表情 数多の人の声と、どこかの店から流れてくる音楽や車の走行音が混じり、耳障りな音を形成して、私の耳を襲う。
雑踏の中にいるのはあまり好きではなかった。
その場にいるだけで目まぐるしくなるような情報に溢れた景色よりも、山や海のような、壮大で、心が落ち着くような景色が好きだ。それに、すれ違う人とぶつからないか気を張らなきゃいけないのも、あまり好きではない。
特に、御子柴くんと人混みの中を歩いている時は、ものすごく気を張ってしまう。スマホから片時も目を離さないで堂々と闊歩する彼が、誰かにぶつからないかどうかがとにかく心配で、辺りを警戒するのに必死になってしまうから。
しかし、そんな私の心配なんてつゆ知らず、彼は今日も、スマホを操作しながら、私の横を歩いていた。
「御子柴くん、もうすぐお店につきますよ」
間違っていないか、地図を改めて確認して、そう言ってから右に曲がると、御子柴くんも同じように曲がった。顔は相変わらずスマホに釘付けだし、チラリとも私の方を見ていないのに、彼はまるで周りが見えているかのように振る舞うから、不思議だった。誰かにぶつかっているのも見たことがないので、顔を上げなくても周りが見える能力でも持っているのかもしれない、御子柴くんならあり得るかも、なんて空想してしまう。
目的の店に着いて、足を止めると、御子柴くんも私に倣って止まり、ようやくスマホから目を離してくれた。そして、店の外観を確認してから、何も言わずにズカズカと進んでいってしまったので、慌てて追いかける。
今日来たのは、DTM……? 用の機材を扱う専門店、らしい。ずっと使っていたMIDIキーボードの調子が悪いとのことで、新しいものを見繕いに来たのだった。
店の中に入れば、キーボードだったり、コックピットにありそうな何かだったり、見慣れない機械がズラリと並んでいて、何が何だかよく分からない。途端に手持ち無沙汰になってしまったので、キーボードをじっくりと見定めている御子柴くんの顔を覗けば、少しだけいつもより楽しそうな表情を浮かべていた。彼のその真剣な眼差しと、弧を描いている口元を見て、今日ここに来るための許可を、なんとか得られてよかったな、と思う——。
ぼんやりと何処かを見つめていたらしい。不意に思い立って顔を上げると、御子柴くんが売り場を離れてどこかに行ってしまったことに気が付いた。ぼんやりとしていた頭が急に冷えて、辺りを見回すと、何処か別の場所に移動しようとする彼の姿が見える。
「御子柴くん!?」
その後を追いかけながら、慌てて声を掛けると、「うるせーな、店員のとこ行くんだよ」とぶっきらぼうな返事が返ってきた。
それを聞いて、ほっと息をついてから足を緩め、少し離れたところで足を止めた。そして、店員さんに声を掛ける御子柴くんを見つめて、耳を澄ます。
「……の、……が欲しい、ん、すけど」
機材のことはよく分からなくて、うまく聞き取れなかったけれど、少しだけぎこちない敬語で喋っているのは分かった。初めて彼が煽る意味ではなく敬語で話すのを聞いたからか、つい、ふふっと笑みが漏れてしまう。
しばらくして、御子柴くんは店員さんと一緒にキーボードの売り場に戻っていった。それから少しだけ言葉を交わして、ようやく買うものを決めたらしく、「これで」と何かを指さす。
「おい、決まっ……何ニヤニヤしてんだよ」
唐突に御子柴くんと目が合うと、普段よりもまんまるに開かれていた瞳が、いつも通りの鋭い冷気を帯びた。あ、と思って今更緩んでいた口角を誤魔化しても、もう遅い。
「あ、いや……すみません、敬語で話している御子柴くんが新鮮で……」
「ハァ?」
正直に話しても、御子柴くんの眉が吊り上がるだけだった。その射抜くような視線に、段々と居心地が悪くなって、アハハ……と渇いた笑いを漏らしてから、視線を逸らす。それから、店員さんが向かうレジの方に向かうために、御子柴くんと合流した。
