生贄にされると思っていたら優しいご主人様に溺愛されて私は幸せです〜村の皆さんごめんなさい〜「ひっ……!」
血のように赤い髪をした女──スレッタは、烏が木から飛び立つ音に肩を大きく跳ねさせた。
森の中には一本道があった。それをただただ真っ直ぐにスレッタは進んでいる。不思議なことに、烏はいるのだが、他の鳥や動物の気配が感じられない。カアカア、ガアガア、と喚く烏の声以外は、スレッタが砂利を踏みしめる音と、恐怖から鳴る心臓の音だけがスレッタの耳に響いてきていた。木々の爽やかな香りは、冷たい風で打ち消されている。
(どうしてお昼なのにこんなに暗いの……)
お化け屋敷が怖いのは暗いから。そう考えスレッタは朝に家を出、その屋敷に向かうことにした。そもそも真夜中に挨拶に赴くのは失礼だと考えていたのだ。しかし、今は懐中時計すら見えづらいほどに、辺りは暗い。辻馬車を捕まえることも考えていたが、億劫だったのだ。屋敷にすぐに辿り着きたくない、という思いから徒歩を選んだ無駄な抵抗は、間違いだった。無駄に怖い思いをしただけに終わった。
スレッタはおそるおそる、後ろを振り返った。そこには、来た道があるだけだ。誰もいない。スレッタはトランクケースを握る指に力を入れた。
今、私がここで逃げても、バレない。
村の外れに、化け物の棲まう屋敷がある。人間を食うという化け物がいる。妙齢の女を生贄に差し出すから、村には手を出さないでほしい。そう頼み込むために、スレッタはその屋敷へと向かっていたのだった。
スレッタは、己は舐められているのだ、と思った。供、いや、見張りすらスレッタに付けず、1人で屋敷へ向かうよう言い渡された。事実、スレッタは従順に屋敷へ歩みを進めている。
じわりとスレッタの目に涙が浮かんだが、それを拭い去った。もしかしたら、母がいつか迎えに来てくれるかもしれない。屋敷に住むその人と上手くやっていけたら、褒めてくれるかもしれない。
「うん。うん……そうだよ。何事も、やってみなくちゃ……今更家に戻っても、お母さんは困るだけ、だし……案外、上手くいくかもしれないし……」
スレッタはそう声に出したが、悲しいほどに震えていた。
今帰ったところで、家に迎え入れてくれるとは、少しも思えなかった。
「ッ……」
スレッタは地面を蹴り、駆け出した。ぼろぼろと流れる涙で、余計に視界は悪くなった。
「ご、ごめんくださー……い……すみません、どなたか、いらっしゃいませんか……」
スレッタは立派な屋敷の扉を数回叩いた。大きな門があったが、とうに朽ちていた。屋敷自体も、大きいのだが、蔦が這っているし、庭にある噴水も枯れている。不気味だとスレッタが思っていると、ところどころ苔の生えている石畳にぽつぽつとシミができた。あっ、とスレッタが顔を上げた瞬間、ざー、という大きな音とともに、雨が酷くなった。ちょうど玄関の軒下にいたので濡れ鼠にはならなかったが、気温がどんどん下がっていくのを感じた。
せめて雨宿りだけでもさせてほしい、とスレッタがもう一度扉を叩くと、キイ、と音が聞こえた。
「誰……なに?」
スレッタはしばし立ち尽くして、扉を引くその男を見つめた。
歳はスレッタと同じ十代後半だろうか。背は高く、スレッタは男を見あげなければならない。さらさらと揺れる優しい緑色の髪は、男の鋭い視線をちらちらと覆っており、その隙間にある耳には、白い房のピアスが揺れていた。
「え、あ、えっと……大丈夫、ですか?」
「は……?」
「お顔が……真っ青で……」
「……別に。それで、君はなんの用があるの」
「あ、ごめんなさい! 私は、スレッタ・マーキュリーといいます。その、本日からここでお、お世話、になります……」
青年の肌の色は、白を通り越して、青白かった。
「……そんな話、聞いていないけど……」
「えぇっ」
スレッタはぱちぱちと目を瞬かせた。驚いたが、それもそうだとスレッタは思い直した。日時をきちんと決めて結婚の挨拶に赴くのとは訳が違う。村は、対話のできない化け物を相手にすると思っていたのだから、日時以前に、村の人間の目的すら彼らに正確には伝わっていない気がする。
だから、スレッタは屋敷から普通の青年が現れたことにも驚いていた。それも自分と同年代の。
「で、でも、あの……私、ここにいなくてはならなくて……ご、ご迷惑でなければ、置いていただけないでしょうか。家事ならある程度できます。メイドとして雇ってもらえませんか……? お給金は要らない……とは、言えないですけど、あの、本当に端っこでいいので、お部屋と少しの食事をくだされば働きますので、どうか……」
