クラシックは金食い虫 クラシック音楽はとにかく金がかかる。
それを知らないでピアノを喜んで弾いていた幼い俺は、のんきであった。
ピアノを始めたのも単純だ。幼稚園の友達に誘われて、そのピアノの先生に褒められて、そして自分が指を落とすだけで音が鳴るピアノ、というものが面白かった。そんなもんだろ、ガキの頃なんて。
追いかけっこで走るのも友達とボールで遊ぶのもそりゃ楽しかったけど、椅子に座ってるのにちょっと体を、指を、動かすだけで次々と新しい音が出てくる。力加減やスピードを変えれば同じ音のはずなのに違って聞こえる。この面白さはまた別だったんだよ。のめり込むように音を探して、鍵盤に指を滑らせ、メロディを追いかけ、伴奏と並走した。
ところがどっこい、小学校に上がって両親が離婚した。喧嘩する様子なんてこれっぽっちも見せなかったし、だからと言って酒やパチンコに走っていたわけでもなかった。もしかしたら浮気とかかもしらねぇけど、理由は未だ不明だ。
そうこうあって俺と母さんは家を出た。アップライトの黒いピアノは、一緒に着いて来れなかった。母さんは仕事を始め、しばらくして日に焼けたキーボードを買ってくれた。数日でも離れていた指先は元通りではなかったし、ゲンミツにはピアノでもなかったけど、俺に答えてくれるように音が鳴る鍵盤に触れることが嬉しかった。お礼に母さんの好きな曲を弾いてあげたら笑いながら泣いてた。なんで泣いてるんだよってわけわかんなくてビビった俺も泣いたな。
その後、隣の部屋のおばちゃんからピアノの音がうるせぇと文句をいわれた。だからそれからは狭いアパートの部屋で息を殺すように、音量を最小にして練習をした。
ピアノ教室も週1回から2週に1回になった。それでも楽しかった。
現実を知ったのは奇しくもピアノの発表会だった。ピカピカのきれいな衣装を着て、綺麗な指で大きな音で、のびのびと弾くピアノ以外の憂いが何もなさそうな同年代の彼らを見た時に、演奏を聴いた時に思ったのだ。
僕は、みんなのようなピアノを弾けない。
お母さん、と僕と同じような顔している母親を呼んだ。ぼく、発表会が終わったらピアノ辞めるね。
お母さんは、母親は何も言わずに俺を抱きしめた。ごめんね、という言葉に選択を間違えなかったと安心したのを覚えている。
それからしばらくして俺は宮崎に引っ越した。キーボードは置いてきた。母さんは持っていってもいいんだよと言ってくれたけど。
転校先で、ピアノを弾いていたことも言わなかった。悲しいことにピアノがなくても俺はなんとか生きていけるタイプの人間だったらしい。まぁ、そういうことだ。
だから俺がピアノを弾けることを、母さん以外ここでは誰も知らない。
ーうっかりだった。音楽準備室にある資料をとってきてほしいと担任に言われて、普段出入りしないその部屋の鍵を回したらさ、まさか懐かしのグランドピアノがお見えするなんて思わないだろ。準備室だぞ。この高校、吹奏楽もないんだぜ?
