サンクチュアリに春の香を 教会の内側から微かに聴こえる声に、耳を澄ませていた。以前口にしていた適当な祈りなんかではない、由緒正しき格式に沿った言葉だ。途切れ途切れに聴こえてくる。
今日が日曜だという事を忘れていた。慌てて教会へ向かう後ろ姿を見送ったのが一時間弱前だ。寝起きの悪さが折り紙付きである自分は、結局その後も二十分ほどベッドに微睡んでしまった。
それにしても、昨晩散々好き勝手されていたとは思えない身のこなしだったと思う。
受け入れる立場は負担が大きいんだぞ、といつぞやの朝に言われたことがある。腰が痛い、と呟いて、軽くウエスト部分を捲って、そこかしこに散らばる赤色に顔を顰めていた。すまない、と形だけの謝罪を返すと、苦いような、それでいて寛容な笑いを返された。ふにゃりと下がった目尻は、夜分のあの目よりもいくらか照れくさそうだったと記憶している。まぁ、その日もケントは、元気に朝のホットドッグスタンドへ走っていったが。
ところで、祈りはもう暫し終わりそうにない。どうしようかと考えあぐねた矢先、近場のコーヒースタンドの事を思い出した。先月リニューアルしたそのスタンドは、ケントが時折ラテを買いに寄っている場所だ。教会の手前の角を曲がって道なりに行き、歩いて十分かかるかどうかという近場なのだ。
「…ちょっと買ってくるか」
寄りかかっていたレンガから背を離す。遠ざかる澄んだ空気にほんのすこしだけ名残惜しさがこみ上げ、足を速めた。
二人分のペーパータンブラーを抱えて戻ると、高い扉の内からぞろぞろと人々が出てきた。穏やかな顔つきで街へ消えていく信者の面々に会釈だけして、俺は入口の階段の一段に腰掛ける。最後に出てきた穏やかそうな老齢の女性を見送ると、背後から足音が響いてきた。教会の最奥から響く、少々急いた足音だ。
「さっきのおばあちゃんと話が長引いてしまったよ。いっつも熱心にお祈りしてくれるもんだから、邪険にも出来なくてね」
「いいじゃないか。親切そうな女性だ」
キャソックを揺らして歩いてきたケントは、外の空気を吸って伸びをひとつ。朝見た時よりもしゃきっとした目を、正午近くの陽光の下で細めていた。階段の手すりに身体を預けた彼に、俺は片手に持ったタンブラーを差し出した。プリントされた店のロゴで、彼はこのコーヒーが例のスタンドで買ってきたものと察したらしい。嬉しそうに受け取った。
「買ってきてくれたのか。助かるよ、ちょっと眠たくなってきたところなんだ」
飲み口を開け、控えめにコーヒーを呷る。それに倣って、俺も自分のラテに口をつけた。ちょうどいい苦みとコクに、まろやかなミルクが優しい。鼻に抜ける香りとともに息をついた。なるほど、ケントが度々買いに行くのも分かる。
「今日のおすすめってあったから買ってきたんだが、それでよかったか?」
「あぁ。今日はメープルラテだったらしいな。前々から気になってはいたんだけどな、甘過ぎたらどうしようかと思って買えずじまいだったんだ。美味いよ」
「ならよかった。にしても、ここのコーヒー美味いな。俺もまた買うかもしれない」
とりとめのない会話とコーヒーを交互に口にし、道行く人々を眺めた。ぼんやりとした真昼の輪郭の中で影が揺れる。見覚えのある顔をひとつふたつ見送り、だんだん軽くなっていくタンブラーを傾けた。
暖かい。とても暖かく、気が抜けそうなほど穏和な昼前だ。
手すりに寄りかかってたせいかちょっと脇腹が痛い、とケントが言った。階段に腰掛けた自分の隣はどうかと尋ねると、数秒考えたのち、お言葉に甘えるよ、と腰を下ろしてきた。メープルシロップの香りが近くなった。
そこでふと、ケントの背後にあった樹木に目が吸い寄せられる。ケントが場所を移ったことで見えた黄色の花から、青さを纏った甘い香りがふわりと漂う。思わず鼻を鳴らして香りを吸い込んだ。
「いい香りだよな。ミモザが綺麗に咲いてるんだ」
ミモザを一瞥したケントが、ラテを啜りながら答える。束の間風が吹き、メープルのこっくりした甘さとミモザの青い甘さが混ざりあった。眩暈がしそうなほどに鼻腔を満たした香りで、視界がふわりと揺れる。
「誰が植えたのかは知らないけどな。いいじゃないか、教会から出ればこの香りがあるのも」
「へぇ、アンタもそういうのに風情を感じるような感性持ち合わせてんだな」
「俺をどんなヤツだと思ってるんだ君は」
軽口を叩くケントに笑いだけ返し、俺は少しだけ腰を上げ、ミモザに顔を近づけた。
しなだれかかる黄色が視界を埋める。むず痒くなるほどにくすぐったく、甘い。この香りを嗅ぐたびに、春を体に取り込める気がするのだ。物理学ならびに数値やデータばかりを食ってきて、移り変わる季節を謳うような感性はあいにくと十分に育ちきっちゃいない。でも、ミモザだけは違うのだ。
──ベン、見て。今年はいつもより花が綺麗についてる。