無茶を言っている自覚はあった。
「帰る場所が、無いの」
スレッタは青年の声に、はっと顔を上げた。そう言葉にされ、スレッタは表情を取り繕うことができなくなった。
「はい」
「親は……」
「お父さんは私が小さい頃に亡くなって……お母さんが、私にここに来るよう、言ったんです」
「そう」
スレッタは再び項垂れた。
いきなりこんな事を言っても突き返されるだろう。そう思っていると、青年が扉を内に引いた。
「入って」
「え……あ、あ、ありがとうございます!」
がばりと頭を下げると、頭上から「うん」という声をかけられた。
カツン。大理石の床が広がる屋敷に足を踏み入れると、薄暗く、荘厳な空間が広がっていた。雨が降り始め、屋敷の中も暗いのに、壮麗なシャンデリアには光が灯っていない。数少ない窓には厚手のカーテンがかかっているが、しめきられている。玄関の扉が閉じられると、光源は壁にぽつぽつとあるランプだけになった。まるで肝試しに来たようだ。
中央に二階へ続く大きな階段があるが、その踊り場にはなんの絵も飾られていない。大抵そういう絵には当主の姿が描かれているので、スレッタが嫁ぐ筈だった人の姿は分からないままになった。スレッタは歩き出す青年の背を追った。
彼は何者だろう。勝手にやってきたスレッタをすぐに雇用できる立場の人物……かなり若いが、執事長とかだろうか。しかし、執事服は着ていない。当主の息子が一番しっくりくるが、「化け物」の息子が普通の人間とは思えない。
彼は簡素だが品の良い白いブラウスに、黒いズボンを身につけている。耳に揺れる白いタッセルは、女物のアクセサリーのようだが、青年の静かな雰囲気によく似合っていた。
「寒くはない?」
「へ?」
「雨に濡れてはいないようだけれど……」
くるりと振り向いた青年がスレッタに問いかけた。その言葉にスレッタの体温がじわりと上がった気がした。
「は、はい。私がちょうどここに着いてから、降り出したので……」
「そう」
青年が立ち止まり、扉を開けると、そこはキッチンだった。当然のように暗かったが、青年が部屋のランプをつけた。スレッタは小さく首を傾げた。使われている形跡があまり無い。立派な設備はあるのに、細かな調理器具が見当たらない。そもそも、彼以外に誰も見当たらないことにやっと気付いた。普通は、こんな大きな屋敷ならば大勢人がいて、今は夕食の準備をしているはずだ。
「そこに座っていて」
「はい」
キッチンの真ん中に、大きな台がある。そこで具材を切ったり、メイドや料理人が一息つく際のテーブルの代わりにしたりするのだろう。傍に丸椅子があるので、スレッタはトランクを床に置き、座った。
スレッタは青年がお茶を用意し出したことに気付き、目を剥いた。
「わ、私がおいれします……!」
「いや、いいよ」
そう青年は言ったが、お茶をいれる手つきにはぎこちなさがあった。けれど、どの作業も丁寧で、スレッタはつい青年の手元をずっと目で追っていた。彼は白い手袋をしている。
「待たせたね」
「とんでもないです……! あの、本当に私が頂いてもいいんですか?」
「君のためにいれたから」
「あ……ありがとうございます。いただきます……!」
スレッタは思わず、ティーカップを両手で包むように持った。行儀が良いとは言えないが、両手で受け取りたかったし、おかげでカップのあたたかさがじんわりと伝わってきた。
ミルクをいれられた紅茶は、優しくにごっており、甘い。スレッタはこくりと飲んで一息つくと、青年をちらりと見上げた。
「砂糖、要る?」
そう首を傾げる彼に、スレッタは胸が詰まったようになって、次の瞬間には涙をぽたぽたと流していた。もう一口飲む。あたたかい。
「お、美味しい、です」
涙は勢いを増し、ついには嗚咽を漏らしながらもスレッタはカップを両手で持っていた。全て飲み、そっとソーサーにカップを置いて、改めて青年に礼を言おうとスレッタは立ち上がった。その前に涙を拭こうとハンカチを取り出し、顔を拭おうとしたところで、ぱし、と軽くその手を掴まれた。え? とスレッタが困惑し顔を上げると、目の前に青年の顔があった。スレッタは息をのんだが、ぎゅっと目をつむり、掴まれていない方の手を胸の前で握りこんだ。目を瞑ってから、自身の行動に驚いた。
鼻先が。息が。睫毛がふれてしまう……。
その気配に肩を強ばらせたが、まなじりにふ、とほんの少しだけ息がかかっただけで、終わった。いつの間にか離れた青年が、くるりと背を向けた。気まずそうにしているように見え、スレッタは頭の中が疑問で埋め尽くされた。
