時計の針は止まらない「説明は、これで終いや」
二人きりの夜の談話室で、ジュードさんの指先が、とん、と煙草を叩く。その粗雑と繊細が共存する仕草は不思議な魅力があった。任務の打ち合わせの最中に、彼の指先に視線を奪われたことに悟られないように視線を外す。
「明日、10時。遅れたら承知せんから」
煙草を灰皿に押しつけると、ジュードさんは立ち上がって背中を向けた。
「……ジュードさん」
「あ?なんや。ちっさい脳みそは、一回の説明じゃ覚えられへんて?」
「いえ、任務のことじゃなくて、伝えたいことがあるんです」
「はぁ?」
体の前で手を合わせた彼と向き合うと、妙な緊張が走って、外套の襟を手繰り寄せる。
この外套が肩にかけられたのはつい先程のこと。二人での潜入捜査先を終えて、クラウン城に到着した馬車から降りた瞬間だった。彼は迷うことなく露出した肩に紫煙の香るそれをそっと掛けた。「あいつらに食われたいなら脱ぎよったら」なんて相変わらずの皮肉を投げつけながら。
それは単なる善意ではない。でも確かに、私の胸を温かくさせた。
「いつも、ありがとうございます…。わたし、ジュードさんに感謝してて…。それから、あなたを尊敬してます」
それは思い掛けない言葉だったようで、彼は目を見開いた。しかし、アメシスト色の眼差しはすぐに頭を疑うという怪訝な色を帯びる。
「まさか、お前、信じとるんとちゃうやろな。あれ」
「っ、それは……」
『あれ』とは、世間を騒がせている予言だ。世界の滅ぶ光景が水面に映し出されるのを、占い師が見たと言うのだ。それが子どもたちの間で広まって、ついにはタブライト誌まで面白がって取り上げた。
そして世界が終焉する日と予告されたのが、まさに今日だ。
「は。あほらし」
「別に…!信じてなんかいませんよ!」
誰もが非日常を楽しんでいるだけだ。クラウンの一部のメンバーは世界の終わりにかこつけて、ロンドンの飲み屋で飲めや歌えやと愉しんでいるはずだ。
でも、すこし心がざわめいたのには、二つの理由がある。一つは、呪いつきや幽霊など非科学的なものを実際に見たこと。もう一つの理由は―――。
「だって、最近のジュードさん、変じゃないですか」
「あァ?」
「転ばないように支えてくれたり、外套貸してくれたり」
「いつもどおり、親切なジュートさんとちゃうの」
「昔は私が転んだら指さして笑う人でした」
「指なんか刺さへんわ。人聞き悪」
眉をひそめながらも、ジュードさんは転んだ姿を笑った事実は否定しなかった。
「それに、私が傷つけられたら、ひどく怒って……」
今夜、私にかすり傷を負わせた男を、怒りに身を任せて痛ぶっていたジュードさんの形相。それは出会った頃、わざと私を敵に捉えさせて薄笑いを浮かべていた彼とは、まるで違っていた。
あの頃とは、私たちの間で何かが変化している。お互い引き返せなくて、少しずつ感情が制御不能になっている。どうしようもないくらいに。
「とにかく、ジュードさんが優しいなんて、世界の終わりの前兆だと思ったんです…!」
それは嘘だった。
私の心をざわめかした、もう一つの本当の理由。それは死の予感を抱いたことだった。
今日の任務中に銃口を向けられて、死ぬかもしれないと思った瞬間に悟った。予言なんてなくても、明日、私の世界が終わりを迎えるともわからない。私が選んだのは、そんな残酷さをはらむ世界だ。
「世界が破滅するなら、伝えたい言葉があるって気づいて、どうしても伝えたくなったんです」
「……。ほーん。」
