桜木の機嫌が悪いのには薄々気づいていたが、自分には関係ないことだ。プレイが荒くなればファウルと取るだけ、腑抜けたプレイをしていれば尻を蹴るのも、力んでシュートを外したときに「ふざけたシュート打ってんじゃねえ、フォーム確認しろ」と口出しするのもいつものこと。
自分への苛烈な、全てを奪われそうな視線にももう慣れた。
着替え終わったロッカーの扉をバンッと荒々しく閉める桜木の様子に、流川はあえて大きなため息を吐いてみせた。
「モノに当たるな」
一年の頃なら、いやいつもの桜木なら「いちいちうるせえよキツネ」ぐらいは言い返してくるはずなのに、今日は何も言わない。そのままスポーツバッグを肩に掛け、ロッカーに背を預ける。流川が部誌を書き終えるのを待つつもりらしい。部室の戸締りは主将・副主将である自分たちのどちらかが行うことになっているのだが、流川も鍵を持っているので桜木が流川を待ってやる必要はない。先に帰らないのは責任感なのか意地なのか、それとも。
流川は今日のページに署名して、パタンと部誌を閉じた。やけにその音は部室に響いた。
沈黙が気まずい、と、この男相手に思ったことはないし、今も別に、何の会話もないようなこの狭い空間に二人きりでいても、流川はなんにも気にならない。ただ、休憩時間中に桑田に「二人の雰囲気が悪いと部全体がギクシャクするから、早いとこ普段通りに戻って」と言われたことが引っかかっていて、それで、桜木に自分から何かを話すべきかどうかを迷っている。普段通りと言っても別に自分が何かをしたわけじゃないのにと腑に落ちないが。
面倒ごとはごめんだ。バスケ以外の考えることを増やされたくない。でもそれがチームのためになること、チームに悪影響を及ぼすことであるなら、自分にも責任の一端はあるのかもしれないと思わなくもないのだ。流川は湘北バスケ部の副キャプテンであり、またこのチームのことを少なからず気に入っていたので、知らないふりをしてやり過ごすという選択肢は選ぶべきではなく、またそうした義務や責任とは別の感情からそうしたくもないと自分が感じていることを最近では認めていた。
顔を上げて桜木の方を見れば、彼もまたこちらを見ていた。流川の言いたいことがわかるのか既に嫌そうに眉間にしわを寄せている。それで逆に流川は口に出そうと決意した。そういう顔をしたいのはこっちの方だ、と。誰のせいだと思っていやがる。
「何にイラついてるのか知らねえが、部活中にそんなんじゃ後輩にシメシがつかねえだろ。仮にもテメーはキャプテンなんだからよ」
桜木が何も言わないのは、彼もきっと自覚しているからだろう。ただそれを流川に言われるのが腹立たしいだけなのだと、流川だってわかっている。だからこそこれは同学年の他の誰からでもーー赤木晴子からでもなく、自分が言わねばならないのだ。手のかかるやつだ。
「私情を部活に持ち込むな、どあほう」
桜木は一度流川を睨みつけて口を開きかけたが、何を言うでもなくそのままそっぽを向いた。その態度が流川をむかっとさせた。
「おい聞いてんのか」
「日曜日…」
「あ?」
「日曜、一緒にいたの誰だよ」
日曜?
はて、と思い返してみて、
「テメー」
「…」
「テメーとワンオンした」
と答える。
すると桜木はカッと反射のように再び流川に向き直って、
「ンなこたぁわかってんだよ!オレはそこまで忘れん坊じゃねえ!」
と唾が飛ぶ勢いでがなった。けれどそんなことで怯む流川ではない。彼も彼で話の流れが見えないことに苛立って、
「なんだっつーんだ。言いてえことがあるならはっきり言いやがれ」
と桜木を睨んだ。
桜木はうっと言葉に詰まってしまった様子で、再び窓の方に顔をそらしてしまった。
喧嘩がしたいわけでもなさそうだが機嫌が直ったわけでもないようで、全くもって桜木のしたいことがわからない。流川は壁にかかっている時計を見た。7時50分。そろそろ見回りの体育教師が来る頃だ。またああだこうだとうるさくせっつかれるのかと考えてうんざりした。その深く吐いた息をどう解釈したのか、桜木が顔をそらしたまままるで不貞腐れたように話し出した。
「…ワンオンが終わってから、今週の部活メニューのことで聞きてぇことがあったの思い出して、テメーを追いかけた」
「…そうだったのか?」
桜木がちらっと流川に視線をやる。その唇は尖り、目はいじましく流川に何かを訴えていた。これはいじけている顔だ。以前までは宮城や彩子など一学年上の先輩たちによく見せていた表情だが、最近はあまり見ないものだったし、そもそも流川に見せることなんてないものだったから拍子抜けした。
「駅に着く前にテメー、誰か知らない女の人と会ってて、すげえ仲良さそうで…」
日曜…日曜…女…駅…。
「なんか、その女の人もすげー楽しそうだったし…」
「あ」
「あ、じゃねえよ!あれが誰なのかって、聞いてんだよ。察しの悪いキツネだな!」
「あれは従姉」
「…い、」
「北海道に住んでる従姉。なんかシュッチョー?とかでこっち来てる」
「…イトコ…」
「日曜に鎌倉を案内する約束してたの忘れてて。駅で会えたから、まぁギリギリセーフ」
「忘れてたらアウトだろ」
案内と言っても、不慣れな土地を一人で歩くのは不安なのでついてきてほしいというだけのもので、目的地は従姉が全て決めていたため流川は本当についていっただけだった。いつだか母親に「今度の日曜ね」と頼まれた記憶はあったが、それがこの日曜であったことをすっかり忘れて、もはや休日の習慣となっている桜木とのワンオンワンをするためにストバスコートに出掛けてしまったのだ。
幸い待ち合わせ時刻を大幅に過ぎていたわけではなかったのだが、アブナイアブナイ、とさすがの流川も胸をなでおろしたことを覚えている。従姉は笑って許してくれた。でも母親にはしこたま叱られた。それを思い出してむかむかとしてきた。
「テメーのせいだ」
「あん?」
「テメーとワンオンしてたら約束のことすっかり忘れてた」
少し語弊はあるし理不尽な言い草であることはわかっているが、この能天気な赤い頭の男を見ているとなんでもかんでも言ってぶつけてみたくなる。
「オレは無関係だろ!人のせいにすんなよ!」
「テメーがしつこかったから。何回も何回も…さっさと負けを認めればよかったのに。意地っ張りサル」
「な、な、な、」
あまりにもあんまりな言葉に桜木は顔を真っ赤にして興奮していた。握り込んだ拳がぷるぷると震えている。お、言い返すか?殴ってくるか?といずれかを期待して流川は身構えたが、桜木はあっけなくその拳を解き、舌打ちしてからロッカーに預けていた身を起こした。
「バスケバカのお前に付き合ってやれんのはこの天才くらいだろ。ありがたく思えよ」
「は?」
「部誌寄越せ。持ってってやる」
差し出された手のひらは大きい。見上げると桜木が、ふてぶてしく傲慢不機嫌そうな、それでいて実はもういつもの彼であることが流川にはわかった。無言でその手に日誌を載せると、桜木は大股歩きでずんずんと部室から出ていってしまった。鼻歌なんて歌いながら。