「ふぇ、へ、え……?」
「部屋に案内するから、来て」
青年がスレッタのトランクを床から取り、キッチンから出ようとしている。スレッタは置かれたままのカップと青年の背を交互に見て、青年の背を急いで追った。
玄関ホールに戻り、青年は大きな階段を登っていった。階段の真ん中には赤い絨毯が敷かれており、靴の裏から伝わる感触だけで、値が張るものだとわかる。スレッタは迷いなく進む青年の背を眺めた。普段暮らしているからといって、薄暗い中をここまですいすいと進めるものだろうか。スレッタが手すりを掴み、もう片方の手でロングスカートをつまんでいると、青年が振り返った。
「あ、そうだ……見えにくいよね」
「……少し」
薄暗いというか、ほぼ真っ暗なのだ。けれどそれをさも当然といった彼の態度もあって、この異様さに口を出せなかったのだが、青年はスレッタの様子に気付いてくれた。
「手を」
青年がスレッタに向かって、手を差し出している。スレッタはキッチンにいた時と同じくらい胸を跳ねさせながら、その手にゆっくりと手をのせた。
なんて紳士な方だろう。手袋越しだからか、その手は冷たい。しかし、スレッタは自身の手の熱さの方が気になっていた。家族以外と話したことはほとんど無かったが、彼は今まで会った人の中で一番優しく、静かな人だ。
踊り場を越え、青年が右の階段を登ってゆく。二階へ着くと、当然手が離された。スレッタは彼と繋いでいた方の手を、もう片方の手でぎゅっと握りこんだ。
青年の手のことばかりを考えていたスレッタだったが、二階の廊下を見、はっと息を詰まらせた。玄関ホール同様、窓には全て厚いカーテンがかかっており、小さなランプが壁に頼りなくついているだけだ。奥は真っ暗で、今度こそ、先が全く見えない。
(お部屋、端っこで良いって言っちゃったけど、やっぱり無理かも……どうしよう)
何故青年以外に誰もいないんだろう。使用人に暇を出したのだろうか。ランプが壊れていて、直せないままとか……。
スレッタは暗闇をとにかくどうにかしてほしいと思っていると、青年がこちらを向いた。
「どの部屋がいい?」
「えっ」
「好きな部屋を選んでいい。僕はここだけど……ここがいいなら、あとで譲ってもいいし」
「えっと、使用人部屋はどこでしょうか」
「使用人? 使用人はここにはいないし、君を使用人にするつもりも無いよ」
「……へっ? いない? ひとりも? だ、だったら私をここに入れてくださったのは、どうしてですか……?」
「ここには僕一人で暮らしている。部屋がたくさん空いているから、君をここに泊めても問題無い。好きに外へ出て、ここで寝泊まりをしていい。メイドをしたいなら、別に構わないけれど」
部屋がたくさん空いていたから。スレッタはしっかり青年の言葉を頭の中で反芻させてみたが、余計に混乱した。当初の予定では、妾であればいい方で、最悪奴隷のような扱いを受けることを想定していたので、メイドとしてきちんと働けそうな予感にホッとしていたのだ。ホテル代わりにしてもよい、という彼の提案に、スレッタは流石に首を横に振った。
「じゃ、じゃあ、私っ、自分と貴方の家事をします!」
「そう。ここにいるんだね。……給金の相場が分からないな。少し調べるよ。あぁいや、好きな額を言ってくれてもいいよ。払えると思う。多分」
「は、はい?」
先程から青年の言うことが全く理解できない。
ひとまず住み込みで働くメイドになれた、ということでいいのだろうか。
「で、君の部屋は、どこにする?」
スレッタは両手をもじもじといじった。
「どこでもいいんですか……?」
「うん」
「本当に本当にどこでも?」
「うん」
彼ならばそう言っても許してくれそうだとは思う。しかしスレッタは、会ったばかりの男性にそれを言って、引かれてしまわないだろうかと危惧していた。会ったばかりの男性にこんな事を思う自分にも、スレッタは驚いていた。
「あ、あなたの……隣の部屋がいい、です」
「僕の隣?」
スレッタは顔が熱くなるのを感じながら、必死に誤魔化した。
「えっと、奥の方は暗いので、ちょっと怖いかな……って。それに、あなたの近くに控えていた方が、お仕事もやりやすいですし!」
「怖い?」
くす、と青年がかすかに笑ったので、スレッタはポカンとしたあと、自身の心臓がどくどくと激しく脈を打ち始めるのを感じた。
「は、い……こ、こどもっぽいでしょうか」
「いや……なんだか、かわいくて」
