戀『プロテニスプレーヤーの手塚国光、熱愛!? お相手はあの有名企業の令嬢!?』
そんなチープで取るに足らないはずの熱愛スクープに跡部は深く息を吐いてパソコンの電源をケーブルごと抜き取ることで強制的に落とした。これが嘘か真実なのか、跡部にとって調査など容易いことなのだが、よりによってそのターゲットが手塚国光なのがいけなかった。跡部景吾の全てを懸けて戦った相手である手塚国光は永遠の宿敵であると同時に跡部の中では気のおけない友人の立ち位置でもあった。他の対戦相手と比べてもやはり一歩前に出るような、まるで特別視しているようにも自分でも感じるほどに手塚のことは気に入っていた。その手塚が知らないうちに手のひらからこぼれ落ちてしまったかのような錯覚に跡部は珍しく舌打ちをして荒々しくベッドに身を預けた。
(あんな陳腐な記事を信じているわけじゃねぇ。手塚を信じられないわけでもない。そうじゃないと言い切れるはずなのに、どこか信じたくない自分がいる……?)
嫌な動悸と目眩に襲われて内臓からせり上がるような吐き気が酷い。一思いに吐いてしまいたい衝動に跡部は身を縮めてベッドの中で吐き気の波が収まるまで目を閉じて口を押さえた。気高く神聖な手塚国光の名を穢され、自身の思いも穢された怒りに思わずクソ、と暴言を吐いた。美しい真実を映し出すためのフィルターは汚らしい手垢のついた記者どもの手にかかればハリボテのくせに真らしくそこに鎮座する本物になってしまうらしい。こうして世界は回っていくのだというのだから皮肉なものだ。身体に蓄積していく毒のような塵が少しずつ跡部を包み込む。震える指先で放り投げられていたスマートフォンを手繰り寄せて画面を操作する。手塚国光、の文字を表示した画面に数秒考え込んで跡部は躊躇い、そしてスマートフォンの電源を落とした。きっと今日の仕事はもう手につかないだろう。取引先の電話だって来るはずだ。会社にとってもそれは優先すべき事項であって社長自らが仕事を放棄するなどと思いもしたが、はっきりとしないこのなんともいえないもやもやとした気持ちを胸の内に生み出したあの記事を思い出して力の抜けた身体は言うことを聞かずに跡部を眠りへ誘った。ただ、跡部はこのとき無意識にあれだけためらっていた手塚への連絡を無意識のうちにしてしまっていたことには気づかぬまま、意識を手放したのであった。
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「跡部、起きろ」
手塚の少し機嫌の悪い声がする。これはきっと夢なのだろう。跡部が見ている都合の良い夢。手塚がここにいるはずなどないのだから。ふわふわとした夢心地の中で手塚だけが異質だった。
(夢でくらい微笑みかけて優しくしてくれてもいいんじゃねーの……?)
唸るように声を上げてまだ重いまぶたを開けると目の前に手塚がしかめっ面をして腕を組み、跡部を見下ろしていた。
「……は? 手塚、なんで、ここに……?」
「メールが来ていた。お前にしては不明瞭で短いメールだったから、何かあったのだろうと思ってな。勝手に部屋に入ってしまったのは謝罪するが」
「……俺様はメールした覚えなんてないぜ……」
「……これを見てもそう言えるのか?」
眼前に晒されたメールは『幸せになれよ』とだけ綴られていて手塚は何に対してなのかさっぱり理解できなかった上に文面だけ見れば不穏な雰囲気を感じたので跡部に何かあったのではと練習を切り上げてわざわざここまでやってきたのだという。まさか、意識がおぼろげで弱っているときにこんな失態を犯してしまうとは情けないと自分を嗤った。黙っていても隠し通すことも出来ないしなによりここに心配して駆けつけてくれた手塚に申し訳ない気持ちがあったので全てを話した。手塚の熱愛スクープを見てしまったこと。それが真実などではないことを理解はしていたがどこか心の奥ではもしかしてと思ったこと。手塚のことを理解していると言いながら少しでも疑ってしまい、勝手にヤケになっていたこと。その他にも色々、今までの想いを全て手塚にぶつけた。それを聞き終えた手塚は深く息を吐き、跡部の目を見て聞きようによっては冷たくも感じる声で問を投げかけた。
「今、目の前にいるのは誰だ?言ってみろ」
「……てづか、手塚国光だろ……」
「そうだ、今お前の目の前にいるのは俺だ。跡部、今日の俺はお前を選んだ。これがどういう意味なのかわかるか?」
「……わけ、わかんねぇよ……! まだ、俺は……」
