眠気に滲んだ視界越しに映る横顔は、俺の事なんか気にせずに単語帳をペラペラと捲っているだけだ。顔を覗き込んでも手を前に出しても、何も反応しねえ。強いて言うならちょっと眉間に皺を寄せるだけだ。せっかく俺とのお遊びの時間だってのに、マジメに予習なんかしてやがる。俺の部屋なのに、こいつが主人であるみたいに静寂が纏う。夕日とは全く似つかない蛍光灯の光でキリリと輝かせた金属のピアスが眩しい。そして俺は気付く。それをぶら下げている耳たぶが赤なのか青なのかに見苦しく変色していて、痛そうだなと重さなぞ無い言葉を呟いた。
「何がだ」
「耳だよ。耳ぃ」
「耳がどうしたんだ」
あ、アンタ気づいてないのォ。形兆は振り返りもせず、単語帳にアルミのシャーペンでマークをつけた。分からない単語とかこいつに存在するんだと思った。こいつは俺と違って、小テストとかほぼ満点ってイメージがある。ほんのりと、こいつのことを人間とは違う何かだと思ってた。全知全能の神様だとか、そっち系。どうやら違うらしいけど。
やっぱり、本人は気づいていないようだが、形兆の耳たぶはピアスホールを塞ぐ金属の留め具を囲むように膨れている。そのせいか、その金具が膨れた皮膚で見えなくなってる。中学ん頃の通知表に「音石くんは好奇心旺盛ですね」としか書かれてなかった俺はその衝動に身を委ねて形兆のピアスに触れた。自分でも妙だと感じるこの動きに疑いをかけられる隙も作らず、その痛そーに腫れた耳たぶを、指で金具ごと強く潰した。痛覚残ってんのかな。壊死してたら面白いなあ。形兆が短く悲鳴をあげたことで答えが出た。
「貴様、何舐めたことを――」
「金属アレルギーかい」
この何気ない言葉が俺たちの関係を崩壊させる種となる。
形兆は一度怒鳴ったものの、俺が放った言葉に表情が固まって、やっちまったって顔で俺から目を逸らした。俺の手を払い除けた形兆の手には力が籠ってなかった。図星か? なんて思ったけど、それにしてはこいつは焦りすぎている。なんかバレちゃいけねーことだったのかな。でも、なんで?
「触るな」
「んな痛かったかよ?」
「不愉快だって言ってんだよ。触るな。それだけの命令だ」
余程痛かったのか知らねーが形兆は脂汗に塗れている。俺もちょっとやりすぎちまったかなって思ったけど、変に素直じゃないこいつの態度にムッとくる。
形兆のピアスホールから赤い血が滲んでいた。当然俺の指にも。くそ、手に血ぃ付いちまった。拭くものがないので舐めとった。
なんか、おかしいなと思った。形兆の血は赤かった。俺と同じ赤色の血が流れているはずなんだけど、何かが変だった。例えば、味、とか。
形兆は鉄の味がしなかった。その代わり、甘くふんわりとした砂糖の甘さが頭に回る。あれ? 俺、菓子とか食ったっけ。
形兆の方を見上げる。じゅくじゅくと耳たぶを塗り潰していく、その「赤い液体」をじっと見つめる。やがて形兆のピアスさえも赤くした所で、俺はまた手を伸ばした。
形兆はまた耳たぶを潰されるんだと思ったのか知らねーが、俺の手を掴もうとする。だが俺の目的はそれじゃなかった。形兆の肩と首元を抑えて、そのグロい耳にかぶりついた。
形兆は驚く間もなく「軍隊」の名を叫んで、俺の腕に幾何学模様の怪我を負わせた。俺の赤い血が形兆の顔に飛び散った。負けじと舌打ちをかまして力任せに押し倒すが、形兆の方が力が強えーから直ぐにひっくり返されそうになる。点々と顔に几帳面に並んだ穴が空くのを感じながら、血だらけの腕を暴れるこいつの首にやった。
耳を食んだ牙にギリギリと力を入れる。最初はやめろだとか離れろだとか吠えては暴れていたものの、ぶちぶちと皮膚が避ける音が鳴ってから諦めたみたいに力が抜けてって、次第に短い呻きを上げるだけになった。俺は赤い何かに濡れた唇を舐めた。いちごの味がする。イチゴジャムだ。そして俺は確信した。こいつは、形兆は人間じゃなかったんだ。
