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    Honte_OshiCP

    熱が赴くままに書いたもの達の保管庫

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    ハディクロチャン(遺言)

    夕刻と、彼と、バクラヴァと 今日は目が痛くなるほどに晴れていた。国王に報告を済ませて出た廊下の窓が、私の服とよく似た水色で埋め尽くされていた。アラビアンコーストの快晴はいつもあんな風だ。まるで自分が空色に溶けて消えるような錯覚を幾度と感じている。涼やかな青色の中に混じるからりとした酷暑と輝かしさが、私には肌に合っているらしい。廊下を通り抜ける風が私を撫でていた。
     それにしても、昼夜の寒暖差が大きいせいか、すっかり肌寒くなってきている。そう遠からず、羽織るものが欲しくなる時間が来るのだろう。近寄るダークパープルの帳を横目に、一度王宮を出た。小腹が空いたのだ。とりわけ、甘いものが良い。バクラヴァでも買ってこようかと市場を覗くこととした。
     夜になっても、否夜になったからこそ、この市場は賑わいを増すのかもしれない。原色に彩られたランタンが通りを満たし、肉の焼ける匂いやスパイス、甘いヤシのシロップが次々鼻腔をくすぐる。商魂たくましい人々のエネルギーとその糧が、自ずと私の臓腑を刺激するのだ。腹が減る、腹が減って命の糧を欲する。きゅるきゅると鳩尾のあたりが鳴く。辛抱たまらなくて少しだけファラフェルを買い食いしつつ、お目当てのものは通りの中腹で売っていた。
    「すみません、バクラヴァを一袋」
    「はいよ…っておや、宮殿のマジシャンの御仁じゃないか」
     代金を受け取りがてら、店の主人は私の身なりを舐めるように眺めていた。味が好みで時折買いに来るのだが、店主のこの無遠慮ぶりには些か閉口してしまう。物珍しそうな値踏みの視線は、やはりあまり心地の良いものではない。早々にやり取りを切り上げたくて袋をかすめ取ってしまう。
    「いつもありがとうございます」
    「いえいえこちらこそ! 毎度どうも。宮殿のお勤め人さんが買いに来るとあれば、いい宣伝材料になりますからね」
    「そんな、言いすぎですよ」
    「言いすぎだなんて旦那、あんたみたいな高給取りが買ってくれるってのは、俺たちにとっちゃ良い宣伝なんですよ。今後ともどうぞごひいきに」
     鬱陶しいほどの明朗を押し付けられ、顔が引きつらないうちにと後にする。バクラヴァが美味しいだけに離れがたいが、商魂たくましいにもほどがあるのはおよそ苦笑いが出てしまう。己の器の問題かもしれないが、どうにも彼と話すと気疲れが顔を覗かせる。早いところ戻って、落ち着いて食べたいところである。

     王宮はいつも通り静寂の場所で、思わず息をついた。時たま人々のエネルギーを一身に受けると──とりわけあの商人の男のような人の──、どうにも気を張ってしまう。肩を落とし、菓子の入った袋を提げて歩く道すがら、噴水前を通りがかった。すっかり暗くなり始めた景色は輪郭もおぼろげで不明瞭だが、そこに人影を見つけた。
    「…あれ、フリード?」
     聞き覚えのある声に肩の力が抜ける。どこか間の抜けた低音と同時に近づく真っ黒のシルエットの表情だけは、見えずとも予想がつく。あのにんまり顔だ。
    「クロちゃん、珍しいじゃないか。いつもジャファー様の所に居るのに」
    「フリードだって今市場のほうから来ただろ。おつかいか何か?」
     濃い黒紫に溶けだす服装の彼──クロちゃんとこんな時間帯に出会う事など早々ないがために、ついつい足を止めた。
     クロちゃんことクロイツ。彼の名前を、いつぞやシャバーンは長いと揶揄したし、クロちゃんという呼称もすっかり板についてしまったが、私は何故か後日聞いたその名前を覚えていた。案外格好良い名前だなぁ、なんて思っていたらつい口に出してしまい、喜ばれた事も記憶に新しい。もう一回呼んで呼んで、とはしゃぐ顔つきが幼かった。無邪気なのだ、こんな切れ長のアイラインと暗色で固められた装いのわりに。
     ふた言目を次ぐ前に、手の内にある袋に目ざとく気付いたようで、屈んで私の左手をじっと見た。
    「なにこれ、それ買いに市場に行ってたのか?」
    「バクラヴァだよ。クロちゃん甘いもの好きだったっけ」
    「あー割と好きだな、最近は自分から買うとかないけど」
     割と好き、という砕けた口調と、それに似つかわしいニュアンスに少なからず笑みがこぼれた。袋の中身を覗けば、ナッツ入りの焼き菓子が五つ。ファラフェルも食べたことを思い出した。そこまで大きな菓子ではないが、バターシロップのかかった甘いパイ菓子五つは胃に重たい。ちらりと目の前の彼を見た。すん、と鼻を鳴らす姿が目に留まった。
    「よければクロちゃんも食べるかい? おすそ分けって事で」
     私の提案に、クロちゃんがぱっと顔を上げた。にぱぁっと笑みが咲く。
    「え! ホントに良いの!?」
    「もちろん。五個入ってるし、ちょっと食べなよ」
     袋を軽く開けて見せると、分かりやすく嬉しそうに中身を覗き込んでいた。いい匂いするなぁ、という呟きが聞こえる。一刻も早く食べたそうにしているが、もうほとんど陽は街並みの奥へ隠れてしまっている。もう少し明るい場所で食べないかと提案してみれば、快諾の返事が投げられた。連れ立って、私たちは噴水の飛沫から遠ざかる。

