思ウ春抗イ選ブ若イ人「紅君、灰ちゃん。俺はブライに行くことにした」
寮の一室に呼ばれた弟は、敬愛する兄から発された言葉も、それに対する親愛の妹の頷きも、何一つ理解が出来なかった。
「ああ。白兄さんは多分、そうするだろうと思っていた。最近沈んでいたが、今はとても良い顔つきだ」
「灰ちゃんにはバレていたか。我儘な兄で済まない」
「何、兄さんの我儘なんて妹である私の我儘に比べれば、可愛いものさ」
朗らかに話し出す兄と妹は、そういえばいつから「俺」と「私」になったのだろう。今までは「賢兄」と「愛妹」だったはずだ。だから自分は「愚弟」なのだ。何故二人は変化してしまったのだろう、変化を受け入れてしまったのだろう。ガタガタと情けなく震える体に、紅と呼ばれた青年は「何故」と震える声を吐き出した。顔つきの違う兄と妹の、ただそれだけは自分と同じ空色の瞳が此方を覗く。
「……紅君には理解しがたいことかもしれないが。俺はもう、決めてしまったんだ」
「だから、何故。この状況下で、白兄さんがブライに行かなければならないのですか」
「行かなければならないことじゃないよ、俺はブライに行きたいんだ」
「……どうしてです。エリー党の白兄さんが、俺達にとって一番正しい人が、何故ブライなんかに……!」
「……紅兄さん。ブライなんか、とは、私には聞き捨てならないよ」
兄よりも先に言葉を発したのは、妹である灰だった。灰は命一族の中でも珍しく、ドッ祓いの力を持たない子であった。しかし、灰は学園で起こる七億不思議の詳細を知っている。何故ならば彼女は相罠の道を選んだからだ。よりにもよって、常日頃から「七億不思議ばかりが悪ではない」なんて言葉を口にする、柳田騎士の相罠に。紅は未だ、灰の相罠を認めていなかった。騎士を嫌っているのではない、騎士本人は、口は悪いが人間としては優しすぎるほどの男だ。紅には、彼の思想が恐ろしかった。優しいが故に化物までをも「一人」と数える彼が怖かった。彼がもし、狡猾な七億不思議に騙されてドッ祓いをし損ねた場合……紅は愛しい妹と親しい友達を一挙に失うのだ。
「灰ちゃん。愚弟は今、白兄さんと話しているんだ。灰ちゃんは」
「白兄さんと話しているにしても、聞き捨ては出来ない。ブライには、二郎先生がいるじゃないか。兄さんは二郎先生にも、ブライなんか、なんて言葉が使えるのかい」
灰の言葉に紅は言葉を詰まらせた。ブライなんか、今言った言葉を、二郎先生……ブライ所属の非常勤講師、連星二郎に言えばどう思うだろうか。きっと、彼は「傍から見れば連絡も入れられない問題児ですからねぇ、僕達」と笑うだろう。実際、彼は人の目を気にしないところがある。だからこそ、子供のように親しい先生へ甘えに行ったり、騎士君と自分の同人誌なるものを書いたブカツ道の子に直談判に行ったり、近所の大食いチャレンジ店で軒並み出禁に成ったりする。だからと言って、彼が「ブライなんか」と言われるに値する人物とは思わない。少なくとも彼は、学園長の事件で左腕を失ってまでも戦った。正しく、人を守る為に戦った人だ。
「……二郎先生は、個人は関係ない。二郎先生一人が正しくても、ブライが現状報告をしていないのは事実だ」
「そもそもブライはクラスじゃない。例えばブライが現状を報告しようとも……『クラスですらないものの報告は正式な報告として受け付けられない』と、誰かが意図的に握り潰しているとしたら? それでも、悪いのはブライなのかな。クラスという立場を与えなかったのは学園側だろう。そしてそれを当たり前のように享受しているのは、私達だって同じことだ。そんな『当たり前』が、学園長先生を七不思議へと成り果てさせた可能性を、紅兄さんは考えたことがあるかい?」
「っ……灰ちゃんは、学園に裏切り者がいると言うのか?」
「可能性の話とすれば、有り得ない話ではないだろう」
紅は愕然とした。いつも明るく無邪気だと思っていた妹が、なぜこのように恐ろしいことを考えるようになったのだろう。自分は、自分と兄は、いつだって妹を守ってきたはずだ。一族の中でこの子だけはお爺様の死因を知らない。本当の死因に限って言えば、自分と兄しか知らないはずなのだ。だというのに、何故。裏切りだとか、意図的な握り潰しだとか、まるでこの子は、自分達よりも人間の悪意を知っているようではないか。そんなはずはない、この子は物語が好きだから、きっとどこかでそんな怖い物語を読んだのだ。この子は物語でしか、悪意を知らないはずなのだ。
「……灰ちゃんは、優しくて本が好きな女の子だから。そういう裏切りや人の醜さを、知ったつもりでいるのかもしれないが。現実では、本のように確定された物語はないんだ。だから、そんな。悪意を持って人を七億不思議にしようだとか、意図的に一つの所属を潰そうだなんて。そんなことを考える人間なんて」