スレッタは今度こそ身体は硬直し、頭も働かなくなった。
可愛い? 何が? 誰が? とひとしきり混乱した後、青年とスレッタしかここにはいないという当然のことを思い出し、スレッタは暗闇のことが頭から抜け落ちそうになった。
「太陽の光を入れないようにしているんだ。けれど、明かりはあるから安心してほしい。君がここに住むなら、常時明かりをともすよ」
「あぁ、はい……」
と、ぼんやり返事をすると、青年がスレッタの部屋になるドアを開けた。スレッタは気を取り直し、その部屋を青年の後ろから見てみた。
ぱっと、頭上が光った。この屋敷に来てから一番の明るさだ。
しかしシャンデリアが照らすその部屋は、埃がうっすらと積もっていた。ベッド、何も入っていない書棚、テーブルと椅子……埃を被っているが、おそらくどれも一流品だ。
「……、今日は僕の部屋で寝て」
「ひゃ、は、はひ!?」
「掃除をしたあと、ここに君を迎えるから」
「あ、は、あぁ、はい……あ、あの、あなたはどこで眠るつもりなんですか……?」
「僕は適当に一階で寝るよ」
「えっ。そ、そんなのダメです! 私が適当な所で寝ますから!」
「けれど、今日は君は疲れているだろうし、寒いでしょう」
彼はとても優しい人だと思っていたが、流石に申し訳ない気持ちの方がずっと大きくなっていた。
「なら! あ、あの。暗闇が怖くて。一緒のお部屋で寝るのはだめ、でしょうか。あなたがベッドで寝て、私はソファか何かで寝る、とか……ご迷惑をなるべくかけないように隅っこにいますので……」
そう言いながら、スレッタの声はどんどん小さくなっていった。
暗闇が怖いのは本当だ。しかしそれを口実に、青年に自身のはしたない気持ちを隠したので、スレッタは気まずく思った。
この青年ともっと話してみたい。一緒にいたい。
「ソファ……僕の部屋には無いね。やはり、君にベッドを貸すよ」
スレッタはやきもきし、後先を考えずに、言った。
「じゃあ、一緒のベッドで寝ましょう!」
自分が言った言葉が、耳の中へ入り、スレッタの元へ戻ってきた瞬間、スレッタはばっと口を抑えた。
自分は何を言っているのだ。彼が優しくて、掴みどころがなくて、引き止めたかったからといって、こんな。
彼に気味悪がられてしまう……!
なんと弁明しよう、とスレッタは口をぱくぱくと開け閉めしていた。
「それは駄目だよ。一緒にベッドに入ってしまったら、僕はきっと君を襲ってしまうから」
スレッタはたっぷり十秒固まると、後ずさり、分厚いカーペットに足を取られ、思い切り尻もちをついた。
「大丈夫?」
と、手をまた差し出してくれた彼に、スレッタの視界がぐらぐらと揺れた。手を震えさせながら、その白い大きな手に乗せると、ぐっと掴まれ、立ち上がらせてくれた。
「お、お、おそうだなんて」
優しく、静かで、穏やかな人だと思っていたので、急に男っぽいことを言われ、驚いた。まだ彼と会ってから一時間も経っていないので、わかった気になるのはおかしいが、本当に青年の口から出た言葉とは思えなかったのだ。自分だって、おかしなことを言った自覚は十分にあったけれど。
「寝る時は、今よりも身軽な格好になるでしょう。君の首元を見たら、僕は君をどうしてしまうか分からない。それにさっきも、少し……」
「わ、わた、……し……っ」
スレッタは自身の服の襟のあたりを、皺になるほど両手で握りこんだ。
スレッタは人生で体験したことの無い驚きや羞恥で、混乱していた。けれどその感覚はすべて、スレッタにとって嫌なものではなかった。
「わ、私、ここに来る時、食べられるんじゃないかとか、奴隷にされるんじゃないかとか、殺されるんじゃないかとか、色んな怖いこと、考えてて……っ。それで、からだを暴かれることも、考えてて……お話してるうちに、どうせそういう事になるなら、あなただったら良かったのに、とか、あなたになら暴かれてもいいかも、って、私、思っちゃって……!」
「え? 暴く?」
「ふぇ?」
彼がきょとんとスレッタの方を見ている。
「……」
何か自分は勘違いしていたのかもしれない。けれど襲うだなんて言われたのだ。いや、もしかしたらただの聞き違いで、全然別のことを言われたのかもしれない。
火にくべられたように、スレッタの全身が熱くなった。穴の中に入りたい。いっそ消えたい。羞恥のあまり、スレッタの目から涙が出ると、青年がスレッタの方へ一歩近づいた。
「ご、ごめんなさいっ、私、変なことばかり言って……っ、さっきの言葉は忘れてください……わ、私が一階で、寝ますので、明日から、ちゃんと働きますので」
