ベン、と目の前から呼び声がかかる。
クランベリーの練り込まれたクッキーを細い指でつまみ、クランプはニマッと笑っていた。旅行に行ったという生徒からのもらい物だ。ひと口分欠けたクッキーをゆらゆらと揺らして、彼は何か思慮するように目線を動かす。
「君、“Like”の対義語はなんだと思う?」
「そりゃ、“Dislike”だろうよ」
問われ、考えるまでもなく答えた。好き、の対極にあるものなど、嫌いとしか思いつきはしない。素直にそう答えた俺に、クランプはゆるく首を振って見せる。やれやれ、というような顔つきと緩慢さが妙に癇に障る。
「時にベン、我々の言語において考えてほしい。打消しの意をつければ、たいていの言葉は対義語を作ることが出来る」
奴の言葉に、俺は当たり前だと大きく頷く。
英語ってのは案外ルールがある。尤も、単純なルールも多くある。そのうち、打消しの何某かは有名であるだろう。“dis”、“un”、“im”、この辺りが付けば、大体はそれが付いちゃいない言葉の対義語である事は、物心つく前からずっと変わらない当然の代物なのだ。訊かれるまでもないことだ。
「そりゃそうだろ。何を今更、そんなことについて考える必要があるんだ」
言わずもがな、俺はニューオーリンズで生まれ育った、れっきとしたアメリカ国民である。英語の初歩から学ばねばならない異邦人の類でも留学生でもないのだ。そしてそれはクランプも同様である。それがこの様だ。また突拍子もない事を言い始めた、とごちてコーヒーを啜る。
「確かに我々の認識はそんなものだ。だから好きの反対は嫌い、と言う」
「あぁあぁ、そうだな。実に単純だ。それだけの話だろ、はい解散解散」
「いや、君、他人の話くらい最後まで聞かないか」
わずかに苛立った声が俺を嗜める。久しぶりに、そんな機嫌を損ねた声を聴いた。少々姿勢を正し、カップを置く。この底意地の悪い貴族様がご立腹となると、些か扱いが面倒である。クランプとの与太話は正直厄介かつ億劫ではあるが、大人しく拝聴するとしよう。訊く姿勢を取った俺に気をよくしたのか、クランプはクッキーをさくさくと咀嚼して急いで飲み込む。
「それでよい。…そう、我々は好きと嫌いを対義語として捉えて疑わないが、どうも面白い物を見たのだよ。東洋の国の思想なんだがね。
“好きの反対は無関心”という文言を聞いたことがあるか」
彼の言葉に、否定の意で首を振った。また妙な事を覚えてきたものだ、と内心こぼす。
この家に居座ってからというもの、クランプは日がな一日読書に耽るか、気に入ったテレビ番組とレンタル映画を観賞するかである。おおかた、本の中か映画等の作中かで仕入れた知識だろうと見当がついた。知らない、と簡潔に答えると、クランプは分かりやすく得意げに口の端を吊り上げた。この顔が妙に腹立たしいやら可笑しいやらで、どうしても横隔膜は震える。しかしここで笑い声を立てれば面倒な事は必至なのだ。頬の内を噛んで笑いをこらえる。
「東洋の島国の言葉だ。相手への関心の有無に焦点を当てれば、確かに筋が通っていると思ったのだよ」
「へぇ、そいつは面白い」
適当な相槌を打って終わらせようと思ったのだが、その意に反してクランプは何やら意味ありげな視線を送ってくる。まだ話す事があるのか。今度は姿勢を正さず、しかしきちんと目で促すと、クランプは勿体ぶった様子で口を開いた。
「…君、私が君の学術書を漁る意味も、君の生活を飽きもせず眺めている意味も分からないかね」
その言葉に、少なからず俺はぎょっとした。肩がキクリと揺らぐ。含みを持たせた口ぶり、話の脈絡、全てを咀嚼して妙に落ち着かない心地になる。え、と間抜けな声を発したはずみに、口に含んだコーヒーがひと筋顎へ伝う。
「つまりはな、私は案外君に対する関心をつのらせているという事だ。君はどうだか知らんが、極端な話をするならば、私は君に対し、“無関心の対極”にある立ち位置を取っているのだ。それが先ほどの話を加味すれば…そういった話題に賢しくない君でも、そのくらいは分かるはずだ」
優雅に足を組み、クッションに背を預ける亡霊を前に、自ずと口をはくはくと開閉させては言葉に詰まる。居心地の悪さと微かな驚嘆、そして内心こそばゆい動揺で目線が泳ぐ。
極論に過ぎない、とはクランプ本人が前置きをした。だとしても、その反対となればすなわち。噎せそうになりながらコーヒーを飲み下し、それでも平静を取り戻すには事足りず、チョコレートチャンククッキーを乱暴に口へ放る。
「お前、また妙な作品でも嗜んだのか。唐突に何を言い出すかと思えば…」
非難がましい口調で苦言を呈する俺に、相変わらずクランプは愉快そうな笑みを浮かべる。この野郎、と言葉を荒げかけた己を律し、深く息を吸った。第一、クランプがおかしなことを言いだすのは今に始まった事ではない。他人を小馬鹿にする事に喜びを見出す、悪趣味な男なのだ。
これ見よがしにため息をついて見せ、首を振る。
「お前もふざけるような事言うんだな」
けらけらと笑い、クランプがカップをつまんで肩をすくめる。ほんの少し伏せた目つきから、胸中は読めない。優雅に紅茶を味わった彼は、まさか、と穏やかに口を開いた。
「戯れでそんな事は言わんよ」