ボーダーライン 先ほどまで雨に冷やされていた身体が、少し熱めのお湯につかったせいでぴりぴりと痒くなる。ズボンの中までぐしょ濡れになった俺の服は洗濯機の中でもみくちゃにされてる最中だ。
風呂から上がればふわふわのタオルと、俺とそう変わらない体格の家主のオーバーサイズの服。それを借りて、リビングのテーブルに置かれた皿の上のお惣菜をぼんやり眺めていると、「ねえ」と後ろから声をかけられて軽く身体が跳ねる。
「なんで僕の家に来たの?」
「……近くの本屋でほしい本が売り切れていて。それで、こっちの方に来たついでに」
「ここから本屋までより、本屋から駅までの方が近いんじゃない? 途中にコンビニだってあったのに」
用意していた言い訳は思ったよりすんなり出てこなくて、なんとか押し出したものの、返す刀でばっさり切られた。こんな土砂降りの中、わざわざ百々人の部屋に来る理由なんて。
「そんなに、僕のこと、好きなの?」
「…………」
冗談めかして言われたその言葉に「変なことを言うな」と軽口を返す余裕も、「そうだ」と突き付ける勇気もない。ただこの沈黙を伝って俺の気持ちが伝わることがなければいいと、思った。
節電のためだとか適当な理由をつけてあまり一人の時電気を点けたがらない百々人が、俺が来なかったら一人暗い部屋の中で雨の音を聞いているところを想像して。勝手に苦しくなって無性にこの部屋に電気を点けたくなって、隣に、いたくなった。別に百々人はひとことも寂しいとは言ってないし、暗がりで蹲る百々人だってただの妄想だ。それでも0%じゃないなら、その想像を打ち消したくて。
……言い訳を並べ立ててみたところで、それは結局うわべだけの言葉だ。百々人に会いたくなった。顔が見たくなった。気が付いたらずぶ濡れになってインターホンを押してた。ただそれだけだ。百々人のためなんかじゃない。ひたすら自分の、気持ちのために。それでこうして迷惑をかけているなら世話はない。
(すきだ)
身勝手な言葉を胸の中で溶かす。
振り向いた先、百々人がゆっくりと俺の頭に手を伸ばしていた。
「っ、なんだ」
「まゆみくん」
かろん、
いつもよりひらべったい声音で呼ばれた名前は、しかし冷たいわけではない。
百々人はやけに優しく目を細めている。くしゃり、とまだ濡れている髪が少し下からかきまぜられる。
「僕たちには、僕とマユミくんとの間には、アイドルしかないけど。ただの友達、だけど。……でも、キミが望むなら」
「…………」
「望んで、くれるなら。口実とかそういうのいらないからさ、普通に会いに来てくれたら……僕は嬉しい」
「…………ももひと」
(そうやって、お前は)
俺の中のぐちゃぐちゃした気持ちも、飾り立てて防御した上っ面も全部、簡単に掬いとっていく。
そのくせ自分の中には簡単に踏み入らせようとしない。だからもっと知りたくなる。暴きたくもなる。……そんな暴力的な衝動をぶつけたくて、だけど知られてほしくもなくて。
「………………ぃ、な」
「え? なあに?」
「……。お前が好きだ、という話だ」
「…………え……ぁー……それはどうも、……ありがとう?」
ふと逸らされた視線も、ほんのり赤みを帯びた目元も。それが俺のせいなのか寒さのせいなのか、そもそもその色自体都合の良い思い込みなのか、少しでも俺は百々人の心に居場所を作れているのか。何もわからない。掴んだ指先の熱さも。百々人自身の熱なのか、俺の熱が伝播したのか、それすら曖昧で。うまく状況が判断できないまま、結局俺は百々人の指を離せずにいる。焦り、緊張、それから少しの仄暗い喜び。百々人といると知らない自分ばかり出てきて、何もかも普段通りにはいかなくなる。
恋愛は惚れた方が負け。なるほど、先人はうまいことを言ったものだ。
「次からは、来る前に連絡を入れる」
「ん……そうしてくれると、助かるな。マユミくんが急に来ると、ちょっとドキッとしちゃうから」
「…………そうか。すまない」
「別に今までだって迷惑なんかじゃなかったよ、……それだけ、知っててくれたらいいから。ね」
「わかった」
かなわない恋をしている。
―――負けっぱなしの恋を。
ただこれに関しては、敵わなくてもいいかもしれないと、最近思い始めている。