うるさいくらいに音を立てて、大粒の雨は絶え間なく地面に叩きつけられる。午後からは土砂降りになるという予報は見事に的中したのだが、俺は傘を持たずに雨の中立ち竦んでいた。
少し離れたところに、黒い傘が開いた状態で転がっている。あれはつい数分前まで俺が差していた傘なのだが、今の俺にはそれを取りに行く気力すらなかった。
あの人の腕を掴んだ感触。あの人に思い切り身体を押された感覚。すべてはっきりと残っている。下手くそな笑みを浮かべた頬に伝っていたのは雨粒だったのだろうか、それとも。今となっては確認のしようもない。
あの表情を思い出すだけでも胸が痛む。苦しい、悲しい、悔しい。嫌な感情をすべて混ぜたような、でもそれをすべて隠しきろうとするような、下手くそな笑顔。そんな顔、させたくなかったのに。
身体がぶるりと震えた。この雨の中傘も差さずに立ち竦んでいたので、すでに全身はずぶ濡れだ。ようやく鉛のような足を動かして、雨から自身を守ってやった。
「守沢先輩……」
無意識に口をついて出た言葉は、誰に聞かれるでもなく雨音にかき消された。
*
なんてことない、ユニット練習後の帰り道。守沢先輩のくだらない話を適当に聞き流しながら、今日の夕飯はなんだろう、とか、週末新しいゆるキャラのグッズを買いに行こうかな、と思考を巡らせていた。
そう、本当に、いつも通りだったのだ。少し違うと言えば、守沢先輩がチラチラとたまにこちらを見てくるくらいで。でもそんなの、別にそんなに気になる程ではなかったし。
「高峯、好きだ」
いつも通り。俺の家の前に着いたら、「また明日」と交わして、別れる。そのはずだったのに。別れの間際、守沢先輩は突然こんなことを言い出した。前触れなんてない。本当に、突然。一瞬聞き間違いかとも思ったが、顔を真っ赤にしてこちらを上目遣いで見てくる先輩の顔を見てもそう思うほど、俺は馬鹿ではない。
守沢千秋という男は、同じく男である俺に告白をしてきたのだ。
いや、この男は告白なんてもの毎日のようにしている。親しい間柄の人間に、「愛してる」を安売りする。俺だって、流星隊に入ってから何度言われたか分からない。
しかしその告白と、今目の前でされた告白の違いがわからない俺ではない。
「え、と」
こんな時、どう返せば良いのだろう。自慢じゃないが、この容姿のせいで小学生の頃から何度も告白されてきた。もちろん女子から。断って泣かれるのも面倒なので、俺はその度に了承しては相手が飽きるまで付き合ってきた。俺から振ることは無い。告白されて、振られる。いつだってそうしてきた。
でも、こんなの、どうしたらいいんだ。
了承なんて出来るはずがない。だって相手は男で、先輩で、隊長で。断って然るべき相手だ。しかしそれで関係が拗れるのも避けたい。どうするべきだ。どう答えるのが正解なんだ。
「……いきなりこんなこと言っても困るよな。すまん」
「えっ、あ、いえ」
ぐるぐるとままならない思考は、守沢先輩の声によって引き戻された。眉を下げて困ったように笑う先輩は、本当にあの守沢千秋なのかと疑うほどしおらしい。さながら、恋する乙女のようだ。
「返事はいつでもいい。いつまでも待つ。口頭でも、メッセージでも、なんでもいいから」
と視線を泳がせ、相変わらず顔を真っ赤に染めながら言うもんだから、「わかりました」なんて返してしまった。
それじゃあ、と先輩は駆け足で去っていく。その後ろ姿を目で追いながら、「また明日」とぼんやりと呟いた言葉は、きっと聞こえていない。
心臓がうるさい。自分の耳にも届くくらい大きな音を立てながら、異常な速さで脈打っている。
顔に熱が集まっているのがわかる。
あれ、なんで俺、先輩に告白されただけでこんなことに。
さっきの先輩を馬鹿に出来ないくらい真っ赤になった顔を両の手で覆いながら、俺はその場に蹲った。
「ええ……?」
口から漏れた言葉は、我ながら情けないくらい掠れていた。
*
「はぁー……」
翌日、教室に入ってそのまま机に突っ伏した俺は、盛大にため息を零した。
今朝、守沢先輩は迎えに来なかった。「日直の仕事があるので先に行く」と連絡があったが、朝からやらなければいけない仕事などないはずなので、嘘だというのはバレバレだった。しかし、それに気づかないフリをして「わかりました」と返事をした。昨日、あんな出来事があったのだ。先輩だって気まずいのだろう。
幸い今日は部活もユニット練習もない。運が良ければ、今日一日は顔を合わせずに済むだろう。しかしあくまでもそれは、今日に限った話だ。明日は普通に部活もあるし、放課後にはユニット練習もある。
どんな顔をして会えばいいのだ。そもそも、どう返事をすればいいのだ。
あれから一晩考えた。自分は、守沢先輩と付き合えるのかというのを。
結論を言うと、答えはノーだ。理由は単純明快。男同士だから。断るのには十分すぎる理由だ。先輩と別れたあとに、うるさいくらい音を立てていた心臓も、火が出ているんじゃないかというくらい熱かった顔も、全部気のせい。だから、早く断ってしまおう。
しかし俺には、それが出来なかった。「ごめんなさい」の5文字を打つことが、なぜだか躊躇われたのだ。理由はわからない。ただ、先輩のひどく悲しそうな顔を想像すると、胸の辺りがもやもやとして、送信のボタンが押せなかったのだ。
ああ、なんてことしてくれたんだ、守沢千秋。どうして俺がこんなにも悩まなければならないんだ。
「鬱だ……」
「朝からネガティブっスね、翠くん」
頭上から聞き馴染みのある声がして、顔を上げた。何かあったんスか?と南雲くんが覗き込んでくる。クリクリとした不思議そうな瞳と目が合った。
誰かに相談したかった。人に言ったら心が少しは楽になる気がする。しかしこんなこと、とても相談できる気がしない。ましてや、同じ流星隊のメンバーである南雲くんになんて。
「ああいや、その……ううん、なんでもない……」
「なんスか、歯切れ悪いっスね」
男ならシャキッとするっス!と、再び顔を填めた俺の背中を叩いてきたので、うう、と声が漏れた。痛い。もう少し加減をしてほしかった。
「……本当に、悩みがあるなら聞くっスよ。翠くん今、ひどい顔してる」
心配の色を含んだ南雲くんの声音に、ゆっくりと顔を上げた。
「俺、どんな顔してる……?」
「え?んー、赤いんだか、青いんだか。なんか変な顔っス。体調でも悪いんスか?」
どうやら自覚している以上に重症らしい。