悪い子風に揺れるカーテンが眩しい光できらきらと宝石のように光る。
それは決して太陽の光ではない。
この世界に浮かぶ、大きくて綺麗で残酷な月。毎年近づいて世界と大切な人たちを壊してしまう。
そんな世界でこんなことを思うのは不謹慎かもしれないが、〈大いなる厄災〉と呼ばれるそれがこんな近くにあるなんてお伽噺のようで少しわくわくしてしまう。
手を伸ばしたら届きそうなぐらい大きな月。
子供の頃、絵本で見た憧れの光景に手を伸ばすと、ぐいっと窓の外へと引き込まれる。
「ぎゃっ!」
「こんばんは」
くすくすと笑いながら、落ちそうな私の体をひょいと掬い上げたのは箒に乗ったオーエンだった。
「し、死ぬかと思いました」
「2階から落ちたぐらいで死なないだろ。人間はわからないけど……試してみる?」
口角をにいっと上げて不気味に笑う彼の誘いを丁重にお断りした。彼はつまらなそうに目を逸らすと私を乗せたまま箒でどこかに向かおうとする。
「オーエン? 今からどこに……」
「内緒」
そういっただけで彼はなにも答えてはくれなかった。けれど、なんとなく今日は彼に委ねても大丈夫だろうと、機嫌が良さそうな彼の横顔を見て思う。
「着いた」
トンと魔法舎からいくつか山を越えたあたりにある森に箒を下ろすと、「少し奥だから」と言って歩き始めた。森の奥へと進み、少し不気味な雰囲気になってきた頃に彼は足を止めた。
「出ておいで」
森の暗闇に彼が呼びかけると近くの草むらがざわざわと揺れる。なにが来るのかわからず身構えていると、草むらから大小さまざまな影が飛び出した。
「狼……?」
「うん」
「見たことないだろ」
『私の住んでいたところでは野生の狼がいなかったんです。一度だけでもいいから見てみたいなって思ってて……』
以前、本を読んでいた時にそんなことを言った気がする。それを覚えていてくれたのだろうか。自惚れかもしれないと思いつつも、込み上げた嬉しさで頬が緩む。ゆっくりと呼吸を整えてお礼を言うと、「お返し、待ってるから」と機嫌が良さそうに彼は返事をした。
「こいつはこの群れの中でリーダーなんだ」
そう言って彼は群れの中で1番大きい狼を撫でた。撫でられた狼は気持ちよさそうに僅かに目を細めたが、すぐに手を振り払った。
「……なにかあるの?」
「え?」
彼は一言呟くと狼に誘われるように、さらに深い夜の闇の中へと足を踏み入れた。
ギャアギャアと烏が鳴き、得体の知れないなにかの雄叫びのような、叫びのようなものが森に響き渡る。このまま置いていかれてしまっては人間の私はどうなるかわからない。オーエンについていくしかないと悟った私は、彼の背中を追いかけた。
「待って……」
森の中を走る狼を追うオーエンの背がどんどん小さくなっていく。不安に声を漏らすと体がふっと軽くなる。
「遅い」
文句を吐いたオーエンは私を抱え、狼の後を追う。月明かりが注ぐ少し開けた場所で狼たちとオーエンは立ち止まった。
オーエンに降ろしてもらった場所には、ぐったりと地に伏せる小さな狼がいた。右足には人が仕掛けたであろう罠がかかっており、刺さった所からドクドクと血が流れていた。
「これって……」
《クーレ・メミニ》
私がなにか言う前にオーエンは呪文を唱えた。呪文が終わると同時に子供の狼の足を掴んでいた罠がバキッと音を立てて壊れた。
子供の狼は自由になった喜びから尻尾を振る。しかし、足を怪我していたため、立ち上がることはなかった。
「オーエン、この子の足治せますか?」
「……必要ない」
「でも、動けなくちゃ死んじゃいます」
「僕の知ったことじゃない」
彼はそういうと先程破壊した罠を拾って呪文を唱えた。冷たく放たれた彼の言葉に困惑して私は沈黙していた。
動物達と仲の良い彼がそんなことを言う理由がわからなかった。
しばらくして手の上の罠を粉々にしたオーエンはどこかへと歩みを進めた。
置いていかれないように、と小走りで彼の後を追いかける。狼たちがついてくることはなかった。
しばらく歩いていると淡い光が木々の隙間から漏れている。ぱちぱちという音で焚き火だとわかった。下品な笑い声と微かな寝息が聞こえていた。
「おまえはここにいろ」
そっと耳元に囁くと彼は立ち上がる。引き止めようと握った手からすり抜けて、煙のように彼は消えてしまった。
ぐちゃり。
男たちの悲痛な叫びと共に、何かが潰れたような不快な音が辺り一面を覆い尽くす。
鉄の濃い匂いと微かに聞こえる”彼”の声。楽しそうに呪文を唱える彼の声色には僅かに軽蔑が混ざっていた。
恐怖で強張った体が動くようになった頃には血塗れのなにかと、対になるように真っ白なままのオーエンがそこにいた。
***
「はぁ。最悪」
「なにがですか?」
箒の上で不機嫌そうに呟く彼に尋ねると、彼はちらりと私の方を見て、再び視線を前に戻した。
「言うだろ。今日のこと」
人間を殺したこと。
そう言うと彼はため息を漏らす。
確かに、いつもなら必死に止めただろうし、スノウとホワイトにも言ったかもしれない。
でも今回のことはとても言う気になれなかった。
あの後、オーエンが殺した遺体をそのままにはしておけないと思って埋葬した時に、罠や銃の残骸が落ちていたことに気がついた。彼らはきっと狼の密猟者だったのだろう。この世界の狼たちは毛皮や剥製が高値で取引されると東の国の授業に参加させてもらった時に教わった。
暗闇の中、ゆっくりと箒を進める彼をふと見つめる。北の国の紋章が入った帽子は、彼が狩狼官であることを示すもの。
彼は本当に悪者だろうか?
密猟者たちは北の魔法使いに襲われたただの哀れな被害者だったのだろうか?
それを見ていることしかできなかった私は悪だったのだろうか?
殺すことは悪で、生かすことが正義で……ならば狼を生かすために密猟者達を殺した彼はなんだろう。
ぐるぐると頭の中で渦を巻く。
でも、不思議と口はするりと答えを出した。
「言いませんよ。誰にも」
「……どうして? いつもは殺すなって言うくせに。止められなかった自分の落ち度を認めたくないから? 所詮君は偽善者だったわけだ」
試すような赤い目がこちらを覗き込むように映る。薄ら笑いを浮かべながら私を責め立てる声は、僅かに困惑を浮かべていた。
目の前の彼は正義か、悪か。
彼はなにを望んでいるのだろうか。
そんなことはわからない。
私は彼のことをまだ全て知らないんだ。
彼が甘いものが好きな理由も、意地悪をする理由も、1人であろうとする理由も。
「いいえ」
彼は眉を顰めて私を見た。
「共犯者ですから。2人だけの秘密です」
せめて今日だけは、あなたのことを少しだけわかった気でいさせてほしい。
悪戯っぽく言うと、彼はぱちくりと瞬きをした。そして彼は愉快そうに笑う。
「悪い子」
厄災の光を帯びて妖しく輝く目をすっと細め、彼はそっと囁いた。