次回のキスは、二択から(リオ蛍)「ま……待って」
咄嗟に差し込んだ手の平に与えられたのは、唇に注がれるはずだったキスの感触だった。
目と鼻の先、あと少しで触れあえるという距離で瞬く薄氷の瞳。どこか不満げに細められる青の理由は明らか。
彼の執務室。二人掛けのソファー。隣り合って並び、他愛のない話をして……恋人と二人きりとなれば、自然とそういう雰囲気になるのは当然のこと。
キスだってこれが初めてではないが、それでも慣れたかと聞かれれば否と答えよう。
実際、食い止めた蛍の頬は真っ赤に染まり、手の平に感じている柔らかな感触だけで思い出し、その心中は全く穏やかではない。
「……嫌かい?」
台無しにされたにも関わらず、手の平越しに聞こえる声は優しいし、視線は不機嫌そうだったのが嘘のように柔らかい。なんなら遮った手首まで優しく支え、その甲にキスを贈るまで。
「い、嫌じゃ、なくて」
さりげなく動きを制限されたことにも気付けず、必死に首を振る少女の否定はぎこちない。嘘ではないが、何と言えばいいのか。葛藤している間にもリオセスリの指は真っ赤な頬を撫で、彷徨う蜂蜜色を眺めている。
嫌ではない。嫌ではない、けど。
「い、息が、」
「息が?」
「その……う、うまく、できない、から」
しおしおと萎む語尾。そう、繰り返し言うが、蛍はキスにまだ慣れていない。頬に贈る親愛のキスならともかく、恋人との……それも、絡ませ合うキスなんて、まだ数える程度しか経験していないのだ。
最初は夢中で。二度目は必死に。どちらも鼻で息をするようにアドバイスをされたが、意識しようとすればするほど溺れてしまったかのように苦しくなる。
それは手加減しないリオセスリにも原因があるが、蛍のキスの下手さが関係ないとは言えない。
かといって練習できるものでもなく、思わず止めてしまったがしたくないのでもなく。
と、そこまで言うのはさすがに恥ずかしいせいで言葉は続かず、気まずい沈黙に目は泳ぎ続けるばかり。
「なるほど。なら、息ができればキスしても?」
「え? う、うん……それなら……?」
触れ合うだけなら全く問題ないし、むしろしてほしい。それ以上はまた慣れてきた頃に、と言うのは酷だろうか。
あるいは、慣れるまで練習しよう、なんて意地悪な提案をされるのかと身構えれば、お見通しだったらしいリオセスリが肩をすくめて笑う。
「なら、俺の言う通りにできるか?」
「……変な事じゃないなら」
「そう警戒しなくていい。まずは口を開けて……ああ、それぐらいでいい」
口を開けるぐらいならと、素直に応じれば次に顎をすくわれ角度を変えられる。これだけだと、虫歯の確認のようにしか思えないが……なんて呑気な思考は、見つめる青の温度に消散する。
「次は舌を突き出してくれ。力は抜いていいが、なるべく外に出すように」
さて、いくら蛍が経験不足と言っても、この先の展開が読めないわけがない。
確かに呼吸の問題は解決するかもしれないが……それはあまりにも、あまりにも恥ずかしいことではないだろうか。
普通のキスでさえも相当なのに、いきなり変化球を求めるとは。形は違っても意地悪には違いないし、今さら手を握られていると気付いたってもう逃げられない。
「こ、公爵、それは……ちょっとっ……!」
「あんたは息はできるし、俺はキスができる。互いの希望を叶えられる方法だと思うが」
「そ、うだけどっ! 触れるだけのキスじゃダメかな!?」
恥ずかしさのあまり口調が荒くなる。
したくないとは蛍も言っていない。確かに呼吸はできるだろうが、それとこれとは話は別!
あまりにもエッチすぎると必死に訴えようと、親指で撫でられればそこまで。
「嫌じゃないってことは、慣れたいんだろう? だったら、これも経験だと思えばいい。……蛍」
囁く名前に、いつも付けられる呼称はなく。ならば、蛍も公爵とは呼べず。まともに呻くことも、それ以上の否定も紡げず。
そもそも口で勝てる相手ではないのだと、再び開いた唇から除く赤は、少女の心を表すように力なく震える。
「ありがとう。でも、もう少し頑張ってくれると助かるんだが」
なけなしの勇気だったが、それでは足りないと言われ。ええいままよと差し出せば、笑う気配はすぐ目の前に。
「……そう、いい子だ。蛍」
だからその呼び方はずるいと。そんな文句も、彼の名を紡ぐ声も、差し出した肉ごと男に喰われて消えてしまった。
唇に挟まれる感触に強張り、反射的に引っ込めようとしたところで軽く吸われて息ごと止まる。最初は少しだけ強く、それからほぐすように弱く。
はぷはぷと唇で甘噛みされ、知らぬうちに取り戻した呼吸が弾む。握り締めていた指先を揉まれて、指が絡むと同時に生暖かい熱がぬるりと触れる。
唾液の絡み合う水音にまた身体が強張りかけて、頬を撫でられて脱力する。じわじわとした甘い痺れに羞恥が麻痺すれば、より多くの音が蛍の鼓膜を叩く。
自分の荒い呼吸。激しい鼓動。リオセスリの吐息と、紅茶と香水の混ざり合った香り。
頬から耳をくすぐられ、指はより強く絡められる。跳ねた手は逃げたいのか、応じたいのか。あるいは、甘く噛まれた舌の刺激に震えただけかもしれない。
「っ……ふ、ぁ」
最後にちゅう、と吸われてから解放された肉の重みは疲労だけではないだろう。
頭の奥も痺れて、ぽやぽやと覚束ない。その間も、蛍の顎に垂れた唾液を拭いながら、自分の唇を舌で舐める男が覗き込む。
「苦しくなかっただろ?」
苦しくは、なかった。なかったけど、素直に頷けるわけもなく。たまらず手から逃げるように顔を反らせば、声は耳のすぐ傍へ。
「慣れるまではこっちのキスにするかい? ……それとも、苦しい方?」
到底答えられるわけがないと肩に顔を埋めれば、クツクツと笑う声に抱きしめられてしまった。