬杖をつきながらうたた寝をしていたようだ。エリスがこちらの顔を覗き込んでいる。
「あ、起きた」
エリスは表情を変えることなく言った。
「呼んでも起きないから、死んでるのかと思った」
「勝手に殺すなや」
屈めていた腰をすっと伸ばすしたエリスを睨みつける。茨から人間になったばかりのエリスは人間の一般常識が欠けている。
鼻を擽る香りに気づいて視線を移せば、机の上に料理が並んでいた。
「また作ったんか」
「うん」
「食えるもんなんやろな」
そう言って立ち上がって、食卓の椅子を引く。エリスも食卓についたので床を擦る音が2つ分部屋の中に響いた。
「味見したから大丈夫だと思う」
「お前の味覚は宛にならへんわ」
木のスプーンで皿の底からすくう。とろみのある紫色の液体がスプーンからどろりと垂れた。おそらく魔法薬と調味料を間違えたのだろう。
顔をしかめながら、無味無毒の物だと無視を決め込んで口に運ぶと――。
「しょっぱ」
「え、そう?この前は砂糖を入れたら甘いって言われたから、今度は塩を沢山にいれたんだけど」
塩辛い口内で舌打ちをかます。
エリスに人間の姿を与えて一月にも満たない。産まれたばかりの赤ん坊だと思えば料理の不出来は仕方のないことだ。一つ一つ教えるしかない。
しかしながら。
「………。お前、俺の作ったクリームシチュー美味い美味い言うてたけど、ほんまに味わかって食うとるん」
「うん。ジュードが作るものは美味しいことはわかるよ。本当に美味しい」
「……お前のその処世術なんなん」
無駄に愛想の良い笑顔を返されたのが気に入らずに、黙ってサンドイッチを口に運ぶ。野菜を多めに入れられたそれはジュードの好みを考えて作られたのだろう。
「これは食えるんとちゃう」
「そう?良かった。」
食えると事実を言っただけで、エリスは褒められた子犬のように笑った。グラスに目を向けると。ふわりと立ちこめる甘い香りには覚えがあった。
「あぁ…これは茨のお酒。香り付けだけで味はしないんだけど……」
(……こいつ喧しいな)
別にエリスはよく喋る部類ではないとは思う。ジュードが書斎に籠もれば滅多に話しかけてこない。――しかし孤独ではない、といういうのはこれ程騒がしいものだとは知らなかった。
エリスがたてる食器の音、酒を説明する声、それに耳を傾けながらグラスを傾ける。
「ジュード、気にいった?もう三口目だ」
「普通。悪ない」
「そう。それならまた作るよ。キッチンにボトルが――」
エリスが微笑んだその時、爆発音が響いた。足から微かに振動が伝わってくる。魔法の衝撃波だ。
「あーあ。お客さんやわ」
面倒だと想いながらも口の端が吊り上がる。椅子から立ち上がりながら、エリスが瞬時に王国の人間を片付ける姿が頭に浮かんだ。
「朝からご苦労なこって。おら、行くで。お前こんらいしか役に立たんのやし、しっかり」
(働け)
そう笑いかけたつもりだった。
しかし視界の先の椅子には誰もいない。
忽然と姿を消したエリスの気配を探って、室内を見渡せば自分一人だった。あたりは冷たい静寂に包まれている。
茨の絡みつく城で唯一人……。
そう認識した時に、暗闇の中で意識が反転した。
「………っ」
爆発音。その響きに目を開ける。
(夢…。エリスと暮らし始めた頃の記憶やないか)
湿っぽい不快さを抱えたまま、視線を動かすとベットの上にはお姫様の姿がある。薔薇色の頬に赤い唇から吐息を零す姿は、彼女が眠りに就いた五十年前と変わることがない。
(クソ。お姫様の呑気な寝顔に、つられて寝てもうたわ)
ベッド脇に置かれた椅子から立ち上がる。ここ最近まともにベッドで寝ておらず、椅子の上で微睡むことが多い。
ふかふかのベッドで眠る良いご身分のお姫様。彼女のベッドの上に置かれた手中には茨がかる。屋敷に絡みつく茨を一輪摘み取ってやったのだ。
(こいつのせいで、昔の夢を見たんかな)
彼女の手に握られた花からふわりと甘い香りが立ち上る。それはエリスが作った酒と同じ香だった。
あの酒が並んだ食卓は二人で使っていた頃のままだ。三人で喧しさが増した時もあったけれど、今では一人。
彼女の枕元に置かれた黄昏色のガラスで作られた砂時計をひっくり返した。そこに収められた灰色のさらさらと流れる物は―――。
(エリス……)
あのイカれた青年を思い出して瞼を落とす。
時間は巻き戻すことはできない。前に進むしか道はないのだ。残り50年、進み続ければそれでいい。
(あの酒。あいつがまた作る言うとったの忘れとったわ)
茨の香る酒を作る約束を守らせなければならない。ボトルは遠に空になっている。
顔を上げると爆発音を響かせた敵陣の魔力を探りながら、魔法使いとして生を受けて良かったと思う。魔法使いでなければできないことがあるのだから。
「行ってくるで。ねぼすけども」
――孤独な魔法使いは約束を果たすため、部屋の扉を閉めた。彼らが他人の目に触れることはない。
だから囚われの眠り姫を助けに来る王子らは知るよしもないのだ。この茨の香る古城には、温かな記憶と共に魔法使いの大切な者が二人眠っていることを。