あの女性と比べるなんて、あっていいはずがないのに。それでも選ばれたのだと、そう思うだけで視界が歪んで声が上手く出ない。呂律も回らなくて手足に力が入らない。死ぬほど嬉しいのにそれを表現するすべを持たないのがひどくもどかしくて手塚の腕を掴んで床にへたり込んだ跡部に手塚は同じように、しかしはっきりとした意思のもとでしゃがみ込み、跡部の顔を覗き込むように見上げた。目を逸らすことは許さない、と言わんばかりの視線に簡単に高揚する身体が恨めしい。
「……て、手塚! や、やめ……!」
「やめろ? そうしてほしい顔には見えないが、嘘は良くないぞ跡部」
「……あ、え、な、にがだよ……?」
「期待している目をしているが本当にやめたいのか?」
全てを手塚に見抜かれているようで全身に血がかけ巡るのがよくわかった。恥ずかしい、こんな浅ましい気持ちをさらけ出すことが怖くて自らを騙してまで手塚への想いを誤魔化し続けていたのに、そんなものは無意味だと言わんばかりに鋭い目に射抜かれた。噛み殺しきれなかった跡部の悩ましいため息に手塚は顔を変えずにまばたきを一つしてもう一度跡部に同じ問いを再度投げかけた。そんなこと、わかっているくせに。跡部が手塚を拒むことなどないことを知っているくせに!責め立てたい気持ちと同時に試されているのか、という悲しみが生まれた。いつだってお前を想わない日はなかったというのに。跡部は言葉を紡がずに涙を一つこぼした。だからこそ意趣返しとまではいかないが跡部も口を開いた。
「やめる、と言ったらお前はどうすんだよ。そうか、と言ってここを立ち去って何事もなかったかのようにこの先振る舞うのかよ?」
「……」
「俺ばかり振り回されて、あんな中身のない記事に踊らされてみっともなく取り乱して、俺様はおかしくなっちまったのかもしれねぇな! 長居なんてせずに本命のところに行ってやったほうが……!?」
「跡部」
名前を呼んだ手塚の瞳は冷え切っているのにその奥では地獄の業火のようにメラメラと燃えたぎっているように見えた。跡部はそれを見て手塚の地雷を踏んだのだと理解した。柔らかな質のいいベッドに縫い付けられているだけの手首がどうしてこんなにも痛んでいることにも気づかなかったのだろうか。手塚は怒りを纏って押し倒した跡部を見下ろしていた。それに理不尽な怒りを感じて跡部の瞳からじわりと涙が流れ落ちた。意地を張りあったところで得られるものなど何もないことくらいわかっていたのに手塚が跡部を試したように跡部も手塚を試したくなったのだ。その結果がこれだなんて、あまりにも酷な話であった。手塚が言葉を発さないことでこの静寂が包み込む空間に聞こえるのは跡部のすすり泣きのみだった。しばらくして手塚は跡部から距離を置くようにベッドの端に座り、跡部から顔を逸した。沈黙が怖くて跡部は這うように手塚に手を伸ばしてシャツの裾を掴んだ。
「信じ続けることがこんなにも難しいことだったなんて、思わなかった。俺は手塚のことを疑ってはいけなかった。そうであらねばいけなかったのにな。ほんの一瞬だけ、もしかしたらそっちのがいいんじゃねえかと思っちまったんだ」
「……ただの宿敵にそこまでする必要があるのか。そこまで踏み込んだ関係だったか俺たちは」
「手塚、俺はただの宿敵じゃだめなんだ。今回の件で気付かされた。俺様は、俺は、手塚が好きだ。誰かの恋人になる手塚を想像してこのザマだ。……きっと初恋なんだろうな」
「……それは、知らなかったな」
「そうだろう、俺様も今さっき知ったからな。……なぁ、手塚。助けてくれ、この苦しみから俺様を。手塚が隣にいない未来なんか考えられねぇんだよッ……!」
「跡部、俺は……」
あぁ、言わなければよかった。後悔しても遅いというのにわずかにあるかもしれないと望みをかけて口に出してしまった。珍しく困ったような表情を見せた手塚を見て余計に泣きなくなった。こんなの誰が聞いたって重い。人の人生を受け止める決断を迫っているのだから当然だと言えば当然だがそれでも跡部はこの場で返事が欲しかった。手塚に幸せになってほしいと言っておいて困らせて最悪、近づくことさえ許されなくなるかもしれないことをしているのを自覚した。しかし、もう手塚への想いを心の箱にとどめておくのには限界だった。溢れだす愛しさと拒絶への恐れ。跡部を混乱させるのにはそう難しくはなかった。今は手塚の寡黙さが恐ろしくて顔を上げることができなかった。断罪の足音が聞こえてくる気がする。いっそのことこの身など滅びてしまえばいい。そうすればなにも考えなくていいのだから。
「跡部、顔を上げろ」