夕日に当たらない位置にあるソイツは、かつてピアノ教室で向き合ってたのとそっくりで懐かしくなりフラと寄ってしまった。埃をうっすら被ってはいたが、状態は綺麗に保たれている。
辺りを見渡す。誰もいないことを確認してから、ピアノに近いて蓋を開ける。幸いなことが不幸なことか、ロックはかかっていなかった。
ピカピカとはいかなかったし埃っぽい匂いはしたが、丁寧に管理されているのがわかる。
「……」
白い鍵盤に指を落とせばポーン、と音が鳴る。意外にもきちんと調律されているらしく、丁寧な響きがした。
そのまま椅子に座って調整し、ペダルに足を置く。指を多少回して温める。
曲?決まってる。最後の発表会で弾いたあの曲。
あぁ、クソ指が回らない。そりゃそうだ、何年振りだと思ってるんだ?まともにピアノに触ったのも10年ぶり。それが準備体操もなしにあの当時1番最高潮に弾けていた時の曲だぞ。
それでも、錆びついてる指でも、ぎこちなくても多少あの頃のように旋律を追いかけることはできる。よたよたと縋り付くようでも、伴奏が付いてくる。もう崩壊しかかってる。早く手を止めておしまい、にすれば楽なのに。
楽なのに、それでも指は必死で動き続けた。曲の終わりに向かって、止めることができなかった。
あぁ、ピアノは相変わらず話しかけてくれるように答え合わせをしてくれる。頼りない指先でも、よろめくような運指でも。それ以外の雑音に耐えられなかった俺が悪い。お前は悪くないよ。でも、雑音が無視できるほどに俺も強くなかった。母さんを巻き込んでまでできる強さがなかった。だから、これでいい。今もまぁ、悪くはないと思えてる。
本当、場違いにも程があったよな。おかげで大火傷をする前に戻って来れた。
最後の音を弾き切った時、全身が疲労困憊となっていた。まるでクラスのやつと戯れてプロレスごっこをしてもこんなにならねぇよってくらい。でも、不思議と充足感があった。かっこ悪いけど、まだピアノが弾きたいと思えるくらいには好きなんだな。俺。
外からゴン、と音が鳴った。パッと振り返ると部屋の窓から誰かの影が見えた。隠れようとしたが観念して出てきたその姿に思わずでかい声を上げた。
「み、三上!?」
「ご、ごめん!聞くつもりはなかっんだけど」
手に楽器ケース、その中身はおそらくホルンだ。外部のなんとかオーケストラとかでたまに宮崎の駅前とかでそいつらと一緒に吹いてるのを見たことがある。よりによって、とヤバい、という気持ちで思考がぐるぐると回って言葉が浮かばない。早くなんとしないと、でも何を?肝心なことは何も思いつかず口をパクパクさせることしかできない。
「ピアノ、弾くんだ」
「あ、あはは!バレちまった!?俺の輝かしい才能に!」
「……もう、」
目の前のクラスメイトは何かを言いかけて口を噤んだ。辞めた先の言葉が想像ができたし、それを最後まで言わなかったのはきっとうっかり触れてしまった悔しさみたいなもんだろう、なんでおまえがそんな苦虫潰した顔してるんだよ。お前のことじゃないだろ。
「俺さ、辞めたんだよ。ピアノ」
だからなるべく早く暗くならないように、あっけらかんに聞こえるように俺は口を開いた。
「…」
「あるだろ?スジがいいからって子どもの頃煽てられてさ、調子に乗って始めたはいいけどほらやっぱさ、お金も時間もかかるし、俺あんま才能ないし、続けられねぇなって人生の方向転換したわけ!」
自分語りなんてキモいだろ、しかも終わった上に大したことのない話。だから終わろうと思ったのに、視界の端に映ったピアノの姿につい言葉が出てしまった。
「このピアノ、昔通ってた教室のやつと同じなんだ。だからなんか懐かしくなって……弾けるかなって」
目の前にある鍵盤に指を落とせば、調律された音が鳴る。でもこれではただ鳴らしただけ。ピアノの音の本質は鳴ることだけではない。俺は知ってた。まぁ、ちょっとだけど。知っているからこそ、辛いことってあるんだよな。遙か先に本当があって、それに届かない自分を思い知るハメになる。
「何年も触ってねーから全然ダメだな。自分でも笑っちまった」
「笑わないよ」
湧き上がるのを誤魔化すように笑いかけたら、夕陽に照らされた三上の顔は悔しそうに歪んでいた。
なんで、お前がそんなに悔しそうなんだよ。俺がピアノを弾けないのも、とっくに下手になったのも、辞めてしまったのも、お前のせいでもなんでもないのに。俺はもう、カサブタの上をひっかいてるみたいなもんなのに。
「ーだってお前、すごく真剣な顔して弾いてた。そんなやつの音楽を笑うこと、俺は絶対しない」
そう答える三上の顔は、俺よりも悔しく、でも真剣な眼差しでじっとこちらを見据えていた。
お前はーお前は。あんな辿々しいメロディを繋ぎ合わせたただの旋律をまだ、音楽だと思ってくれるのか。繋ぎ止めたような音たちを,それでも。
どう言っていいかわからず、俺はただ見つめ返すことしかできなかった。
「ごめん。出しゃばりすぎた」
顔を背けたのは、三上の方が先だった。生真面目に謝ってきたけど、その耳の端が赤くなってるのを見て、緊張の詰まった空気が緩んだような気がした。俺も少しホッとして、軽い口調で答えた。
「三上って意外に熱いんだな」
「そっちがからかうなよ」
「冗談。……ありがと」
どうかこの言葉が重すぎくなく、適切な重さで響いてればいいと思いながら。