おぼ娘 sdrn凛の世界の全ては冴によって作られていた。
身につける服や持ち物、遊ぶおもちゃから交友関係に至る全てを自分で選ぶことはなく冴の「凛はこれが好きなんだよな」「こっちの方がいいんじゃないか」に小さく頷いて受け入れているうちに凛は自分で考えるということをほとんどしなくなっていたのだ。
そうしているうちに意思表示をすることが苦手になってしまった凛は周囲の人間とどう付き合えばいいのか、どう振る舞えばいいのかわからないまま成長していった。
年頃の女の子達の中で一人浮いてしまった凛に友達など出来るはずもなくそれでも凛は冴がいてくれればそれでよかったしこれから先もそれは変わる事はないはずだったが…
それが崩れたのは冴がサッカーの為に渡西する事が決まり空港で冴を見送った後のこと
凛は自分がひとりぼっちな事に気がついたのはその日の夜
空いたベッドを見た時にようやく兄がいないという事実が胸中に落ちてきて「兄ちゃんがいない」と母に抱きついて泣きながら眠りについた。
やけに大人しく受け入れたと思っていただけに母は今!?と驚愕し凛の鈍感さに呆れながらも今後起こりうるいくつもの困難にこの小さな身体で立ち向かわなければならない事に親としてできうる全てを捧げなければと夫と誓い合ったのは凛はいまだに知らぬ事。
意思表示をすることが苦手な凛はその後ますます内にこもるようになってしまいそれは容姿に恵まれていた凛を妬むものにとっては格好の餌であり……やがて迎えた高校生活もどうせ明るいものではないだろうと諦めていた。
「糸師さんって彼氏いるの?」
「超タイプっていうか、一目惚れしました。って感じでさー」
「…付き合わね?俺ら」
入学初日。帰り際にクラスメイトに声をかけられたと思えば校舎裏に呼び出され急に告白されてしまい凛はピタッと固まったまま何も言えずもじもじとその豊満な身体を縮めさせていた。
どうしよう、兄ちゃん
はじめましてなのに…告白されちゃった…!
恋愛に関して未熟未満。少女漫画が教科書で恋のこの字も知らない凛にとって告白などというイベントはあっという間に頭のなかをキャパオーバーにさせ「ぅうーん…」と肯定とも否定とも取れない鳴き声を上げることしかできなくなってしまい不毛なやり取りを続けること数十分
いよいよ痺れを切らした男が声を荒げかけた時…それは起こった。
バシィン!!!
凄まじい打撃音と共に男が地面に沈む
凛は驚きのあまり声も出せぬまま目を見開いて固まる
「あ、ごめーん。思ったよりイイとこ当てちったわ」
呻き声を上げながら地面に蹲る男越しに近づいてくるのは如何にも不良っぽそうな男
金髪にピンクのメッシュが入った髪に爬虫類を連想させるかのような目つき。褐色の肌や低くて男らしい声に思わずとって食われるのではと凛は反射的に恐怖心を抱き身体が小さく震え始める。たすけて!兄ちゃん!と心の中で助けを求めたがスペインにいる兄にその言葉が届くわけもなく…
「大丈夫?」
「…!!」
そう声をかけられた瞬間一目散に逃げ出してしまったのだった。
どうしよう…
あの日恐怖のあまり逃げ出してしまってから早1週間が経ってしまった。昼食の味もろくにわからないまま頭の中にはあの日の光景がリフレインし続ける。
助けてくれたのにお礼も言わずに逃げだしてしまった上に今にして思えば制服の胸部分にある装飾の色は青…つまり今の3年生のものだったはず
1年生なのに生意気だって、きっと怒ってる。
しかし謝らないといけないとわかっていながら勇気が出ない
もし今この教室に怒鳴りながら入ってきたら…
皆の前で謝れって、お前が悪いんだって言われたら…
「糸師さん?」
「ひ!」
「わぁ!何!?そんなに驚くことなくない?」
「ぁ、う」
すっかり他に思考を飛ばしてしまっていて話を聞いていなかった。どうしよう、とすかさず謝ると周りの女の子達は気を使いすぎだと冗談っぽく笑い飛ばしてくれたのに対してほっと胸を撫で下ろす。
(よかった…怒ってない…)
「それより口の端に米ついてるよ」
「ほぇ…」
どこだろう…と口元を擦りながら凛は再び考え始める。
散々だった中学時代
周囲に溶け込めず完全に浮いてしまった自分に浴びせかけられた非難の言葉の数々
散々身に覚えのない事を指摘されては嫌がらせを受け、しまいには自分の知らない先輩や後輩。それに次いで先生や他校の生徒まで不特定多数の人間と付き合ってると噂をされてしまい「人の男を取っておいてどういうつもりだ」と怒鳴られた事もあった。
怖かったけど素直に答えれば誤解だったと離してくれる事を期待して「知らない、わからない」と言ったのに対し嘘をつくなと髪を引っ張られ頬を叩かれ…隠された靴が見当たらず泣きながら靴下のまま帰ったあの日は今でも忘れられない
