金製の彫像が動き始めて久しい。戯れが許される立場として、時折この彫像の手入れも兼ねて観察することが増えた。
彼ら──などという人間的呼称を用いて良いのかは分からないが──を見ていると、その表情や仕草が想像よりはるかに豊かな事に驚く。彼らの出自は知らない。主に訊いても、よく覚えていない、としか返ってこないからだ。しかし像の挙動はさながら生ける人間で、無邪気に笑い、音楽に身を委ねる。我々とはまた違う魔法の賜物であると悟るのだ。
彼らの手入れは至って難しくはない。金製の彼らはおよそ錆びる事も翳る事も知らず、半ば悠久の時を変わらぬ姿で過ごす。弛まない美を、宴に誘われた人間は羨み、崇敬する。そんな彼らに我々がすべきことなど、せいぜい魔力が絶えていないかの確認か、軽い埃払いくらいなものなのだ。今日も、門扉を開けて彼らの姿を目に留めた。じきに新月となる月明かりの薄い夜闇でも、彼らはまるで光を放つように美しかった。ゆるやかな光沢が頬と鎧をつつむ。ため息をついて像を見上げた。
軽く埃を払いのけながら、ふと思い出したことがある。宴の最中に見せた挙動にゲストがどよめいていた。近場で見ていた同胞から話を聞く限り、どうやら足を振り上げたようだが、その柔軟ぶりが歓声の訳だったようだ。それを思い出した途端、私の脳裏に過ぎる言葉があった。
この彫像、可動域が広いのではないだろうか。広いのであれば、どれほどなのだろうか。
ちらりと横目で像を見た。彼らは相変わらずはたきを持つ私の手を受け入れており、その顔は至って平静である。こうして埃払いをしているあいだ基本的に動きはしない。私たちが呼びかけるか、主が呼びかけなければ、彼らは動かないようにという教えに従っている。特によく考えもせず、私は彫像に呼びかけた。
「ねえ、今動けるの」
そう告げて少しすると、一方がややぎこちない動きで私の方を向いた。もう一方は眠っているのか、動く気配が無い。なぁに、と尋ねてくる子どものような目が私を捉えた。彼らは話せない。それらしい仕草や口をはくはくと動かすことで意思疎通が叶う。最初こそ四苦八苦したものの、今はだいたい何を伝えたいのか推しはかることが出来る。今向けられた無垢な目も、私への警戒が無いことの顕れだ。次の言葉を待つ顔に、私は正直に疑問を伝えた。
「ねえ、貴方って身体が柔らかかったりするの? もし柔らかいなら、どこまで動かせるの?」
私の質問に、意表を突かれたような顔で彫像は首を傾げた。どうしてそんなことを、と心底不思議なようだ。無理も無いだろう。夜分、よほどのことが無い限りは動かされる事も無い中で呼び声がかかったと思えば、突拍子もない質問が飛んでくる。私がされたって同じ顔をするだろう。
「いや、ちょっと気になっただけ。本当に何でもない事訊いちゃってごめんなさいね」
私がそういうと、彫像は意味合いをようやく咀嚼したようで、コクコクと頷いた。そしてそのまま、一度周囲を見回した後、何にも当たらないように足を振り上げたのだ。思わず私も声を上げた。するりと伸びた足はゆうに140度を超え、その可動域に私は素直に感心した。
「すごい、身体が柔らかいって本当なのね」
私の賛辞に、それはなんとも嬉しそうににかっと笑って足を指さす。実に嬉しそうで、誇らしげな顔つきをしていた。そしてそれに飽き足らず、今度は床にすっと座り込んだ。何してるの、と尋ねる私に、彫像は指をくいくいと動かして見せる。見ていろ、と得意げに目を細めるのが分かった。そうして先ほど振り上げた足を、地に這わせてがっと割り開いた。ほぼ一直線に開いた足は一本のラインみたいに美しく、それを等しく照らす月が艶めいたこがね色を映し出す。滑らかな体表と余裕綽々の表情、そして金属製の身体に見合わない軟体は調和がとれている。なるほど美しくて、私は再び素直に感心を口にした。相変わらず柔い笑みで答える彫像は、依然として足を開いたまま床に座り込んでいる。
しかし、ここで私の中に新たな疑問が浮かんだ。この体が柔らかいのはよくわかった。
ならば、どこまで押し開くことが出来るのだろう。この様子なら、あと少しだけ、20度程なら圧をかければ曲がるのだろう。ならば、その先は。
彫像の前に跪くと、彼は再び無垢な目つきを私に向けた。まだ見せてほしいものがあるの、と訴える目線を受け止め、分かりやすく頷く。私が隣に這いずると、像は何も疑念を持たずスペースを空ける。顔を合わせる事の多い私や皆には、従順で疑う事を知らない彼らだ。それを今まざまざと見せられ、あまりよろしくないモノがこみ上げた。
「…もう少し、出来るんじゃないかな」
そう伝え、私は彼の片足に手を添えた。不思議そうな顔をしつつその手を退けない彼の目をじっと覗き込みながら、私はその足をありったけの力を込めて持ち上げた。魔法による助力が無ければ、とてもじゃないが持ち上げられないだろう。私の行動がまったくの予想外だったのだろう、彫像の目が一瞬見開かれた。
