不変「言った本人は覚えていない軽くて適当な言葉ほど、うっかり他人を救ってたり殺してたりするものさ」
開放された窓から南国特有の生ぬるい風が流れてきて、適当に括った髪がそよぐ。僕に向き合うシンドバットの顔は無愛想のままだった。何もとって食いやしないのにと思っていると、
「そっくりそのままお前に返してやる、ユナン」
「……ふふふ、根に持つなぁ」
「俺はお前と違って忘れっぽくないからな」
わかりやすく捻くれて拗ねた事を言うものだから、思わず笑ってしまう。こんな分かりやすく、変なー警戒心と好奇心があいまぜになった顔。人間の表情筋ってこんな複雑に動くものなんだと感心する。
それに、こんな人間的で複合的な表情はきっと自分以外にシンドバットは見せないだろう。八人将たちには甘えているからここまで警戒の色は混ざらないし、対外的には七海の覇王としての役どころと面の良さを存分に活かしている。かつて興行として舞台に立った経験も織り込んでいるはずだ。
まぁ、そんなへんてこりんな表情がわざとなのか、気づいていないのか、自分としてはどちらもでもよかった。
「やだなぁ〜まだ気にしてるの?しつこい男って嫌われるよ?」
「何、ひゃと」
クスクスと笑いながら目の前にある頬をつねってみれば、男前の顔が少しだけ崩れる。
「………、」
「ひゅなん?」
「はいおしまいおしまい!」
慌てて頬を元通りにしてやると、何なんだとこちらを訝しむような目つきで見られる。
「元気にしてるみたいだし、この辺でお暇しようかな。じゃあね、シンドバット!」
「ユナン!話はまだ、」
裾を掴もうとしたシンドバットの手をするりと抜けて、窓の桟から外へと飛び出した。重力に任せてしばらく下降すれば、聞こえてくる声がぐんと近くなる。視線をやれば、夜でも明るい光があちらこちらに煌めいている。シンドバットが作った、彼の国。南の楽園ーシンドリア。
木々とぶつかるスレスレまでその景色を眺めたあと、杖を握り直して一気に夜空へと急上昇をかけた。あっという間に雲の上まで来ると、初めて僕は大きく息を吐いた。先ほどまであったむせかえるようなざわめきは消え、ただ時折身体に吹き付ける風の音だけが聞こえる。誰もいないことをいいことに、思わず口から言葉が出た。
「……、やだなぁ」
頬を引っ張った時、不意に見せた顔があまりにも、あの時のー初めて出会ったシンドバットの子どもの時とそっくりで、驚いてしまった。人間とは変わっていくものだ。環境、学習、遺伝、適応するために変化し続けることで生き延びてきた生物的志向性。変わらずにはいられない。生物としての根本原理であり、種としての生存戦略だ。わかっている。理解している。
それでも。それでも、変わらないものだってあることをまざまざと見せつけられる。長く生きれば生きるほどに、転生をすればするほどに、王の器の近くにいればいるほどに。先程のシンドバットの中に、まだ幼い彼がいるように。
そう、シンドバットは優しい人だ。民のことを考え、戦争をなくし、やがて世界を正しく導くだろう。きっと、彼が一番早くこの"世界"が定めたゴールに自力で辿り着く。マギが、僕が側にいなくても。
だというのに、心の底にいま渦巻くのは何なのか。見出したのは自分だ。けれど離れたのも自分だ。シンドバットではない、自分自身の選択だ。マギなんてもうごめんだと思っていた。だから後悔なんてしていない。
それでも何かを確かめるように僕は時折、シンドバットに会いに行ってしまう。この習性は何なのか。王の器の側にいたいとプログラムされ、植え付けられたマギの本能ともいうべきものなのか。
マギでなんかいたくないのに、僕をただのマギに戻してしまう。この世でたった一人の人間。だって、今生の僕の、ー………、
風が強く吹き付け、帽子に縫い付けられた羽飾りが視界をよぎった。僕は深く被り直し、杖を強く握る。
「だから君の側にはいられないんだ、シンドバット」
そう呟くと、さらに高度を上げて僕は夜空の中へと溶けていった。