俺は嬉しくなって、遂に噛みちぎった耳元から溢れ出す「クリーム」を舐めとった。俺はその「白いもや」みたいなものをクリームだと疑いもしなかった。だって、形兆はエキセントリックでメルヘンチックな、俺の「神様」だからだ。
甘くて、甘くて、とにかく甘ったるい。「こいつはいちごのケーキだ」なんて小洒落た隠喩とかじゃなくて、本当に形兆はケーキだった。俺の本能は文字通り牙を向き、無意識の内に形兆の皮膚をビリビリと破いていく。真っ白な壁の塗装が剥がれるみたいに、形兆の「ケーキ」の部分が露になる。スポンジがあって、クリームがあって、イチゴジャムで溢れている。いつかに見た光景にロウソクを何本か挿したくなる。頬のあたりまで来た所で形兆を見下ろした。
当の本人に息はあった。だけど、はァとかふゥとか短い呼吸を繰り返しているだけで、とても元気そうには見えなかった。ケーキぶちまけましたみたいな感じで形兆の耳あたりは、ぐちゃぐちゃに原型をなくしていた。中途半端に繋がっていたピアスが気になって引きちぎると、形兆は俺の方を睨んだ。案外甘ったれた中身してんだなって嘲った。
「なあ、アンタの目ん玉って何味なんだろうな」
「だめだ」
「俺の一部になるのがそんなに怖いかよ?」
まあいいぜ、左半分は残しておいてやるよ。アンタとジミ・ヘンのVHS見れねーのヤだし。完全に優位に立った俺はケタケタ笑う。だが、それでも尚高圧的に口角を上げる形兆にイラッと来ちまって、形兆のケーキの部分をぐちゃぐちゃと押しつぶす。形兆は少し強ばるだけで、余裕そうな顔はいつまでも崩れない。形兆の柔い髪をブチブチと音を立てながら引っ張り、顔と言っていいのか分からない顔を上げさせる。金色の髪の毛さえも美味しそうだと感じてしまった。
「ナニ生意気振っちゃってんだよ」
「引き返すなら今のうちだ」
「この俺が、そんな戯言で、あんたをメチャクチャに出来なくなるとでも思ってんのかい」
「テメーは当然、知らねえと思うが……フフフフ……」
「はァ?」
「俺を食うとテメーも『俺』になっちまうんだぜ」
「え」
「形兆を食うと、形兆になっちまう」。新事実に悲鳴をあげる。つまり、俺は無意識の内に「形兆の一部」になる所だったという訳だ。いや、なんならもう遅いかもしれねえ。もっと早く言えよ! と文句を言える立場じゃねーのに叫ぼうと息を吸った瞬間に、俺は右から飛んできた形兆の拳によって眠らされたのだった……
――
「まあ、嘘なんだがな」
「嘘かよッ!」
嘘だった。体を乗っ取ることが出来るなんて、全くの嘘だった。
あの後形兆は、目覚めた俺に「中身がケーキの人間」に関する色々なことを話しはじめた。ムーみたいなオカルト雑誌でしか見た事ない、馬鹿げた都市伝説人間の設定を、こいつは淡々とした顔で説明書を読み上げるみたいに喋り出す。一種のホラーかと思った。
本題のその説明は、スタンドの説明を受けている時と同様であんまりピンと来なかったが、得意技のフィーリングで何となく把握した。
まず、ケーキ人間は金属がダメな奴が多いということ。こいつは防腐剤? を体に入れて腐らないようにしていたが、ボロが出ちまったらしい。だが、形兆は身体と同じケーキを食えば、ほぼほぼが全治する(らしい)ので、言わば不死に近い。親父さんとお揃いだなってテキトー言ったら、家族だからなと冷笑された。こいつの家族も「ケーキ」なんだろうか? 形兆曰く「俺だけ」らしいけど。
あと、ケーキ人間を食ったらそいつになっちまうっていうのは形兆が付いた咄嗟の嘘だった。
「ンで嘘付くんだよ」
「誰が好きで食われたいと思うんだ?」
