羽を並べて 彗星が空に走る。奴隷船から見上げた空を自由に、しかしこの星に引かれて否応なく落ちてくる。
天から星が落ちて数日、ネロの首に刻まれた紋章は色を失った。「能なし」の証でも、奴隷としては稀有な見た目と価値を見出されていたのに、とうとう本当に何も価値のないスクアーマになってしまった。
ネロはハート大将の執務室にぼっと立ち尽くして目の前の人物を観察した。「能なし」のネロを買った、人間でもスクアーマでもない天使様と呼ばれる人。雲居のその果てから来た救世主。名を晶という。
「一目見て懐かしいなと思ってしまって、つい」
「一目惚れなんて、天使様はその名に恥じないロマンチストだね!」
「そ、そういうわけでは」
「この髪色が原因ではないかの? ほれ、薄汚れていた時は微妙じゃったが、今は見事な天つ世の色じゃ」
軍人にはとても見えないホワイトがネロの髪を指差した。水浴びをしろと言われ、必死に清潔な見てくれになるよう整えたばかりだった。
いきなり注目を浴びたネロの身が竦む。外の世界もまともな他人と話すのも初めてで、フォルモーント・ネービーなる国家権力の存在すら知ったばかりだというのに。
ムル・ハート大将が硬直するネロに無遠慮に近づいて、羽ペンで頬を撫でた。面白がるような手つきの割に、見下ろす瞳は剣呑だ。打たれるか怒鳴られるかと思ったが、気品ある大将は早々にネロを解放した。
「まあいいよ、保護する必要はなくなったとはいえ、宝珠の子だった者を特定できたのは重畳だ。ホワイト少佐」
「天使ちゃんの手柄じゃ。目下の悩みであった人身売買の取り締まりも進展しそうだしの。叩けば埃がでるぞ。楽しみ楽しみ」
「ま、それも建前。スクアーマの一人や二人、理由などなくとも政府は喜んで買い与えるさ。晶が元いた場所に帰るまで不自由はさせない約束だ。約束は破るものだけど、天からの誅罰は恐ろしい。ということで、軍の返答は『ネロの滞在を許可する』」
ぴんとたてた指先を晶が両手で包んで礼を言う姿を、ネロはぼんやりと眺めていた。
「もちろんこれも大将的建前! だって彼も愛しい生命のひとつだから」
鋭い瞳に宿るのは頭立つものの敵意ではなく、燃え盛るような情だ。それに気がついてネロは一歩退き、しかし、とんだ無礼な行動だと己を恥じて俯いた。
「ネロ」
穢れを知らない婦人がネロのことを下から覗き込んだ。声色はネロを案じていることがはっきりと分かるほどにやわらかい。
「……は、はい」
一拍遅れて返事を返す。ぼさっとするなと散々商人に扱き下ろされた性格をこれほど恨んだことはなかった。
ギフトもなく、能力もない粃糠の身。そのうえ鈍臭いなんて目も当てられない。捨てられても文句は言えない。だが、晶の眦は吊り上がることを知らないのか、更にゆるやかに垂れ下がる。
「体調が悪いですか? 無理矢理連れてきてしまってごめんなさい。いろいろとあって疲れてしまったでしょうか。ムルやホワイトは悪い方ではないのでどうか怖がらないで」
ネロは驚愕に思わず瞑目した。天使がどういうものかは知らないが、こんな人ばかりがいる天界は世界として成り立つのだろうかと不安になる。
「そうじゃなくて……。えっと、天使様に買っていただけて光栄ですけど、俺本当に役立たずだからどうしたらいいか分からないんです。話し方もこんな……感じで、楽しんでもらえるようなことも言えないし、強くもないんで……す」
わざわざ弱味を吐き出すのは断腸の告白だったが、嘘をついて騙すのは気がひけた。なにより、失望されて捨てられるなら早い方が良かった。後になればなるほど、それは尾を引いてネロの心に傷を残すことを知っていた。
「そんな役立たずなんてことは。何かをしてほしいと望んでいるわけじゃ……」
熟したオリーブの瞳が宙を彷徨った。申し訳なさそうな、苦しそうな顔をして、やがてはっと顔を上げた。
「いいえ、すみません。誰だって価値ある役目を果たしたいですよね。私もここに来たばかりの頃はそうやって焦っていました」
そう言うと、晶は凛凛と背筋を伸ばしてネロに迫った。
「ネロの好きなことは何ですか? 他の仕事よりは得意かなって思うものは? ネロが胸を張れる仕事が何かしらあるはずです」
