流川、コートの中でお前以上に速くて、強くて、カッコいいやつなんてそうそういねえんだ。この天才が言うんだから間違いない。なあ覚えてるか?三年の夏、決勝で、俺が出したパスのこと…。
ひらひらと目の前で手を振られてはっとした。チームメイトがロッカールームの時計を指差す。コートに行く時間だ。流川はイヤホンを外し、カセットの停止ボタンを押した。
「ごめんな、カエデ。声かけたんだけど聞こえてなかったみたいだから」
「こっちこそ。教えてくれてありがと」
チームメイトはにこりと笑ってロッカールームを出て行った。気づけば自分が最後の一人のようだ。
イヤホンをくるくるとまとめて大事にバッグの中にしまう。
『天才に褒められたい時!』
その、カセットテープのラベルに表示されている文字に口角をあげた。
「…行ってくる」
***
実家から送られてきた宅急便の中に、馴染みの鳩が描かれている黄色いクッキー缶が入っていた。クッキーなんてわざわざ日本から送ってこなくても、と訝しんで手に取ると、蓋に「桜木くんから」と母親の文字で付箋が貼り付けられてあった。その名前にとたんに胸の中に喜びが広がって、他にも入っていた目当ての日本食も後回しに、クッキー缶を持ってそわそわとベッドの上に座る。桜木がどうしてクッキーを送ってよこしたのかはわからないが、思いがけない彼からの贈り物に頬がゆるんでしまう。何かのプレゼントのつもりだろうか。どあほうの考えることはよくわからないな。でも嬉しい。
缶は特に密封はされていなかったから、カパリと音を立てて難なく開ける。すると中にはクッキーではなく、一枚のメモ用紙とカセットテープがいくつか入っていた。テープのラベルには、『月曜の朝に』、『テスト勉強でやばいときに』、『ないとは思うが眠れない夜に』などと書かれている。意味がわからなくて、同封されているメモ用紙に目をやると、そこには桜木のあの大きく、意外なほど滑らかな字でこのように書かれていた。
寂しがり屋のキツネくんに、天才の声がいつでも聞けるようにカセットテープにメッセージを吹き込んだ。日本に帰りたくなったりバスケで他の奴らに負けてメソメソしたい時に聞けよ。
文章は挑発的だが真意はそうではないことが今の流川にはもちろん通じている。応援メッセージだ、と胸が弾んで、今すぐに全部聞きたい気持ちになったが、メモの最後で「ちゃんとラベル見ろよ」と釘を刺されて、唇を突き出してしまった。
桜木の声ならメッセージの内容なんて関係ないのに。なんなら、A面、B面いっぱいにずっと一人で喋ってくれているだけでいい。あいつの毎日のこと、読んだ本のこと、昨日したバスケの練習のこと、今度一緒に行きたい店のこと。
シチュエーションごとに分けられているということは、案外まめなところがある彼がきっと考えに考えてくれたのだろう。それを無視してしまうのは少し心苦しい。
そうは言っても目の前にこんなにお宝があるのに黙っているわけにはいかない。なんか今すぐ聞いてもいいのはねえのか。缶の中には数えて10個のテープがあって、その中でまさに今これだというものがあった。
『会いたいとき』
そのわずか30秒ほどしかないテープを聞き終えると、流川ははやる気持ちのまま寮の監督室に走って行った。電話しなきゃ。テープじゃなくて桜木の声で聞きたい。
後で聞いた話だと、流川が以前電話中に「自分の部屋に電話があったらいいのに」と言ったことがこのカセットテープのきっかけだったそうだ。
長電話できるからか?ベッドで寝ながら電話できるからか?
からかいまじりに桜木がそう尋ねると、まあ半分はそう、と、もう眠そうな声で流川が言った。
テメーの声、聞きながら寝たい。時間までずっと喋ってて、桜木。ここからベッドに潜り込むまでに桜木貯金するから。
そんなかわいいお願いをされてももちろんその場で素直に気の利いたことは言えなかった若かりし桜木花道だったが、そのことをうんうんと一生懸命考えて、そしてカセットテープにたくさんメッセージを吹き込もうと決意したそうだ。(当時、遠距離恋愛の恋人同士がよくやっていたらしい。それも流川をにやつかせた。本当にどあほうはかわいい恋人である。)
***
引っ越しの荷解きを手伝っていると、天辺に「大事なもの」と書かれた段ボールが目に入った。バスケ以外のおおよそ全てのことに対して不精な性格のあの男が、こうしてわざわざ分けて梱包しただなんて。そんなに大事なものとは、何が入っているんだろうと好奇心に負けた桜木は、ピリピリとテープを破いて中身を開けた。写真立てや何かのバスケ雑誌なんかが詰め込まれたその一番奥底に、黄色のクッキー缶を見つけてしまう。
嘘だろ。
かっと体が熱くなる。まさかあんな、何年も前のものを、まだ持っていたなんて。こんな。
「桜木?」
別の部屋で片付けをしていた流川がひょいと桜木の肩越しに彼の手元を覗きこんだ。そこにあるものを見て、ふ、と声を落とした。
「もうテープが伸びちまって聞けねえのもあるけど、捨てんのイヤだから持ってきた」
「…捨てればいいだろ。新しいの録ってやるし」
「ん。でもこれも大事だから」
そっとクッキー缶の蓋を開けて、中に入っていたカセットテープをなぞる流川の指先は愛情に溢れていた。
「一番聞いたのはこれ。試合前はいつも聞いてた」
「ふうん…」
「こっちは長距離バスでよく聞いてた。移動中に寝るのに最適だった」
流川はひとつひとつの思い出を大事そうに話す。いつまで経っても変わらないその美しい横顔が、目を細めて優しく話す様子は、自分たちがどれだけ長く、少しずつ一緒の時間を重ねてきたかを同時に思わせて桜木の胸を熱くさせた。
「でももうこういうのはいらねえだろ。…もう、これからはずっと一緒にいるんだし」
桜木が流川の腰に腕を回して抱き寄せる。バランスを崩しながらも桜木にしっかりと抱きしめられた流川は、そうだな、と彼の温かい腕に身を任せた。
「でも試合前に聞くやつはやっぱほしい。褒められるのも良かったけど、もっとテメーをぶっつぶすみてえな気持ちになるやつがいい」
「ははっ。いいぜ、新しいの録ってやる」
「あとエロいのもほしい」
「えっ!?」
「遠征中で会えないときに聞く」
いやそういうのは、つーかなんて吹き込めばいいんだよ、ともごもごしている赤い耳に、「今から録ればいいんじゃねえの?」と齧り付いた。新しい部屋の新しいベッドに、新しいシーツを敷いたばっかりだから。