「食いもんらしく、食われることが幸福だと思ったらどうよ」
「人権が無いとでも思っているのか?」
ただ、形兆の中から溢れ出したイチゴジャムが、「形兆は人間じゃなかった」という紛れもない事実を全面に表してくる。「スタンド」って存在と出会った時ぐらいにドキドキする。
最近、というか、こいつに遭遇してからというものの、摩訶不思議な事が起こりすぎて、何が本当か分からなくなってくる。そういう魔法みたいな存在は、ガキの頃にとっくに卒業した気になっていたが、まだまだ俺もガキなんだなって思った。その割に形兆は大人び過ぎている。俺、あの仏頂面より歳上なんだぜ? 一応。
さっきまで形兆の中に触れていた己の手から視線を外して、形兆の方を振り返る。顔半分のほぼほぼが甘く崩れている形兆は、表情に似合わないほどメルヘンで思わず笑い声が漏れる。俺が意識を失う前より酷くなってる気がした。
「テメーのせいだぜ」と眉にシワを寄せた形兆のケーキを指で抉る。抵抗されなかったなとか思いながら口に入れた。やっぱ、幻覚じゃねーな。ガチのマジだ。
「これ、顔面抉られんの、痛くねーの?」
「痛い」
「さっき何も抵抗なかったじゃねーか。それも嘘かよ」
「痛い」
「だから、何が痛てーんだよ」
「何が痛いとかねーが、痛いんだよ」
「アンタ、ナニ言ってんのか分かんねー」
「……音石、お前」
「んだよ」
「俺は甘かったか?」
すげー甘かった。アンタ、舌がヘンになりそーなぐらい、すげえ甘かったよ。
「俺、いちごよりチョコの方が好きなんだぜ」
本音は言わなかった。形兆は「そうか」とだけ呟いて、何事も無かったかのように、端の端に追いやられた単語帳をまた開けた。
俺が形兆を「捕食の対象」と見てしまえば、こいつは真っ先に俺を駆除する。こいつの中身がケーキだろうが怪物だろうが、俺はこいつに勝てやしないことに気付いた。もし俺が世界一強い存在になったとしても、神に、なったとしても、こいつの弱所を握って潰しきるまでは、どう足掻いても逆らうことが出来ないんだって、気付いちまった。
片耳だけになっても金属のピアスはずっと輝いてた。その輝きで、ずっと握ったままで熱を持った金属の塊に気付く。そういえば、俺がちぎり取ったんだった。
「これ、ピアス。あんたにしか似合わねえよ」
「先客がいたんだがな」
「へー」
人間の? と聞くと、さあなと鼻で笑われた。形兆は俺から受け取ったピアスの汚れを袖で拭き取り、蛍光灯越しに眺めて思い出にふけはじめた。
「母親の顔なんぞとうの昔に忘れたが、これを形見と扱う度に『母親』を強く感じる。分かるか?」
「分かるわけねーだろ。あんたみてーに、親死んでねーし」
「親父は死んでねえけどな」
「うわ。それ、怖えー」
イヒヒと笑った。形兆は意外と己を語り始めるし、自虐もする。顔と似合わず面白い奴ってワケ。形兆のエキセントリックな部分を抜き取ったとしても、こいつは俺を夢中にする何かがある。
形兆の体にしては手入れが面倒くさい金属なのに、これまでにも大切に扱うのは、同じぐらい母親のことを大切に想ってるからなんだろう。この柄でマザコンとか、ゲーッて感じだが仕方がないのかもしれない。こいつにとって「家族」って存在は軽蔑にも憧れにも近い。こいつの母親は真っ当な「人間」だったんだろうか。
「アンタは人間に戻れるのかい」
「ガワだけはなんとでもなる」
「んじゃあ、ケーキ屋さん行こうぜ! チョコケーキ十個ぐらい、買ってやるよ。俺の奢りで」
「なんでチョコなんだ」
「俺チョコの方が好きだし。アンタのことチョコケーキにしてあげる」
また形兆が俺を振り返る。俺を心底バカにしている、いつもの顔で。俺の血が点々と形兆の白いクリームを汚していて、よく分かんねえ気持ちになった。