じりじりと青年から後ずさり、廊下に出ようとした時だった。
青年が、スレッタの手首を掴むと、指をするりと絡めてきた。さらに、ぐっと顔をスレッタに近づけ、口を開いた。
「ねぇ、さっき言っていたことは、本当? 僕になら、いいと……」
ふ、と柔らかいものがスレッタのまなじりに触れ、スレッタは思わず瞬きをした。青年に、口付けられていた。
「食べられても、いい? 僕になら」
スレッタはこくん、と迷いなく頷いた。なんだかふわふわ浮いてしまいそうな心地の中、青年に強く抱き締められ、「あっ」と甘い声を出した。
「ここは埃っぽいから、あちらへ行こうか」
いつの間にか青年の腕の中に抱えられていたスレッタは、ベッドにゆったりと倒された時も、よく分からないままにぼうっと青年の鋭い瞳を眺めていた。
なので、がばりとスレッタのコートとブラウスの胸ボタンを乱暴に開けられた時も、くったりと大人しく寝転がっていた。カーテンの隙間からかすかに外の光が漏れているが、せいぜい青年の白い肌をぼんやりと浮かび上がらせるだけで、ほとんどは影のようだった。
「なるべく、痛くないようにするよ」
「はい……」
スレッタは青年の声と、ベッドの上の、しゅるしゅると服が擦れる音も、聞いていた。
男の口が大きく開けられるのが、なんとなくわかった。スレッタは静かに、目を瞑った。
屋敷に、絹を裂くような乙女の悲鳴が響き渡った。
それは直ぐに止み、甘い声が混じったものに変化した。
──スレッタは、またも混乱していた。
「……ッ、あまい……」
「あぁぁっ、ア、あ……っ」
男の顔が、スレッタの首の付け根あたりに埋められている。男はスレッタの真っ赤な髪を手で避けながら、柔らかな肌に牙を突き立てていた。
最初は目を真ん丸にしていたスレッタだったが、今はしきりに足をベッドに滑らせ、男の白いシャツを掴み、身悶えている。
「あぁあっ……なに、これ……っ」
ずきずきと腰が甘く、重く痺れている。男の舌が這った場所から痺れが広がるような心地をスレッタは覚えていた。
ごく、と飲み込む音がすぐそばで聴こえた瞬間、スレッタの頭は恐怖や忌避感で占められた筈だったが、身体は熱が上がるばかりだった。
「だ、ぁ、だめ、だめぇ……っ」
「ごめん……あと、少しだけ……」
──男は、人の生き血を啜る化け物だった。吸血鬼だったのだ。
化け物とは、彼のことだった。不気味な屋敷に住んでいるから、そう呼ばれてしまったのだと、優しい青年を見てぼんやりと思っていた。屋敷に日の光を入れないようにしているというのも、そういう病気か何かだと思っていた。
血を抜かれていく感覚に、スレッタは怖気が止まらなかった。男の胸を押そうとしたが、その手を呆気なく取られ、まるで恋人のように強く絡められた。指先まで血が行き渡って、ドクドクと熱を持ち始めている。牙が抜かれたかと思うと、生ぬるい舌で、肩と首筋を舐められた。恐怖から流していた涙すら男に舐め取られ、スレッタはされるがままだった。しかし、スレッタの脚に割り入っていた男の膝が、スレッタの足の真ん中に擦れた瞬間、スレッタは「あっ……」と、どこまでも甘い声を出した。
この疼きをどうにかして欲しい。スレッタはそう思い、男と繋いでいた手に力を込め、もう片方で男の頭を引き寄せた。
しかしそこで、スレッタの意識は途切れた。
スレッタが目を覚ましたのは、夜中だった。
ぱら、と紙がめくられる音がするが、あたりは真っ暗で、何も見えない。身体を起こすと、暗闇の中から声がした。
「気がついた?」
スレッタはびくりと肩を跳ねさせた。声の主は、あの男だろう。そう思うが確証は持てず、スレッタは怯えた。
「あ、あの……明かり、を……」
「そうだった。ごめんね」
カチ、という音が近くで聞こえると、ベッドの横にあったらしいランプが、暖かなオレンジ色に光った。すると、椅子に腰をかけ、本を手にしている青年がいた。
スレッタは、自分は今まで夢を見ていたのではないか、と思った。身を差し出すよう言われた恐ろしい屋敷で、素敵な人に出会ってしまったとはしゃいだ自分の、不埒な夢。
スレッタは青年に謝ろうとした。彼のベッドをずっと占領していたようなのだ。
スレッタが身体を起こすと、鼻に、きんと冷たい匂いがかすかに広がった。鉄のにおい。いや、血のにおい。
スレッタはすぐさま自身の身体を見下ろした。襟を掴み、引っ張ると、黒っぽい汚れが付いている。変色した、血の色だ。
「すまない、君の服を汚してしまって。明日服屋を呼んだから、採寸して君の服と仕事着を用意しよう」