雪を欺くほど白い頬が紅潮するほど、真剣にネロと向き合ってくれている。言葉どおりの雲上人が憂いているもの。それがネロのちっぽけな矜持であることに恐縮せざるをえなかった。
「……何も。……っ、でも、雑事はひととおり仕込まれてるのでできます。やれと言われればどんなことでもやります。やらせてほしいです」
上目で懇願する。奴隷たちが商人にやっていたような媚びへつらう必死の声色の記憶を全てかき集めて、なんとか真似る。一顰一笑を窺いながら、元々掠れ気味の音をさらに細く晶の足元に縋るが如く願い出たが、晶は喜ばなかった。
「ううん、そうですか」
深く思案して沈黙が走る。ムル大将もホワイト少佐もおとなしく動向を観察するだけだ。
気まずさにふと窓の外を見た。彗星が走っていた空は、船から見上げたよりも遠くにある。潮の香りの代わりに、煤と革の匂いがする。随分遠くまで来たものだと思う。
もうとうの昔に諦めてしまったが、己の運命はいつもいつも他人に握られていて、今は慈愛に満ちた天使が握ろうとしている。しかし、握られるだけマシだ。手放されたら本当に何の価値もなくなってしまうのだから。
「ネロは細かい仕事がものすごく得意なような気はするんですけど……」
晶が俯く代わりに、ネロは面を上げた。
肯定されるような言葉を初めて聞いた。
推測であっても、そんな評価は初めてだった。お前は何もできない、役立たず、能なし。ネロを知っている人ですらそう詰ったのに、会ったばかりで義理もない彼女がネロを肯定している。
そりゃ、買った奴隷にちょっとでも価値があった方がいいのだろうけど。
だから、喜ぶなんていけない。いけないのだろう、でも──
そういう意味で晶がネロの価値を探しているわけではないことは、卑屈なネロにでもわかってしまう。それほどまでに晶はけがれない存在だった。
ネロは天使も天の世界も、ここに来て初めて知ったが、それでも分かる。
真に、天使のようだと。
「出たー、得意の千里眼じゃな! 晶の『気がする』はよく当たるぞ」
ホワイトが愉しげに掌を打ち鳴らした。どうやら馬鹿にしないだけの正当性はあるらしかった。
「細かいことって何かな。武器の組み立て? お偉方への根回し? あんまり得意じゃなさそーう」
「そういうのは……あ、ああでも! 武器を磨くのはよくやってました」
数は数えられるので管理もできると必死に伝えたが、晶の納得は得られなかった。ホワイトも同じように首を傾げている。
「細かいってそういう細々って意味なのかの? 微細な調整が必要な作業って意味じゃないのー?」
「ほう、少佐、たとえば?」
「裁縫とか料理」
「料理……」
引っかかってつい反芻した。ご飯を作ること。あたたかくて美味しいものを誰かのために作ること。考えただけで心が軽くなる。
飯を作れと命じた商人、奴隷船の薄汚い台所、湯気の立つ鍋。さまざまな光景が頭をよぎった。
「……料理ならあの船にいた頃、よく命じられて」
よく、は少し言いすぎたかもしれない。
「得意でした?」
問われて、反射的に頷きそうになる。
考えるまでもなく、多分そうだった。
一切自分の口には入らないものなのに、どうしてか良いものを作りたかった。褒められることなどなくとも、料理から良い香りがすると自分の価値が感じられた。
しかし、恥ずべきことに、ネロは奴隷だった。街の料理人や軍のシャリ番にはかないっこない。天使様に出される料理の足元にも及ばないだろう。それを得意と言ってしまったらわらわれる。
何より自分を許せない。料理には妥協したくなかった。
「……大したものは作ってなかったんで、わからないすけど」
しかし、しかしだ。ここで機を逃したら、もう二度と顧みられることなく、料理をする機会すら与えられないかもしれない。それはどうしても耐え難く思えて、言い訳のように言葉を足した。
「もう少しマシな道具があればとか、好みの味にできたらとか、船の上だと野菜が食べられないからどうにかできないかなって、思ったことなら……あります」
けど……と消え入るような声で主張する。再び沈黙が支配する。不安が棚霧るなか、目を丸くした三人と目があって、居た堪れなさに唇を噛み視線を下げた。
