わずかに空いたカーテンの隙間から、月の光が漏れている。
平之丞はうっすらと目を開けると、視線を彷徨わせた。
隣には暖かな感触。
平之丞は彷徨わせていた視線をそちらへと向ければ、漏れる月明かりに照らされて最愛の弟——音之進が静かな寝息を立てていた。
おやすみ、と別れた時には自室に行ったはずの音之進だったが、きっと夜中に目覚め独寝が寂しくなったのだろう。
兄を起こさぬように、こっそりと部屋に忍び込みベッドへと潜り込んだであろう音之進の姿を想像し、平之丞はきつく寄せていた眉根をわずかに緩めた。
平之丞は額にかいた汗を拭うと、その柔らかで暖かな温もりに手を伸ばした。
小さい子供特有のふくふくとした頬には涎が垂れ、幸せそうな顔で眠っている。
平之丞は指でそれを拭い、起こさないようにそっとその温かい身体を抱き寄せる。
腕の中でとくんとくんと心臓が脈打ち、この小さい生き物が確実に生きている事……そして、自分自身もまたここに生きていると言う事を教えてくれた。
——大丈夫、生きている。自分も、音之進も。
平之丞は静かに息を吐き出すと、抱き寄せている音之進の髪を撫でた。
鯉登平之丞には前世と呼べる記憶があった。
前世とはいっても、齢21歳という若さで散った命。
時は明治時代、ちょうど日清戦争の最中。
平之丞は帝国海軍少尉として松島に乗っていた。
尊敬する父と同じ帝国海軍の軍人として、誇らしげな気持ちで揚々と乗っていた船が激しい戦火に巻き込まれたのは、平之丞が入艦してまだ間もない頃だった。
雨霰のように降る砲弾。
崩れ落ちる壁。
飛び交う怒号と悲鳴。
それはまるで、地獄絵図のようだった。
松島の撃沈間際、平之丞は「ああ、これまでか」と空を見上げる。
沈みゆく船の中で考えたのは、敬愛する両親、そして何より愛してやまなかった弟だ。
弟の音之進はたったの八つ。
甘えん坊で可愛い、自慢の弟。
平之丞は、この過酷な時代に、弟を一人残していくことが心配でならなかった。
周りには母や妻子の名を呼び泣き叫ぶ兵士がいる。
話には聞いていた。
死ぬ間際に思い出すのは最愛の人だと。
平之丞は冷静にその姿を見ながら、どこか遠くの事のようにその音を聞いていた。
涙は出ない。
しかし次第に感覚が麻痺し、指先が痺れてくる。
腰まで使った海水の冷たさに不意に意識が冴え渡り、心は遥か遠い薩摩へと飛んだ。
太陽の日差しのような音之進の笑顔。
鈴を転がしたような笑い声。
小さく暖かい手の温もり。
『兄さぁ!はよ帰ってきてくいやいな!次は虫取りけ行こごたっじゃ!』
そう言った明るい声。
『約束じゃっでね!』
大きく振った、紅葉のように小さな手。
一瞬にして全ての感覚が鮮明に広がった。
——ああ、音之進。どうか……どうか息災で。
そこまで考えたわずか瞬き一つの後、ゴウと平之丞の全てが波に飲まれた。
夏とはいえ冷たい海水に飲まれながら、暗い海の底へ沈んでいく。
重い鎖に身体中を引きずられるように、強張った手足がピクリとも動かなかった。
ゴボッと空気の塊が口から吐き出され、泡と軍帽が暗い海の中海面へと上がっていくのがなぜか鮮明に見える。
——音之進、どうか……。
そして、平之丞の意識はそこで途切れた。
今世に生まれてからも、何度も繰り返し見る夢。
平之丞は音之進を抱き寄せる手を強めると、深い吐息をついた。
今世では、自分は前世の年齢を超えて生きられるだろうか。
そんな事を思う自分に戸惑う。
前世では、自分の命を投げ出すことに躊躇いはなかった。
だからこそ海軍の軍人になったし、船に乗る際も自分の命に未練などないと思っていた。
今際の際で、最愛の弟を置いていく事を切実に感じた瞬間、突如として死ぬのが怖くなったのだ。
否、怖くなったのではない。
自分の命に執着した。
だが、その時には既に自分の命の灯火は消える寸前だった。