「ちょっと付き合ってね、ごめんね」
断りを入れ、私はその足首を両腕で支えながら持ち上げる。ぴったりついた右足を軸に、精巧に造りこまれた左足は床から離れていく。200度に近づいてくると、彫像の顔が少しだけ強張るのが分かった。経験の無い鈍い感触が、私の手にも伝わってくる。戸惑っているのだろう。それを振り切って、ひとまずひと押しで一度止める。200度と少しと言ったところだろうか。
「どう? まだ頑張れそう?」
私が尋ねると、彫像は眉尻を下げてはいるが、こくんと頷いた。心なしか不安の滲む顔つきは馴染みのない気色をしていて、なんとなく、そうなんとなく、私の中に何かを燻らせた。
ぐ、ぐ、と本格的に体重をかけるように腕に力をこめ、足を持ち上げ、押し開いていく。手の伝わる金属特有の硬く凝り固まった感触に逆らう。一定の高さまで持ち上げると、明らかに返ってくる圧力が質量を増した。230度に届きそうなところなのだ、当然かと躊躇を呑み込んだ。ふと、彫像の様子が気になって、手の力をゆるめないよう気遣いつつ彼の顔を見た。
私の方が動きを止めそうになった。
冷徹さすらある常とは違い、ひどく弱々しい表情が歪んでいた。唇を引き結び、半分閉じかけた瞼はぴくぴく震えている。なにより、冷や汗が滴る頬に驚いた。よくよく考えれば水を欲するのだから、液体の類がその身から出ていくのは至って当然の気もする。しかし、パーティーでこんなふうに苦痛の発汗を見せた事は無い。ドクドクと脈拍が騒ぐ。この彫像の顔つきが、燻っている何かを煽り立てている。それは否みようが無い。
呆然と見つめる私の視線がその顔に刺さったらしい。彼はおもむろに私の目を見つめ返すと、震える目元も隠さずにすがる視線を寄越した。許しを請う人間の目によく似ていた。
──ダメだ、ここで辞めてなんかやりたくない。初めて卑しい劣情がこみ上げた。
すっと再び両手を足に添え、持ち上げる。先ほどよりも、力を込めて、仄暗い嗜虐欲を込めて。無理を強いて持ち上げた足は250度程度だろうか。あと少しで床から垂直にこの足を伸ばせる。月明かりが真上から注ぐ中で、高く持ち上げた黄金の足はさぞや美しいのだろう。その様を眺めたい、という思いが私を駆り立てた。
彫像の顔はすっかり歪んでいた。ぎゅっと結んだ唇はもう閉じる余裕も無いようで、薄く開いた唇の隙間から、は、は、と短く苦しげな呼気が漏れ出ていた。時々動く唇は絶えず、だめ、やめて、と音もなく訴える。地に着いたままの右足はかくかくと震えており、足先が疼痛をこらえるように丸まっている。それが殊更たまらない。
「ふ、ふふ、大丈夫だよ、あと少しだから」
あと20度がなかなか進まない。人間だったらきっと、関節など無様にもごっきり外れているのだろう。しかし相手は彫像なのだ。硬くこの上なく丈夫な、金属像だ。壊れる事の無い美はきっとこのまま折れることなく、ひどく硬く柔く、私を満たしてくれる。私はほとんど横向きになったその足に、身体を凭せかけた。斜め下の口から震えた息遣いを聞く。もはや私の半身に伝わる衝撃は、ぎぃぎぃと鈍い音を立てて主張する。拒絶と限界が私を押し返そうとしている。昂る劣情を抑えられない。
「ね、苦しいよね、ごめんね、もう一気にいこうね」
告げた瞬間、初めて彫像は首をふるふると横に振った。もう無理だ、と泣きそうなほどの歪んだ目が私に向けられる。もう辛抱などできなかった。
地を踏みしめ、一挙に体を押し付けた。
ぎぎ、ぎご、と悍ましいほどに金属の足は軋んだ。それと同時、黄金のつま先は月を向いて確と伸びていた。ほぼ完璧に床と垂直な左足に、昂揚のため息が出る。
「…ひ、は…~~~ッ…!!」
一気に距離の縮まった先で、質感の硬い唇から力なく吐息が吐き出される。ぎゅっと鎧の胸元を握りしめる両の掌からもきりきりと微かな音がしていた。かくかくと全身を不規則に震わせ、涙も無く彫像が泣いている。もうこの辺りにしないと、明日のパーティーにも影響が出てしまいそうなのを直感した。
足を解放すると、ガタンという衝撃音とともに左足が地面へと叩きつけられた。放心と怯えの様相を見せる像を引き寄せる。
「ごめんね、でもよく出来たね」
床に伏したまま、彫像はもはや私に拮抗する余力も無さそうにもたれかかってきた。ぐったりと重たい質量が私の肩へのしかかる。ごめんね、と何度か口にすると、小さく震えながらも彫像はおずおずと私の手を弾くにとどめてくれた。その手つきが明らかに力なく、且つ優しい事にも歪な温い情が湧きあがる。己にこんな汚らわしい嗜虐欲があったとは、と思い知らされた。そんなこともつゆ知らず、彫像は私の肩で震えている。
青白い月が、投げ出された黄金の足を慰むように撫でていた。