どれほど時間が経っただろう。永遠のように長い沈黙の末、晶が口火を切った。
「それ、多分すごく好きなんですよ!」
そして硬直していたムルとホワイトも、魔法が解けたように続く。
「道具なんて、我、気にしたことないのだけど!」
「料理研究家みたい! 野菜って食べなきゃだめなの?」
「船の上って似たような料理ばっかじゃよねえ。ね、甘いものは? お菓子は作れるのか? うちのシャリ番は甘味はからきしでのう」
「え……、えっと砂糖を使わせてもらえたら……」
「待ってください、話はあと! とにかくキッチンに行きましょう」
翼を携えた手がネロの手首を掴んでひっぱる。鉄砲玉のように部屋を飛び出して、制止しても彼女は止まらない。
足を止めたら、彼女の手くらいふり解けたかもしれない。だが長年の奴隷生活で掣肘を加えられ続け、へし折られ続けてきた心がそれを許さない。というのに、自分のためにと心を配る様子にはやはり恐懼の念が湧き上がる。
葛藤の末、ネロは言葉だけで抗議した。
「まっ、待って、待ってください。俺の料理なんて……とても……。天使様に出すようなものじゃ」
風を切る音に負けないように、ネロの人生で一番の抗議だと言い切れるほど声を張ったが、晶は気にも留めない。
「大丈夫ですよ。私はネロのご飯が食べたいです。食べた方がいい気がするんです」
「どんな千里眼なんすか、それ」
俯くと、掴まれた腕がさらにぎゅっと拘束される。引き摺られるように脚を動かして、必死に彼女についていく。体力のない体は疲労を感じ始め、息が上がる。息継ぎもままならないまま言葉を続けた。
「っは、それに、俺はずっと檻の中で生きてきてっ……──っ何にも知らなくて。ありきたりな食材しか知らないし、料理の種類だって、全然知らないんすよ!」
彼女の、天使の翼。奇しくもそれはネロの手首に重なって、ネロ自身に生えているようにも見える。
「私も、そうですよ」
簡素な大きい扉の前でようやく脚が止まった。彼女の手が離れて、扉に手がかかる。この扉の先が目的地だと察して、ばくばくと鳴り響く心臓が今にも止まりそうだった。
「私もついこの間まで、卵の黄身が一つしかないことも、海藻が船を沈没させないことも、海が桜色だってことも知らなかったんです」
「海が……桜色?」
「はい。私が知る海は、ちょうどあなたの髪と同じ。空の色を実直に映す蒼い海。初めて桜光虫を見た時は悲鳴をあげてしまいました」
晶が脳裏の記憶に想いを馳せて、瞼を閉じる。彼女が思い描いているであろう海を、ネロも思い描く。
ネロも海をよく知らない。どんな生き物が住んでいて、どこまで続いているのかも。聞く相手もいなかった、教えてくれる人もいなかったから。
「きっと私はあなたが言うありきたりな料理すら知らないと思います。今のあなたは自由とは言い難い立場かもしれませんが、少しずつでも、私と一緒にこの世界のことを知っていきましょう」
新たな一歩を踏み出す。開いた扉の先には白と銀で構成された広い厨房が広がっている。遠くから覗き見ただけでも見知らぬ器具が並んでいて、ネロの鼓動が高鳴った。
「ネロの知っていることを物知らずな私に教えてください。私も私が知っていることをあなたに教えます。約束です」
「約束?」
「そう、約束です」
命令でもお願いでもなくて、約束。ハート大将が破るものと宣った約束を、晶は交わそうと言う。
「約束も、俺、多分初めてです。破ったことも守ったこともないっすけど」
「きっとこれからいろんな約束をすることになると思いますよ。……政府は約束が好きみたいなので」
声を潜めて告げる晶は軽く笑った。そしてまたネロの手をひく。
そして、早くあなたの料理が食べたいと強請る。「私の食事を作って」と、今度こそ、約束ではなくて仕事を与える。誇り高い使命を与えるように。それは初めて与えられたネロの価値。
なんでもないように笑う彼女に応えなければと、諦めることに慣れすぎたネロの心すら奮起させる。
「長くは居られませんが、ネロ、私はあなたとこの世界を冒険したいです。まずはこのキッチンの中から」
はいという返事は声にならなかった。ただ夢中で、応えの代わりに天使の手をひいた。