     クロちゃんもジャファー様の下に仕えている以上は王宮に出入りしているとは思うのだが、なかなか顔を合わせる機会はない。主の居る場所が遠いのだから仕方がないのだが、それゆえか日頃、真昼の邂逅が喜ばしかったりもするのだ。彼が黒魔術と称するようなものを披露して歓声を得ているのを、遠目から見た数は少なくない。
     長い渡り廊下の一角で立ち止まった。赤いアラベスクのシェード越しに、ランタンの灯りが注ぐ。広いベンチがひとつ置いてあるその場所で腰を下ろした。
    「五個あるんでしょ。綺麗に分けられないけどどうするんだ?」
    「最後の一個は…そうだなぁ、食べたいほうが食べればいいんじゃないかな」
     クロちゃんのほうへ袋を渡す。ひとつを取り出した彼は、私に袋を返した途端、待ちきれないと言わんばかりに菓子を齧る。ひと口ふた口と咀嚼して間もなく、彼の眦がへにゃりと下がった。美味い、とひと言呟いた彼の顔はなんともだらしなくて、およそ黒魔術師のそれとは似ても似つかない。彼の反応を見て、私もバクラヴァを齧る。なるほど、時間が経っても美味だった。ざっくりとナッツが砕けて、ほろほろとパイ生地が舌の上で崩れる。シロップの濃厚な甘さと食感、これが食べたくて時折買いに行ってしまうのだ。
    「これ美味いな! 市場のどこで売ってるんだ?」
    「通りの中腹にある店だよ。恰幅が良い店主が居てね、バクラヴァとナッツをいつも売ってるから行けばすぐわかる」
    「へぇ、たまには買いに出ようかな」
     カリカリと生地に歯を立てる音がする。横目に見た顔は未だ綻んだままで、転げ落ちそうなカシューナッツを慌ててつまんでいた。ごつごつとした無骨な指だ。普段あれだけの芸当をこなすのだから当然と言えば当然なのだ。しかし、こうしてまじまじと見る事はない。所々に細かい切り傷の痕があるのも、今初めて知った。
    「え、フリードはその店によく行くのか?」
     私の考え事などまるで知らず、クロちゃんはひと口だけ残して菓子を食む。少し下ろされた手首に血管が浮いている。
    「まあ、時々行くってくらいかな。あんまり店主が得意じゃなくて…」
     つい愚痴じみたことをこぼしてしまったと、言ってから気付いた。他意なく、ただこのバクラヴァを好んでの意図で彼は訊いてくれたのだ。私個人の物差し云々など差し込むべきではないし、そもそも彼はその手の話を好まなかったはずである。生来からであろう人の善さが抜けない彼だ。
     しかし、そんな私の逡巡に構わず、彼の目が控えめに開いたのが分かる。
    「え、どうしたの。意外だな、フリードにも苦手な人って居るんだ」
     あっけらかんとした口ぶりだった。そこに何も嫌悪が滲んでいないことに、少なからず驚いた自分が居た。先ほどのちょっとした申し訳なさも危うく吹き飛ぶような、実にからりとした口ぶりだった。ぽすん、と肩を叩く感触に目を向ければ、クロちゃんは流れるような身体運びで私の肩を包んでいた。
    「ま、苦手な人の一人や二人くらい居るか。良かったぁ、お前も人間なんだな~」
    「…なんか、気を遣わせてしまったならすまないね」
    「なんで? フリードは訳もなく陰口言う人じゃないからいいの」
     もう一個貰っていい、なんて機嫌よさげに問うクロちゃんに、我に返って袋を差し出した。遠慮なく一番焼き目のきれいなひとつを持っていく彼に、少しだけ笑う。遠慮が無いように見えて、案外他人に対して思慮があるのだ。器の大きい人だと気付いたのはいつ頃だろうか。隣に座る彼の目は、ひどく優しいのだ。甘い焼き菓子を見つめるのと何ら変わらない目つきで、私や仲間たちを見ている。先ほどのおよそ毒の無い言葉と相まって、もはや彼が何故黒魔術師などという肩書にこだわるのか、私にはわからない。
     彼に倣って、バクラヴァをもうひとつつまんだ。だいぶしっとりとしてきた生地がほろりと指先で崩れかけて、慌てて頬張った。やはり、歯が疼くくらいに甘かった。