もうあんな思いをするのは嫌だ…
「糸師さんはどうする?」
「ふえ」
囲うようにしていた机の隙間がやけに広く見える
どうしよう。まただ。
「もちろん行くよね?」
何に?と聞かなければならないのに言葉が出てこない
聞いたら自分が聞いていなかった事がバレてしまう
「え?もしかして聞いてなかった?」
「う、うん…ごめ、」
「カラオケだよカラオケ!行くっしょ?」
「からおけ…」
全員が自分を見ている
本当は行ってみたい。でもダメ。兄ちゃんが決めた門限がある。カラオケに行ってからでは到底間に合わない
皆の目が怖い
「17時までなら、」
「なんで?なんか用事?」
「門限で…」
「門限!?」
ケタケタと甲高い笑い声が響きあっていたかな?と皆に合わせて笑おうとして…悟る
間違えたんだ。皆の目が違う。笑顔がさっきまでの楽しげな雰囲気ではなく自分を嘲笑するものに変わっている。
「門限ってなに!?糸師さんって超箱入りじゃん!」
「てか超天然だよねーそれってキャラ付け?」
「今時そういうの流行んないからやめなー」
皆がなにを言ってるのかわからない
とりあえずニコリと笑ってみるがこれも違うらしい
どうしよう なんとかしないと
またあの頃みたいになる
空気が変わったのは直感的に理解しているがそれをどう対処していいのかがわからない
笑って誤魔化すのは不正解。なら自分は何をしたらよかった?素直に答えただけなのになんでこんな空気になってしまったのだろう
その後は自分はどんな会話をしたのか覚えていないがすでに世界から切り離されてしまったようなそんな感覚に襲われたまま時間はただ過ぎていった。
昨日までは皆で歩いていた道を今は一人で歩いているという事実が今はただ虚しくて悲しい。
兄ちゃんがいた頃はもっと周りの人とうまくやれていたのに…今は皆の話題あわせて会話の返しを考えるのがすごく難しい
ポツリと地面に水滴が落ちる。雨?違う。頬を伝う雫はやけに温かい
「うっ、う…」
『私達カラオケ行くから。じゃあねー』
そのじゃあねにまた明日がつけられなかったのは多分ただの偶然ではない。身に覚えがあるからわかる…明確な線引きをされた
あの時までうまくやれてたのにきっと明日からまたひとりだ。今からやり直す自信はもう自分の中にはないし、現に失敗してひとりぼっちになってしまった以上もうどうしようもできない
「ひぐ、ゔっ…う…」
「どーしたの」
「ひゃあぁ!?」
唐突に声をかけられ驚いて心臓が口から飛び出そうになる
情けない声をあげながらビクビクと震えるみっともない自分にそんなに驚かなくてもと呆れた様子で声をかけてきたのは見覚えのあるあのサッカーボールの人だった。
「ぁ、あ!」
「ん?」
「こっ、ここっ、このっ、この前」
「吃りすぎじゃね」
おもしれーとケラケラ笑う様子からあの日のことはもしかしたら覚えてないのかもしれない。少し安心しながらも謝罪しなければと話を切り出そうとするが言葉がうまく出てこず緊張と驚愕で止まってしまった涙が再び膜を張り始める。情けなさと恥ずかしさで詰まってしまった言葉が意味をなさない音となって口から漏れ出しこのままではまたあの恐ろしい目で見られるのだと俯いたその時
「とりあえずそこ座らね?」
「ふぇ」
「なんか顔色わりーし」
男の顔は先ほどまでと変わらず未だあうあうとろくに返事もできない自分に気を悪くした様子もなくむしろ「水飲む?」と未開封のペットボトルを差し出してくれた
そっと受け取りごめんなさいと謝ると不思議そうな顔をしてから手を引かれベンチに座らせられた。
「泣き止みまちたかー?」
「うん…」
「またいじめられたとか?」
「いじめ、…?違います…」
なんで急にそんなことを言い出すのかと思っていると「ほらあんときもさぁ」と初めて会った時のことを掘り返されてやっぱり覚えていたんだとひっくり返りそうになりながら慌てて頭を下げる
「あのときはっ、ごめんなさい!」
「え?」
「助けてくれたのに…逃げて…」
「別にいいけど」
特段気にした様子もなく男はこともなさげにそう告げるとややあってから「そうだ」と何かを思いついたように口を開いた。
「泣き虫ちゃん。お名前は?」
「わ、わたし?」
「私しかいないっしょ」
「あ、あ、…いとし、糸師…凛です」
「凛ちゃんね。俺は士道龍星」
「士道、先輩…」
「そーそー」
こちらが名前を呼ぶとニコリとしながら覚えといてねと笑いかけてくれる姿に見かけによらず優しそうな人でよかった。と胸を撫で下ろす
しかしそんな安心も束の間。
「凛ちゃん、明日の帰り放課後デートしよっか」
凛はその一言に今日イチの声無き悲鳴をあげたがその声は士道に届くことはなかった。