生きようともがき、何度海面に手を伸ばして掴んでも掴んでも、掴むのは自分の吐き出す泡だけで、身体はどんどん沈んでゆく。
冷たい海の中、漸く目尻だけが熱くなる。
永遠にも思える一瞬の後、視界が暗くなり……気がついた時には新しい今の自分として、眩しい光の中、生を受けていた。
恐る恐る目を開ければ、懐かしい両親の若い姿が笑顔で自分を見下ろしている。
夜であるのに見たこともないほど明るい部屋の中、初めて目にする何をするためのものかわからない機械類に囲まれた自分。
寝かされている布団は触ったこともないほどふわふわと柔らかで、暖かかった。
自分の手を見れば、子供だった音之進の手よりもずっと小さい。
夢を見ているのかと思ったがどうやらそうではないらしい。
この小さな自分は時間が経てば腹も空き、排泄もした。
……青年としての記憶がある自分が、おむつの中で排泄するのはなかなかに抵抗があったが。
だが、お陰で色々なことがわかった。
この世界は以前の世界よりも随分と時代が進み、技術も進んでいる事。
この国では現在戦争はなく、父親は軍人ではない事。
両親に前世の記憶はなく、ただ自分たちの息子として可愛がっている事。
自分の名前は前世と同じく鯉登平之丞で、家はこれまた同じで裕福である事。
平之丞は数日でそれを把握すると、思案を重ねた。
おそらく、13年後には音之進が産まれる事になるだろう。
そうしたら、今世では前世で出来なかった分だけ沢山甘やかして、遊んでやろう——。
そんな事を考え、平之丞は子供時代を過ごした。
かくして、12年後に母親が懐妊した際には、平之丞は家族の中で誰より喜び、それから約一年後音之進が誕生すると、赤子だった頃からの計画通り平之丞は家族の中で誰よりも音之進を可愛がったのだった。
しかし、一見平和に見える生活だったが、平之丞を苦しめたのは他でもない前世の記憶だ。
何度も、自分の死に際を夢に見る。
寸分の狂いもなくなぞる今際の際。
冷たい水の感覚、声が出ず、身体が動かない。
誰にも告げられない思いを抱えたまま、平之丞の愛情は一層音之進へと向かった。
「……んん……兄さぁ?」
思案に耽っていたため、思いの外強く抱きしめてしまっていたらしい。
起きてしまった音之進が寝ぼけた目を擦り、声を上げた。
「音……起こしてしもたかな?悪い」
平之丞は表情を笑顔に戻すと、音之進の髪を撫でた。
「ええと……兄さぁ……勝手にお部屋に入ってごめんなせ」
目をしぱしぱさせながら、音之進がそう言って謝る。
「一人で寝っとが寂しゅうなってしもたか?」
笑いながら言う平之丞の言葉に、音之進は寝ぼけながら照れたように笑う。
「ん……兄さぁと一緒に寝ろごたったんだ」
「まったく、むぜやつじゃな」
平之丞は甘えて抱きついてくる音之進を抱き返しながら、そう言って背を撫でた。
この暖かい体温に、平之丞はどれだけ癒されてきただろう。
「明日……もう今日か……は休みじゃな。ないかそごたっことあっか、音?」
再びゆるゆると眠りに落ちていく音之進に、平之丞は優しく語りかける。
「ん……虫取りけ……行こごたっじゃ……兄さぁ……」
——兄さぁ!はよ帰ってきてくいやいな!次は虫取りけ行こごたっじゃ!
あの日の……前世で最後に見た、大きく手を振り叫ぶ音之進の姿が激しくフラッシュバックする。
——約束じゃっでね!
叶わなかった約束。
平之丞は目を閉じて音之進を強く抱きしめた。
「そうか……。今度は……必ず行っど」
「へへ……約束……やっど」
そう言いながら、音之進の瞼は落ちていった。
今世では……何があっても自分が守る。
生きて、守る。
小さく響く音之進の寝息を聞きながら、平之丞は再びそう誓った。
ああ、大丈夫だ。
きっともうあの夢は見ない。
平之丞は音之進を抱きしめたまま、その瞼をゆるりと閉じた。
そんな平之丞が、月島や勇作に「極度のブラコン」と言われてしまうのは、もう何年か先——前世の年齢をいくらも超えた後の話である。