     二つ目を食べ終えようとした時、最後のひとつをどちらが食べるかまだ決めていない事を思い出した。クロちゃんはというと、とうに二つ目を食べ終えている。なんだかんだ言って美味しい物に目がない彼の事だ。三つ目もぺろりといけるだろう。とはいえ、私も少々物足りなさを感じていた。思っていたよりもしつこかった空腹に苦笑いせざるを得ない。
    「一個残ってるけど、クロちゃん食べるかい?」
     私の問いかけに、クロちゃんは弾かれたように視線を向けてきた。いいの、なんて年甲斐もない嬉しそうな声がする。シルエットが近づいた。期待に満ちた目線とともに、彼が身を乗り出してきた。良いものを見せてあげる、などと唆された子供のようだった。そんな姿を見せられては、譲らないなんて選択肢など吹き飛んでしまう。私がこのやけに人懐こい友人に甘いだけなのだろうか。快諾を言葉に乗せて、袋ごと渡した。わあい、とまた間延びした歓声を聞いた。
     そのまま、ひと口に食べるものだと思っていた。そのつもりで、私は暇しようと腰を上げかけたのだ。
    「ね、上手く割れないんだけど」
     そんな矢先の言葉だった。振り返った先に居た彼が、まさにバクラヴァを割り分けたところだった。パイ生地が歪な二つに分かれたのを見て、細い眉毛がへの字に情けなく垂れ下がる。もれなく唇もへの字になっていた。動き損ねた私を見上げるクロちゃんの目は、ひどく申し訳なさそうに揺れていた。
    「ごめん、だいぶ不平等なんだけど…」
     おずおずとつままれたパイがほろりと崩れる。あ、とこれまた残念そうな声とともに、少しだけこぼれた生地を見ている彼が居た。
     これだからクロちゃんという人は。耐えきれず破顔してしまった。再び隣に座った。目に見えてしょげている顔と向き合う。
    「なに、分けてくれるの? クロちゃんが全部食べてよかったんだよ」
    「だってさっき、割と欲しそうな顔してたぞ? もうちょっと食べたいのかと思ったし、それで半分あげようと思ったんだけどこんなことに…」
     見てみると、なるほど、右手に持った欠片のほうが少しだけ大きい。二等分に失敗してしゅんと項垂れる姿を、少しだけ可愛らしいと思った。似つかわしくない語彙だとしても、その姿を言い表す語がそれ以外見つからないのだから致し方ない。どこまでも優しくて茶目っ気のある人だ、この人は。
     君の好きなほうを選べばいい、そう伝えた。少しだけ困った顔をされたが、もともと君が食べていいと渡したのだからと伝えると、しばし迷ったのち、彼は左手のバクラヴァを私に差し出した。やっぱり、この菓子を気に入っているようだ。若干真ん中のへこんだ焼き菓子を受け取る。
     ──子供っぽい言葉選びをするのなら、半分こだ。
     そう考えるとなんだか気恥ずかしいような気もしてくる。平然とそんなことをやってみせるクロちゃんに、面食らうやら微笑ましく思うやら。ひと口齧った。話す事も見つからないので、おのずと無言になる。さくさくという咀嚼音だけが聴こえている。クロちゃんも無論、何も話してはこない。食んだ焼き菓子は甘く、もれなくこの沈黙に満たされた匂いは芳しく、頭がぼんやりする。疲れとは違う、この酩酊にも似た頭のもやはなんだろうか。癖になってしまいそうだ。

     食べ終えようとしている頃だった。隣からしていた音がふと止んだ。あとひと口だけ残っている菓子をつまんだまま隣を向くと、まじまじと私を見つめるクロちゃんと目が合った。どうした、とだけ発すると、彼は何やら泣きそうなまでに顔を歪めて言った。
    「…もしかして私、めちゃくちゃ恥ずかしいことした?」
     気まずさと申し訳なさにあふれた涙声でそんなことを言われ、私はとうとう声を上げて笑ってしまった。気にしないでくれと伝えるも、おろおろとシロップでぺたつく手を彷徨わせる彼は、ごめんって、と繰り返すだけだ。嗚呼、まったくもって可愛らしいと言うほかない。認めよう。クロちゃんという人に対して、私は今、途方もないほどに可愛いと感じてしまったのだ。
     かろうじて彼を宥めた後も、食べ終えたはずのバクラヴァの甘さは消えるどころか増すばかりだ。クロちゃんの手で折り畳まれた包み紙を見て、またあの店で買ってこようかとも思う。不思議だ、ついさっきまであの店に近寄りがたさすら感じてたのに、目の前で朗らかに笑う友人の為とあれば、自然とまた足を運びたくなってしまう。
     今度も五個入りのバクラヴァを買ってきたら、彼は嫌がるだろうか。
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