冷たい透明ガラス越しに眠る顔はあどけない。いつも通りに届かぬ言葉を延々と投げかけて、気付けばもう三十分だ。そろそろ監視業務に戻らなければならない。後ろ髪を引かれる思いで、ひどく寒い部屋の扉を閉めた。
名残惜しいかと問われれば、それには否と答えるつもりである。才能ある文化人に対し、“あれ”は最上級の褒章の類なのだ。未来までその価値を伝えるべき、いわば選ばれた者だけがあの部屋に眠っている。エイスケさんはその名誉ある一人に選ばれたのだ。私としても誇らしく、同時に当然だとも思う。彼のグラフィティアートを間近で見ればわかる、彼の心の躍動がカラースプレーとともに刻まれているのだ。世界に轟かせたその息吹は、私から見てもひどく鮮やかだった。
無機質な廊下の両端は、エイスケさんが居た部屋のように、重厚な扉で埋め尽くされている。もうじき収容にも限界が来るだろうという上層部の声も聞いたことがある。そうしたら、エイスケさんの居た部屋も、また誰かによって埋められるのだろうか。そう考えるとなんとも勿体ないような気もする。そもそもあそこまでの影響力を持つ文化人など今後現れるのか、懐疑的ですらある。
監視室のモニターに目を通すと、油絵制作に勤しむ者、暗い表情で楽器に触れる者と様々な保護対象が、無機質の白の中に溶けていた。その中で、三日前に収容したばかりのアーティストと画面越しに目が合った。木工細工の材料を机からなぎ払い、こちらへ向かって怒鳴りつけている。見てんだろ、ここから出せよ、と口が動いている。この噛みつき方が、どうにも気に入らない。喧しくて目障りで、三秒と見ていたくない程には不愉快だ。保護されるという事がどれほど輝かしい賞賛の表れか、誉か、何も分かっていない。
しかし、この姿とここに来たばかりのエイスケさんの姿が重なる。不思議だ、彼も同じように跳ね返りのひどい青年だったはずである。だというのに、思い出される有様はひどく愛おしい。真っ白な塗り絵を前にした気分だったのだ、あの時は。少しずつ染めていけばいい、そう思う事すら楽しくて仕方なかった。
相変わらず画面の彼は怒鳴っていた。なんだか煩わしさで眩暈がする。早々に申し訳ない事だが、相澤さんに暫し監視を代わってもらう事とした。
外の空気でも吸おうかと思ったが、私の足は、建物の出口には向かなかった。代わりとでも言うように、静かな一室の前で止まった。吸い込まれるように扉を開けた。
採光に長けた真っ白な部屋は、限りなく薄い人間の匂いと、スプレーの匂いで溢れていた。ある程度の整理が一度か二度行われただけの彼の部屋は、ほとんど彼の居なくなる前のままである。部屋の中に数枚の作品が残っている。描き上げて乾かしていたものや、まだ完成に至っていない物も立てかけられていた。作品の扱いに関しては、上層部の人間の管轄だったため私は触っていない。だが、まだ世に出す前の作品がここにあるのだ。私が触ってよいものではないと知りつつも、どうしても手が伸びる。
一枚一枚、どれも精巧な描きこみと大胆な構図が目を惹いた。ドンと目一杯広がる真っ黒な花、原色の鮮やかな人間の顔、どれも独特で彼らしい。荒々しく心をつかむのに、胸を染める残り香は果てしなく自由で、どこか儚い。出会った当初と、最後に目にした笑顔が私の脳裏によみがえる。荒くれた青年だと思っていた彼は、私の想像よりもずっとナイーブで臆病だった。怯えと自己防衛の裏返しの怒りと知ってからは、彼が胸に棲みつくようになっていた。彼の眼差しが私の内に深く刻まれた。キャンバスに吹き付けられたカラースプレーのように、どうにも剥がれはしなかった。今もなお、だ。
素晴らしい作品群だ。しかし食い入るように絵を眺めていた最中、ふと気づく。記憶よりも、残っているキャンバスの数が多い気がする。重なった作品を丁寧に退け、一番奥に重なっていた白地を引っ張りだした。
出てきたのは、私も見た事の無い三枚だった。私が気になったのは、それらが未完成だからではない。その作品が、彼の作風にはおよそ似つかないものだからである。淡く、花束のようなカラーリングの三枚であった。ミハルさんに捧げた女神の一枚とも違う、本当に消え入るような彩色だ。それなのに、妙な存在感がある。まっさらな部屋の中で、その三枚はまるで命そのものだった。