記憶の奥で、ストールを揺らして花を眺める後ろ姿が駆けていく。俺と同じ黒い髪の、誰よりも華やいだ後ろ姿だ。春になるたび、彼女はミモザを愛でていた。
今はすっかり前を向く覚悟を持ち、彼女との日々も記憶にとどめて反芻している。新しい人間関係を築く覚悟も、今はある。すべてが違う。それでも、ミモザは特別だった。
どうしようもなく声高に春を謳う花だ。甘やかで淡い追憶に染まる、切ない春を謳う花だ。
ラテが半分ほどまで減った頃、ケントがミモザの枝をほんの少しだけ手折って渡してきた。そんなふうに折っていいのかと少々訝ったが、それもお構いなしというふうに、ケントは肩をすくめて俺の手に枝を握らせてきた。空いていた左手が甘い香りに包まれる。
「いやしかし、本当にたくさん花がついてるじゃないか。よく育ってるし、本当にきれいなもんだ」
「なんとなく気をつけて育てようと思ってね。俺も草花に優しいくらいには、敬虔で心優しい神父になったもんだろ」
「自分で言うかよ、そんなこと」
手元のミモザを眺めていると、ケントは傍らにタンブラーを置いた。相変わらず、横で揺れる樹を見ている。いつになく澄んだ目をしていた。初めて家に押しかけて来た瞬間の顔つきも悪くないとは思っていたが、こうして見る横顔はなんと言うべきか、とても淡い。毒の抜けた表情をするケントに、未だ、ふと新しさに目を瞠る事がある。
「なぁベン。君、ミモザの花言葉なんてのを知ってるかい」
予想だにしない言葉に、思わず聞き返してしまう。依然ロマンチックさも嫋やかさも感じさせない男の口から花言葉なんてファンシーな単語が放たれれば、誰だって当惑するだろう。噎せそうになりながら、ケントの言葉を反芻した。
「花言葉って…アンタそういうの齧るのか」
まぁね、と答えたケントは、ほんのり得意げだった。髭がほんのりと影を落とす首筋が、陽だまりの暖でうっすら紅を帯びる。いかにもご教授すると言わんばかりに人差し指を立て、ケントは口を開いた。
「ミモザの花言葉ってのは、主に友情だとか感謝の言葉が多いんだ。思いやり、友情、感謝ってのらしい」
「ふぅん」
こちらの反応が薄いことが不満だったようで、ケントは分かりやすく不満げに眉を顰めた。ここで機嫌を損ねるような事をするのもなんだと、怒らせない程度の相槌をひねり出す。知らなかった、良い言葉だな。そう返そうと口を開きかける。
が、その前に再びケントが言葉を繰った。なんでもなく息を吐くように言った。
「あぁ、あとな、秘密の恋ってのもあるそうだよ」
あぁそう、と返した。返して初めて、何かが引っかかるようで思考が鈍る。手折られたミモザを前に、自分が間抜けた顔をしたのが分かった。ほとんど反射的にケントを見た。
「…どうしたんだ?花言葉を言っただけだが」
「あぁ、いや、その…何でもない」
「それにしちゃ、君には似合わない随分なアホ面だなぁ」
にんまりと笑うケントの顔を、どんな表情で見たらよいのか分からないのだ。真意の読めない吊り上がった口角、帽子の影の中で下がる眦。表情に刻まれたすべてが、何故だかとても艶美に見えた。
何を思って、彼は“秘密の恋”と告げたのだろう。なにより、俺はどう返すのが正解だったのだろう。
「ははは、君は相変わらず若造ってことだ。ベン」
笑いながら、ケントは愉快そうに俺の肩を叩く。ぼすん、とひとつ響いた衝撃に後押しされるように、彼の手の感触が僧帽筋に滲む。俺よりもほんの少し小さな手、節の目立たない手。記憶の奥、何よりも愛しくて繋いでいた手よりも、白く大きな手。ミモザの黄色がよく映える、褐色の手と白色の手がぶれて重なる。
ミモザの甘い思い出に、ほろ苦いコーヒーが混ざっていく。
コーヒーごちそうさん、と呟き、彼は教会の中へ荷物を取りに行った。ひとり階段に取り残された俺は、あとひと口分残ったラテを足元に置く。そうして、未だ左手を陣取るミモザをじっと見つめた。
相変わらず可憐なイエローだ。純真無垢を象ったような花だ。だが、いやに秘密めいた素顔を知ってしまった今、俺はその花を手放しに褒めることが出来ないでいる。
「…どういうつもりだってんだ、アレは」
虚空に放った言葉は、ミモザに向けられた言葉か、或いは。
誤魔化すように、ラテの最後のひと口を啜った。溶けきらなかった砂糖のせいか、妙に甘い。冷めた甘いラテを飲み終えた俺の鼻を、また青い甘さがかすめる。心地よい甘さ、と言ってやるのも癪なくらいに、馴染む香りだ。馴染んでしまった香りは、さながら俺の生活に色濃く刻まれた、あのキャソックの男ようだ。
ここが神の聖域だなんて大嘘だ。人を誑かす悪魔ってのが、ここには居るのだ。
いやに落ち着かない、それでいて眠たくなるほど心地の良いこの場所に、ミモザが咲く。芽吹いた情を歓迎するように、甘苦い春が色づき、香り立つ。思い出と淡い思慕の混ざる午後が、俺を攫っていく。