そう静かに話す男の口からは、鋭く尖る犬歯がちらちらと覗いているのに気付き、スレッタはもう一度倒れそうな思いをした。
「あ、あの、あなたは、きゅ、吸血鬼、ですか」
そう尋ねるのすら恐ろしかったが、彼は優しい人なのだと思う気持ちが消えた訳では無いので、緊張しながら聞いた。
するとやはり彼は、穏やかに「うん」と答えてくれたのでホッとしたが、その内容には、スレッタは息を呑んだ。
「君は、もうとっくに寝る時間だよね。四時間気を失っていたけど、まだ、眠たいんじゃないかな」
「はい……」
「僕は、一階にいるよ。食べたいものや飲みたいものがあれば言って」
本当は、眠くない。しかしスレッタは嘘をついた。一人になりたかった。気を落ち着け、頭の中を整理したかった。
部屋を去る青年の背を見送ったあと、ここが彼の部屋だということを思い出した。一瞬身体が強ばったが、やはり優しさを感じて、スレッタは布団の中に潜り込んだ。
布団を引き寄せ、すん、とかいでみた。
「は、ぁ……」
スレッタは皺になるほど布団を握り込み、ぎゅっと身体を丸めた。
男の人に、初めてあんな風に優しくされた。初めて、抱きしめられた。家族やきょうだいがするようなものでは無い。色っぽくて、甘くて、胸が弾んで、苦しくなるような触れ方だった。
スレッタは自身の首をさわった。指で探すと、小さな傷が二つあるのがわかった。
針のように細い訳では無い牙が、ここにずっと刺さっていたのだ。それなのに、痛みは無い。噛まれた瞬間は痛かったのに、すぐに別の感覚が身体中に広がったことを思い出した。
スレッタは気を失う前の、あの事をどう受け止めればよいのか、戸惑っていた。血を飲まれたことは恐ろしいと思うのに、ベッドの上であの青年ときつく抱き合うのは、とてもドキドキしたのだ。長い彼の指が、スレッタの手を簡単に捉え、優しく髪を梳いて……。けれどのしかかられた身体は固く、重かった。
(あの人になら、って思ってたんだった。私。お名前も聞いてないのに……)
彼に抱かれる、と恥ずかしい勘違いをしていたことを思い出した。
(そうだ、服……服を仕立ててくれる、って言ってた。お仕事、ちゃんとできるかな……)
彼にどう接すればいいのか分からない。
自分は、やはり食べられる為にここに来たのか。けれど、彼はずっと優しい。気を失った私を介抱してくれたし、明日からのことを考えてくれたのだ。
そうやって優しくして、最後には血を全て吸われるのだろうか。
そう思うと怖くてたまらないが、偽りの優しさでも嬉しいと思ってしまう。
彼のことが、気になる。
スレッタはベッドから抜け出した。
(今、あの人は起きてる……よね。吸血鬼……って、夜に起きてるイメージ)
ベッドのそばに、水差しが置かれていた。スレッタはそれを一気に飲み、早く青年と話したい気持ちが増した。
どこにいるか分からない彼を呼ぼうとして、名前を聞いていないことを思い出した。とりあえず玄関ホールまで降りたが、一階はキッチンの場所しか知らない。
スレッタは少し考えたあと、口を大きく開いた。
「ご、ご主人様……! ご主人様、どこにいらっしゃいますか?」
キッチンの方に行ってみよう、と声をかけながら歩いていると、その奥から彼が現れた。スレッタは青年の格好が変わったことに気付いた。白いブラウスには豪華なフリルのようなタイが結ばれ、ひし形の紫の宝石が付いている。黒いベストに、黒いスラックスをきっちりと着込んでいる。今の服装を見ると、前の服は寝巻きか、パジャマから慌てて服を着たもののように感じた。やはり、夜中が彼の本来起きている時間だったのだ。
「ご主人様……って、僕?」
「は、はい!」
「眠れない? それとも何か、要る物がある?」
「えっと……あなたと、お話……したくて」
「話?」
「……あ、あ、あなたの事が、気になって! 」
「気になる、って……あの時、君は怖い思いをしたんでしょう。あぁだから、気になるのか。もう君にあんな事はしない。抗えない衝動があるなんて、知らなかった。僕が君の血を飲みすぎたせいで、君は気を失ったんだ。ごめんね……メイドの仕事は、昼に頼むよ。その間僕は寝ているから、君も気にしなくていい」
拒絶されている。
スレッタはそう思った。思い返せば、目覚めたあと、彼に怯えた態度を取っていたかもしれない。彼の優しさにまた気付いて、胸が苦しくなった。怖いなら、近寄らなくていいよ、と言われているのだ。
全く怖くないといえば、嘘になる。