彼が、佐倉エイスケが渾身の表現力を絞ったものだ。直感的に悟った。
眺めるのも恐ろしいほどに優しく強かな三枚を、それでも私は見ていた。一枚目は、真っ黒な背景に点々と散る白色の中咲く、薔薇だった。背景は、遠目から見てドットだと分かった。彼らしい仄かな毒を感じるものの、それは紛れもなく、愛らしい作風だった。スプレーでよくもまあ大胆なドットを表現するものだと感心してしまう。エイスケさんの技量が為せる技だ。
二枚目は打って変わって、ティーセットの中に真っ白な花々が浮いていた。星空のような深いダークブルーのカップと、黒いラインで縁取っただけで見事に表現された白いダリアと百合が目を惹く。スプレーアートだという事を忘れかけるほどの表現力だ。ティーカップの横に、ティースプーンが添えられていた。光沢の描写まで精巧な、柄の先に馬の頭が付いた優雅なスプーンだ。
──妙だ。どこか、この絵画達は妙だ。胸騒ぎがする。美しいのに、焦燥感がつのっていく。絵の中のモチーフたちが鼻先まで迫って来るようだ。落ち着かない心地がする。三枚目を覗くのが恐い。それでも自分の手を止めることが出来ず、私は最後の一枚を抱えた。三枚目は、未完成だった。背景は眩いイエローが散らされていたのだが、私の目を惹いたのはその鮮やかな黄色ではなかった。
中央に重ねられているのは、人間のシルエットだ。スーツ姿の、ステッキを持ち背筋を伸ばした人間の姿。スプレーの飛沫でうっすらと光が当たっているようにも見える。迷いなく引かれたラインで脚が、腕が形作られている。胸から上は、まだ輪郭だけで姿を成していない。それでも、この一枚を見た瞬間に私は全てに納得がいった。
私だ。一枚目、二枚目も、この最後の三枚目も、モチーフは私だ。
触ってはいけないのだ。それでも、私の指がキャンバス地をなぞった。思えば、これをエイスケさんが描いている所には立ち会ったことが無かった。いつこんなものを描き進めていたのかと訝るもつかの間、夜間はカメラを切っていた事を今しがた思い出した。真夜中、月明かりだけを頼りに、彼は何を思ってこれらを描いていたのだろう。眠る時間すら削りかねないのに、夜闇の中で彼は、私を描いていた。
──そういえば、彼が一時期隈を作ってまで作品を描いていた時期があった。SNS世界トレンドの一位に入ることが多くなってきたばかりの頃だった。よく眠れていないのかと案じた私に対して、彼がいつになく柔らかい笑みを浮かべて言った言葉がパチンと頭の奥から弾き出される。
「まだ世に出せないけどさ、描いてるやつがあんの。ま、出せるかもわかんないけど」
その時確か、私はその言葉を妙に面白くないと感じていた。貴方の作品ならばどんなものでも人の心を動かせるのに、と異を唱えたことも覚えている。彼のはにかんだ顔に構わず、自分は何と言っただろうか。
「もし完成したならば、是非とも大々的に世間へ羽ばたかせてほしいものです! 人類の宝なんですから、その作品は数多の人々の目に触れなければ!」
惨いまでに白く温かい部屋の中で、佇んでいた。この作品を、それでも彼は描いてくれた。そして、描き続けてくれた彼は、この部屋にもう戻ってこないのだ。この絵は、世に送り出すどころか、完成を待たずして葬られてしまった。否、我々が葬ってしまった。
「…完成まで、待てばよかったのかもしれませんね」
懺悔のような呟きがこぼれた。キャンバス地を元通りに、最奥に押し込めた。動けなかった。初めて、人類の宝の保護を恨めしく思った。初めて彼の内面に触れた気がしたというのに、その表現を、心の発露を奪った。この仕事を始めて以来、一度たりとも覚えた事の無いものがこみ上げる。
寂寥、悔い、空虚。何より、焦がれてしまいそうなのだ、ただの保護対象一人に。
否、もう焦がれているも同然か。乾いた笑いが漏れる。完全に私の落ち度だというのに、おかしいほどにエイスケさんに対する言葉が溢れては、形にならず消えていく。嗚呼、でもこんな作品を創ってくれていたのなら──。
「もう少し猶予が欲しいと、言ってくれればよかったのに」
二度と届かぬ利己の叱責を、二度と染まらぬキャンバスに押し付けた。