「……私は。自分の『欲望』を『愛』だとラベルを張り替えて、私の大事な友達が死にたくなるまで追い詰めた『人間』を知っているよ。紅兄さん、子供だってね。人間の悪意くらい知ってるし、いつまでも分からないままではいられないんだ」
灰の言う大事な友達が騎士であることは明らかだった。己が欲望の為に、まだ16歳の優しい少年を死へと追い詰める人間が、本当にいるのだろうか。呆然とする紅に、今まで口を噤んでいた、白が言う。
「俺はね、紅君。灰ちゃんほど、大きく物事を考えているわけじゃないんだ。俺がブライに行くのは、もっと個人的なことなんだ」
「……個人的なこと、とは。エリー党では、白兄さんの考えを貫けないという、ことですか」
「考えですらないな、これは。……俺は、エリー党では息が詰まるように感じた。だから一番息がしやすそうな、ブライを選んだ。それだけだ」
「……なんですか、それは。息が詰まるって……それは比喩表現でしょう……そんな……そんなことの為に、白兄さんはエリー党である誇りを捨てるのですか! 兄さんは18歳で、もう少しで卒業で、だったら、あと少し我慢すれば」
「……もう少しで卒業。それはきっと、描上翻君もそうだったろうね」
呼吸が殺される。その名を聞いただけで、容易く。息が詰まるという、たった1分にも満たない感覚に、ぐらぐらと視界が揺れて汗が落ちる。白はいつもと変わらぬ、表情の見えぬ顔で言葉を紡ぐ。それでも、一つ潰して一つになった、空色の目は僅かに潤みを帯びていた。
「彼とは親しかったわけではない。顔さえもほとんど覚えていない。それでも確かに、彼の現状報告の声を聞いていた。確かに彼は、俺達と同じように生きていた」
生きていたのに、選べなかった。選べないが為に、生きていられなかった。
「知っている人が死んだら悲しい。それは当たり前だ。悪意が無ければ、人の死は悲しいものだ。悲しいだけなら、動かなかった。ただ俺は、酷く腹が立ったんだ」
「……彼を、助けられなかったからですか」
「いいや。変わらないことを是としていた全てに、だ」
変わる機会はいつだってあった。学園長先生が七億不思議に成った時点で、全員に七億不思議の存在を知らしめていれば。二郎先生が右腕を千切られた時点で、その情報をエリー党内だけでも報告していれば。生徒会長になることを選んで、意識改革の声でもあげていれば。ボタンの七億不思議が出た際に、知り得た話の全てを正しく共有していれば。全てがたらればの中で、一つだけ確かなことに怒りを覚えた。
「俺は選ばなかったんだよ。選べなかったんじゃない。目の前に幾つだって選択肢は置かれていたのに、何一つ手に取らないで見捨てた。見た上で捨てたんだ」
自分だけではない。エリー党だけでもない。この状況を「仕方がない」で済ませる何もかもが苛立たしかった。
「エリー党とヤサ愚連の対立も、ブカツ道の被害の甚大さも、ブライの情報がないことも。七億不思議の存在も、同じ年頃の人間の死にも、仲の良い先生の千切れた腕にも、自分の目玉が潰れた時ですら。俺は『仕方のない』ことだと思考を放棄した。俺は命家の長男であれば良いと……君達の兄であればそれだけで良いと思い込んでいた。だがもし、俺の前に『弟』と『妹』の選択を置かれたら。俺はその瞬間、兄ではなくなるだろう」
それは有り得ないことではないのだと、それだけは紅にも分かった。あまりにも分かりやすい選択肢だった。本当ならば、弟であれど兄でもある自分が言うべきだと紅は思った。灰ちゃんを選んでください、と。だが、そこに一瞬の迷いが出来るのだ。今、自分はどちらを選んだのだろうかと。灰ちゃんを『助ける』のか『助けない』のか、どちらを選んでくださいと言ったのだろう。考えた瞬間に怖気立ち、吐きそうになった。
「……俺は選べない恐ろしさに気づいた。だからこそ、選ばなかった世界を憎く思えた。だが……腹の底から憎んだところで、行動しなければ変わらない」
そういって、白は青色のリボンを外した。眼孔を埋めるように伸びた骨を、わざわざ変形させて灰色のリボンを通した。兄の意思がある限り、このリボンが外されることはないのだろう。
「これは叛逆だ。……なんて、格好良い科白を言うほどのことじゃない。俺はただただこの訳の分からない世界に腹が立って、何もかもに反抗したくなって、だからクラスを変える。それだけだ」
あまりにも青春らしくて、笑えるだろう。長兄はそう、清々しい顔をした。雪のような白銀の髪を揺らす、氷のように滑らかな魂を持つ男の覚悟は、春の調査書に溶けた痕すら残さないのだろう。弟は兄ほどの熱を持てぬままに血の気を引かせ、妹は命を燃やす兄の未来を視た気がした。