そばにいて「一緒にいたい」
生まれて初めて、そう願った相手がいた。
でも、その人はそう願ってすぐに、エーベンホルツの前から消えた。手を伸ばしても二度と掴むことができないほど、遠く遠く、白い光に包まれていなくなってしまった。
だから、怖かった。
「そばにいてほしい」
そう望んでしまったことが。望んでも叶わないのではないかと、いやむしろ望んだからこそまた失うことになるのではないかと。そんな根拠のない恐れが頭をもたげて心を蝕んだ。
だから、伸ばしかけた手を静かに下ろすしかなかった。
それなのに——
「フランツ」
名前を呼ばれると同時に、右手を柔らかく握られた。微睡みの中にいた意識が、徐々に明瞭なものになっていく。瞬きを数回、クリアになった視界にこちらを覗き込む見慣れた顔があった。
「人の顔をずっと見て……寝ぼけてるのか?」
朝日に照らされた青い瞳が、フランツをじっと見下ろしている。その相貌にあからさまな感情はのっていないが、眼差しに心配する色があることはすぐにわかった。微細な表情の変化に気付けるようになったのは、彼と出会ってから幾日目のことだったか。そんなことを考えながら、フランツは握りしめられた手に力を込めた。
「……少しぼんやりしていたみたいだ。私はそんなに君の顔を見ていたか?」
寝起きのせいか、声が覚束ない。レッシングは小さく溜め息をつき、フランツのベッドに腰掛けた。
「1分近くな。眠いなら、まだ寝てていい。今日は来客の予定も視察の予定もないから、少しゆっくりできる」
言いながら、レッシングは片手で掛け布団の位置を調整した。元々起き上がるつもりはなかったので、彼の言葉に甘えることにする。フランツは寝そべったまま、繋いだままのレッシングの手に指を這わせた。普段はグローブに隠された素肌の感触を楽しむように、自分よりも逞しい手に触れる。時折くすぐったそうに指先が震えたが、レッシングが嫌がることはなかった。
「——傷だらけだな」
肌に刻まれたいくつもの古い傷跡をなぞる。何を今更と言わんばかりに、レッシングは目を細めた。
「触って楽しい手でもないだろ」
「そうか? 私は楽しいぞ。それに、昨夜この手で散々私に触れてきたのは君の方だろう」
「フランツ」
咎めるようにレッシングが呼ぶ。これは照れている時の反応だとすぐに察して、フランツは喉を震わせるように笑った。
レッシングの手がフランツの手を強く握る。もう勝手に動くなと言外に告げていたのだろうが、そうでなくてもフランツは指を止めた。
あたたかく、力強い手だ。フランツのものよりも大きく、指も太い。身の丈以上の大剣を振るう戦士の手だ。かつて、この手をフランツは掴もうとして、すぐに諦めた。
『そばにいてほしい』
その言葉を呑み込むと共に。
「君は、ずるいな」
意図せず、そんな言葉がこぼれ出た。
「何がだ」
「私が欲しかったものを、あっさりと渡してきた」
何のことだと、レッシングは首を傾げる。しかし、彼が言葉にして問うことはなかったので、フランツも答えることはなかった。
手を繋いだまま、目を閉じる。そうすると、数年前に双塔で起こった出来事が昨日のことのように思い起こせた。1枚の布を通して伝わってきた、レッシングの手の感触と彼の感情。レッシングも同様にフランツのそれらを感じ取っていたかと思うと少しばかり面映いが、繋がっているという事実が頼もしかったのも確かだ。
——きっと、そのせいだったのだろう。離れていくように見えたレッシングの手を掴みたくなったのは。
ウルティカ伯爵として生きると決めた時、フランツの中には十二分すぎるほどの覚悟があった。それでもその責任と重圧を強く感じ、ウルティカに帰る前の夜は一睡もすることができなかった。帰郷したのちには煩雑な職務に加え、こちらを快く思わない者や利用しようとする者、様々な思惑を抱いた連中を相手に上手く立ち回ることを要求された。貧しい領民たちの生活を支援することも急務だった。
フランツにも味方がいなかったわけではない。それでも、心から信頼できる相手はフランツにはいなかった。
ずっと、共にいてくれたら良いのに——
離れていくレッシングの背中を見詰めながら、フランツは思わず口に出しそうになった。それは全く無意識下のことで、フランツはひどく狼狽した。
いつの間にか自分は、あの青年のことを心から信頼し始めていたのだ。
レッシングに自由を与えたのは他ならぬフランツだ。彼が自分の従者だったのはほんの一時のことであり、7年の時を経て巡り会えたのは刹那の交わりにすぎないのだろう。
レッシングは己を戦士だと言った。そして、戦士は戦いが終われば次の戦場へ向かうだけ。
レッシングはそんな“自由”を大切にしていた。
だから、彼を引き留めてはいけない。それに、引き留めたらまた失うかもしれない。
かつて叶うことのなかった願いを思い出し、フランツは伸ばしかけた手を静かに下ろした。
それなのに、レッシングは帰ってきた
青天の霹靂だった。家族同然だったリッチたちと別れ、彼は故郷であるウルティカで暮らし始めたのだ。伯爵塔を訪ねてきたレッシングに、フランツは驚き、暫し幽霊でも見ているような錯覚を覚えた。信じられない心持ちのまま、これからどうするのだと尋ねたフランツに、レッシングはこう答えた。
“そばにいる”と。
「フランツ? 寝たのか?」
レッシングが常より柔らかな声で問うてくる。「ああ」と小さな声で答えると、呆れたような吐息の音がした。それでも、レッシングはそれ以上なにも言わない。フランツの手を握ったまま、どこかに移動する気配もない。
その存在が、体温が、あまりに愛しくて。
どこにも行ってほしくなくて。
フランツは無性に泣きたくなった。
かつてどんなに泣き叫ぼうと叶わなかった願いがあった。二度と戻らなかった人がいた。
一方で、諦めていたにも関わらず自分のもとに戻ってきてくれた人がいた。
痛みと幸福で心が引き裂かれそうになる。
それに耐えるように、フランツはレッシングの手をより一層強く握った。