「看守さまも、敬語で話して欲しいんでちゅかぁ?」
「だ、大丈夫です……いつも通りで……」
「はっ、なんかしらで俺に尊敬されてからほざけよ、無能ザコ看守」
そこに居たのは、もうすっかりいつも通りの御子柴くんだった。
今話している相手は私なのだから、当たり前と言えば当たり前の事実なのだが、不思議にもなんだか名残惜しさを覚えてしまって、つい苦笑を漏らす。ちゃんとしている彼を見たのが、初めてだったからかもしれない。
ぼんやりと、この名残惜しさを心の中で反芻していると、何かに気が付いたのか、御子柴くんは私の足を思いっきり踏んづけた。
それから、会計を済ませて——店に来て心変わりしたのか、事前に申請した商品よりも2万円以上高い物だった——キーボードを片手に店を後にする。
キーボードは思っていたよりもかなり重くて、両手で持たないと結構キツかった。おまけに、店員さんが付けてくれた簡易的な持ち手がプラスチック製だからか、手がヒリヒリと痛む。予算をオーバーしたからって、送料ケチるんじゃなかったかな……なんて後悔がじわじわと湧き上がってきた。
まぁ、後悔しても、もう遅い。切り替えて、駅に戻る道をスマホの画面に表示しようと、マップアプリを立ち上げた時だった。
「アイス」
「え?」
御子柴くんは、道の先にあるアイスの露店を指さしてから、私の返事も待たずに歩き出してしまった。しかも、かなりの早足で。慌てて追いかけて制止しようにも、キーボードが重い上に横に長いから、とにかく走りづらく、追いつくことすらままならない。
「み、御子柴くん! 食べませんよ!?」
「こんなクソあちー中、歩かされてんだから、アイスぐらい奢れよ」
「む、無理ですよ……! 申請してないですし……!」
「お前のポケットマネーから出せよ、それなら問題ねぇだろ」
「えぇ!?」
結局、私が店の前に着いた時には、御子柴くんは注文を済ませていて、もうお金を払う以外の選択肢は取れなかった。仕方なしに、自分の分も注文しながら、会計を済ませると、御子柴くんは2つのアイスを受け取る。
「ん」
自分の口元にチョコレート味のアイスを運びながら、バニラ味のそれを私の方に差し出す。受け取ろうとしたところで、あ、とキーボードが邪魔なことに気が付いた。
——地面に置いたら怒られるような気がする。だからといって、この重さの物を片手で持っても、地獄を見る予感しかしない……。
困ってしまって、でも御子柴くんを待たせれば、余計に怒らせるのは分かっていて、様子を窺うようにチラリと顔を覗けば、彼はハァ……とわざとらしくため息をついた。
「キーボード、地面に置けばいいだろ、バカじゃねぇの? クソポンコツ看守」
「え? いいんですか? 汚れとか、気になりません……?」
「外箱だし、ちょっとぐらいどうでもいい。あとで拭いとけ。つか、グタグタしてんじゃねぇよ! 溶けて俺の手が汚れんだろ!」
「す、すみません……」
その言葉に甘えるように、キーボードを地面に置いてからアイスクリームを受け取った。
ジリジリと焦がすように暑い太陽の光に曝されていたから、すっかり表面は溶け切っていて、手が汚れないように急いで舐めとる。そうして口の中に広がったクリーミーな味わいと、優しい冷たさが、夏の暑さに熱った身体にはとても心地よかった。
「美味しいですね」
「まぁ……悪くない」
そう溢す御子柴くんの表情は、店で機材を見ていた時の表情と似ていた。
密やかに煌めく瞳と、緩んだ口角。それが作り出しているのは、15歳らしい無垢さを纏った、純粋に嬉しそうな表情だった。
私は、この表情を見るのが好きだった。その瞳の煌めきが、彼の未来を照らしているような気がするから。
多分、これからの帰路で手の皮は剥ける気がするし、予算がオーバーした件で上層部をどうにか納得させるために、かなり頭を使わなきゃいけないだろう。
それでも、まぁ、頑張ろう、と思えた。