「……断る」
「そこまで悲観する必要がどこにある? それに俺はまだお前に答えを返していないだろう」
「……お断りの言葉ならオブラートに包んでくれよ?」
「残念だがお断りの言葉ではない。俺はあの試合からお前のことが好きだった。それが俺の初恋だ。そして今の目の前にいるお前のことを未だに好いている。聡明なお前ならばこの言葉の意味がわかるだろう?」
何を言っているのかわからない。未だに好いている?俺が初恋?嘘だと脳が判断してくれればいいのにその言葉を正しく受け取ってしまった。あまり言葉多くない手塚がここまで噛み砕いて話してくれたというのにいつもなら回る口が上手く回らない。あの試合からだなんて、もう十年は前の話だ。十年も前からこの目の前にいる男は自分を好きでいて、その想いを墓場まで持っていくつもりだったのだと理解してしまった。本当は言うはずじゃなかった、想定外だという顔をした手塚になぜだかふっと安心して身体の力が抜けてしまった。テニスに愛されてテニスのみを追い続けていると思っていた男を隣で見ていたはずなのに、その男がこちらを見てくれていたことなんて気づきもしなかった。嬉しくて涙がまたこぼれてしまいそうで跡部は俯いてしまった。隣で俯いていても嬉しそうに笑う跡部になぜだか手塚は熱を分けるようにすり寄りたくなった。確かに感じる跡部の体温に手塚はあまり崩さない真顔を少しばかりの微笑みに変えて跡部の肩にもたれかかった。珍しいじゃねーの、と驚いた跡部がならば俺様もと手塚にもたれかかるように身を寄せた。お互い押し合うようにくっついては離れてを繰り返して最後は馬鹿らしくなって二人で小さく笑いあった。
「ふはッ……! 何やってるんだ俺様らは!」
「……あたたかい気持ちとはこういうことなのだろうか? 気が抜ける変な感じだ……」
「手塚よ、それは幸せと言うらしいぜ。手塚が俺様と一緒に過ごすことを幸せだと感じてくれてるのなら俺様も幸せだ」
「……幸せ、跡部は俺といて幸せなのか?」
「そうだ、こんな時に手塚が隣にいてくれて寂しかったのも苦しかったのもなくなったのかもしれないな」
そうなのか、と何かに納得したように手塚は呟いて跡部の前に移動して優しく跡部を抱きしめた。え、と声を上げた跡部を気にすることなく手塚は跡部の髪を撫でた。これで、さみしくないだろう?跡部の不安はなくなったか?と不安げに聞いてくる手塚にどうも涙腺が緩んでしまってただ一言、ありがとうと跡部は呟いた。近年、辛いことがたくさんありすぎて涙を流せども麻痺してしまった心が柔らかく揉みほぐされていくような心地に自身が情けないと思いつつも自身の宿敵であり、貪欲でありながらもうつくしい心を持つ手塚の純粋な優しさに心打たれた。手塚はそれっきり何も言わずにすすり泣く跡部に対して子供をあやすように頭を撫で続けた。しばらくして悪いな、と目を赤くした跡部が申し訳なさそうに手塚を見てきたのをきっかけに跡部の手を両手で包み込むように握った。
「手塚!? きゅ、急にどうしたんだ!?」
「今日は俺と寝るか? 跡部」
「ねっ………………!?」
「……? 添い寝してやろうと思ったのだが余計なお世話だったか?」
「…………あぁ、そういうことかよ……すまない……俺様が悪かった……」
不思議そうに跡部を見る手塚にもしかしてと一瞬でも期待してしまった自分をブツブツと責め始めた跡部は体勢を変えてベッドに沈みこんで黙ってしまった。うつ伏せで動かない跡部の背をなぞるように指を滑らせると肩を震わせた跡部を面白がるように手塚は背中にのしかかり、跡部の耳に唇を寄せて舐るように舌を這わせて甘噛みした。
「跡部、好きだ」
「ん……くすぐってぇ……て、づか……」
「可愛らしいことを言うからつい甘やかしたくなったんだが」
「ば、かなことを言ってんじゃねぇ……! 普通に寝るんだろ……!?」
「普通じゃないことがいいのか? それでも俺は良いが」
「……手塚ァ!!」
本気で恥じらい始めた跡部に対して上から退くように言われて素直に応じた手塚に跡部はもごもごと口を歪めて目を逸らした。絶対に駄目だとは言っていないとそっぽを向いた跡部にわかっているはずなのにわからないといった表情をした手塚にもどかしくて拗ねた口調で寝ると言い放った跡部に今度はからかいすぎたと珍しく言い訳を並べる手塚に跡部は伏せていた顔を上げて悪戯が成功した子供のようにふふと笑った。こんな時が永遠に続けばいいのにと目を逸らさないように手塚を引き寄せて眠りについてしまおうと跡部は考えて目を瞑った。