彼は暗闇に迷い込んだ儚い蝶に触れるような手つきで、そっと私の頬を撫でた。雑に煙草を押し潰した人とは思えない繊細な手つきに、微かに肩がびくりと反応する。
「なぁ、最期に言い残す言葉がそれでええの」
「え……?」
「俺に言いたいこと、他にあるんとちゃうん?」
頬を撫でた指先は顎の下に辿りついた。そこを軽く掴むとくいっと持ち上げられる。
「……っ」
もしも、これが最後の瞬間なら。私が伝えたい言葉は。
(あなたが、好き)
彼が私の耳元に唇を寄せる。吐息が耳をくすぐって、ぞくりと肩を震わせる。
「あぁ、それとも、俺に言わせたいん?」
きっと伝えたい言葉も、欲しい言葉も変わらない。
「ジュードさん、もしもこれが最後なら……」
突然、唇に柔らかなものが触れた。野暮な言葉を塞ぎたかったのか、その意図はわからない。けれど瞳を閉じてヴィランの口づけを受け入れた。それは、ずっと、欲しかったものだから。
どちらからともなく口づけは深くなり、舌が絡み合う。
私の口内を堪能した彼は、ゆっくりと唇を離すと、濡れた唇に柔く噛みついた。思わず、んっ、と艶めいた甘い声が出て、ジュードさんが呆れたような満足したような顔で嗤う。
「予言したろか?」
ジュードさんの白い肌が窓から差し込む月明かりに浮かぶ。その迷いのない眼差しは獰猛な光を帯びていて、目が離せなかった。
「明日、ここでしょーもない会合しよるやろ」
ちろり、と赤い舌が首筋を舐める。快感で身じろいだ身体は、彼に腰に抑え込まれて逃げることを許されない。
「そん時、ここで晒した醜態思い出しよって――」
「あっ…んっ」
首下に舌が這うと、ちゅっちゅっと音が立つ。私の羞恥心をかき立てる意図に気づいても、私の体は素直に火照りを増した。
「みっともない顔、晒して――」
ジュードさんが外套が足元に落としたのと同時に、肩に甘い痛みを感じた。ジュードさんに、噛みつかれたのだ。
「っ、んぅ…!」
「ここで、誰と、何しよったか、あいつらに筒抜けになる」
柔らかな肌をじゅっと吸われると、身体が快感で染まった。誰にも触れられないようにと守られていた肌が、今や彼の前にさらけ出されている。触れられるのを待つように、体が火照っていく。
私を見下す嗜虐的な瞳を思い出しながら、顔を上げる。月明かりの中、二人の視線が交わると、ジュードさんは、思いがけず優しく微笑んでいた。
「せやから、明日も生きとき?」
「………っ」
自分の死を予感した私を叱ることなく、体を包みこむ腕の中。ジュードさんのシャツをきゅっと握り込んだ。
(わたし、死ぬのが怖かったんだ)
蓋をしていた死の恐怖を自覚すると、彼の腕の中にいる安心感が胸に押し寄せてきて、すこし泣きそうになる。だから口を結んだまま、こくこくと頷くことしかできなかった。
は、と笑う彼の気配を感じて、すこし気持ちを落ち着けてから口を開く。
「わたし……もしも死んだら…なんて、もう考えません」
死ぬための言葉探しなんて必要なかった。彼に命を救われたなら、彼と生きるための言葉をみつけなければいけなかったのに。
「そうしとき。明日、ドMなお姫様の真っ赤な顔、見られんとつまらんからな」
再び唇が重なり合う。遠くの壁時計から日付が変わったことを知らせる鐘が響いて、新しい一日の訪れを知る。
世界の終焉は、私の秘めた想いを暴き出して、優しい明日を見つけてくれた。
この唇が離れたら、愛の言葉を伝えよう。そう心の中で誓う。今度こそ、あなたと共に生きるための言葉を紡ぎたい。
だけど、キスに溺れる私達は、唇を離しては、余韻に浸る間もなくすぐに唇を重ねた。まだもう少しだけ、この瞬間を抱きしめていよう。