「い、嫌です。 私も夜に起きるようにします……っ。あの、あなたのお名前を教えてほしい、です」
「無い。それに、主人という呼び方は……それくらいしか無いから、仕方ないか」
「無い? 名前が?」
思わず聞き返すと、彼の瞳が冷たく、どこまでも暗くなった。
「無いよ。聞きたいことはそれだけ? もう、好きにしていいから、僕はいくよ」
嫌われた。
スレッタは立ち尽くし、涙をぽたぽたと流した。彼が瞼に触れることなどはなく、服や絨毯に落ちるだけだった。
だって、血を吸われるなんて怖かった。意味がわからなかった。怖がってしまって、彼を傷つけた。彼になら暴かれてもいいと思ったのは本当なのに。名前が無いだなんて、そんな悲しいことがあるわけが無いと思ってしまった。触れられたくないことを無神経に聞いてしまった。
こんなだから、私は捨てられたの……。
部屋に帰り泣きたくなったが、その部屋は彼のものだ。
スレッタはその場にうずくまって、涙を流し続けた。
「ごめんなさい……ごめん、なさい。知らなかったんです。分からなくて、怖くて。でも……」
嗚咽を漏らし、スレッタは肩を震えさせていた。
すると、黒い革靴がすぐそこにあるのが見えて、ハッと顔を上げると、彼がいた。綺麗な革靴にくしゃりと皺が寄り、スレッタの目の前に、男の顔があった。
「泣き声が、どこにいても僕にはずっと聞こえてしまう。どうして、そこまで泣くの。会って、一日すら経っていない僕に」
「あなたを傷つけて、ごめんなさい……でも、あなたの事が、気になるんです。優しくしてくれて、ドキドキして……。もっと知りたかったんです……」
嗚咽が混じり、聞くに耐えない言い訳だったが、スレッタは青年によって立たされた。
そして再び、スレッタは青年に抱えられた。青年の首に腕を回し、ぎゅっとすがりついた。
階段を登りながら、彼が口を開いた。
「君に、埒外の存在だと思われて、失望されたくなかった」
「らちがい?」
「そんな存在がいるわけない、と思われたくなかった」
「失望なんてしません! あなたみたいな方に出会えるなんて、私の人生で一番の幸福だって、私は思ったんです……」
「スレッタ」
スレッタの身体が固まった。けれど彼に抱えられたままなので、どこかには進んでいる。
「ご主人様……」
名を呼べない代わりに、スレッタはその頬を指でなぞりながら、そう呼んだ。
どうやら彼の部屋に戻ってきたようだと、少し前まで包まれていたかおりのするベッドに押し倒されて、気付いた。
昨日のどこからどこまでが夢だったのだろう。
スレッタは仕立て屋の女性に採寸をされながら、そう思った。
全身を這う彼の指と、唇と舌を、覚えている。髪を梳かれたことも。今、必要な箇所のみに事務的に触れる女性の指と昨晩の彼の指は、全く違う。彼に、触れてほしくないところは執拗になでられ、触れてほしいと思った時にはすげなく指が離された。
「初めて」は痛いと聞く。なのに身体のどこにも痛みはなく、朝起きたスレッタはえも言われぬ幸福感が指先まで広がっていただけだった。しかしスレッタの隣に青年の姿は無かった。スレッタがずっと占領していたにしてはかなり綺麗なシーツが広がっているだけだった。
(あ、あんなに大きなものを……あそこに入れたはずなのに、痛くないなんて……おかしい、し)
スレッタはまた自分がいやらしい夢を見たのだと思い、ため息をついた。鮮明に想像してしまったのだ、自分は。
彼の部屋で鏡を見ると、牙の痕がどこにも見当たらなかった。肩にさえ。
内心で首を傾げながら身支度を整え終わると、寝巻き姿の彼が部屋に入ってきたのだ。この時間から僕は寝るのだと教えてくれたあとに、彼はベッドに一人で潜り込んだ。スレッタが寝ている間、青年がどこにいたのかは分からない。彼のことだから、真っ暗な部屋で本を読みながら、そばでスレッタを見守ってくれていたのかもしれない。
まじまじと彼のことを見たので、彼の口に牙があったのは確認できた。だからやはり彼が吸血鬼であることと、仲直り出来たことは間違いない、とスレッタは思っている。そして一度は血を吸われている、はずだ。
端正な表情は変わらないが、昨日よりもずっと、彼の雰囲気がやわらかにほどけていた。
もう、それで充分だとスレッタは思った。青年と一緒に暮らし、真面目に働ける。あの村にいた頃からすると、夢のようだ。
「一先ず、五着ほど見繕うよう仰せつかっております。こちらからお選びください」
「えぇっ」
「本日の採寸を元にお作りするものは、また後ほどお送りします。ご希望のデザインはございますか?」
「昼」に仕立て屋は来てくれた。女性はわざわざマネキンのトルソーまで用意し、それに持ってきていた服を着せている。応接間のソファにも服をいくつも広げて見せ(本来彼女を通すクローゼットルームにも、埃が積もっていた。彼は基本的に自室のみで生活しているようだ。)、スレッタにうかがった。
一先ず、と彼女は言っているが、彼女が見せているものはスレッタの目からしても、上等なつくりだとわかる服しかない。メイド服を着ない時の服だろうが、こんな服を着て自由には動けそうにないとスレッタは思った。そして、オーダーメイドの私服数着とメイド服を、後で送ると彼女は言っているのだ。
スレッタは冷や汗をかいた。
雀の涙ほどのスレッタの所持金では、ここにある一着すらきっと買えない。メイド服をわざわざ採寸して作るなんてことも聞いたことがない。
私服とメイド服の代金については、彼に給料からゆっくり(……)天引きしてもらうよう頼むことにした。
採寸を終え、スレッタは服のかかったソファに近付いた。
(なるべく、この中で比較的安いものを……あぁっ、すごくいい生地……)
スレッタは滑らかな生地にふれ、感動しながら項垂れた。恥を忍び、スレッタは女性に尋ねた。
「あ、あの……一着だけ買うのって、まずいでしょうか?」
いくつも高価な服を買ってしまえば、服代を返す為に働くことになってしまう。
「構いませんが……出来ればたくさん見繕って欲しいと仰せつかっております。わたくしとしても、たくさん選んでいただけると嬉しいです」
スレッタはぱちり、と瞬きをした。
もしかして、服は彼がスレッタに贈るつもりなのだろうか。
(私、貰ってばかり……! どうしよう。どうやってお返しすれば……そもそもどうして、こんなに私によくしてくれるんだろう)
スレッタは悩みつつも、服を五着選んだ。遠慮していたものの、どれも心が弾む素敵なものだったのだ。スレッタはその中の、薄い青のドレスを着て、今日一日を過ごすことにした。胸のすぐ下にリボンが巻かれているが、締め付けは苦しくなく、長いスカートのドレープが足首までを柔らかに隠している。首の後ろにもリボンがあり、スレッタは自分で結んだ。
(全然メイドには見えない、けど……)
スレッタは鏡の前に立ち、頬を緩ませた。スカートをつまみ、くるくると回ってみる。
スレッタは、彼が起きたらすぐにお礼を言うことを決めた。
仕立て屋の女性が屋敷から帰ると、スレッタのお腹が早速鳴った。
朝、目覚めたスレッタに青年が紅茶を用意してくれて、それしか今日は口にしていなかったのだ。
スレッタはテーブルに置いていた懐中時計を取った。針は十一時を差している。スレッタは食事を作ることにした。
(ご主人様、何時に起きるんだろう。お夕食は二人分作っていいよね……? お昼のおやつは食べるのかな。まだ寝てるのかな)
──いや、そもそも彼は、血液しか口にしないのでは?
キッチンへ向かっていたスレッタの足がぴたりと立ち止まった。
昨日見たキッチンは、埃をかぶってはいなかったが、全体的にあまり使われていない印象を受けた。ティーセットを扱う彼の手は少しだけ覚束なかったが、皿は綺麗だった。スレッタは、あの白磁の器に真っ赤な血がたぷたぷと注がれ、それを優雅に指でつまみ、血を飲み干す彼の姿を思い浮かべて背筋が寒くなるのを感じた。
(や、やっぱり、まだちょっとコワイ……)
スレッタはぎくしゃくしながらキッチンへ向かった。
ドアを開け、明かりをつけたスレッタは、目を丸くした。
食料は期待できないと思っていたのに、様々な果物や野菜や肉、小麦などが部屋から溢れそうなほどにあるのだ。スレッタは驚きつつ、慌てて肉をどこにしまおうかと部屋を見回した。すると、氷を使った大きな冷蔵庫があるのをみつけ、それに腐りやすいものを入れていった。
それからスレッタは青年の部屋にそっと入り、静かに上下する布団を横目で見つつ持ってきていた自身の服に着替えたあと、再びキッチンへ行った。水色のドレスを汚したくなかった。
小麦だけでなく砂糖や塩などの調味料もふんだんにあり、スレッタは次々に袋の中を開けては中を確認し、棚の中に整理して入れた。
「やっぱり、ご飯は食べないのかな……」
明らかに、スレッタがここに来たから用意された食材だ。買い足したのではなく、何もかも一から用意したように見えるので、やはり料理はしていないようだ。
スレッタは有難く食材を使わせてもらう事にし、ジャガイモと卵でブランチを作り、食べた。
「水道があるのに……お料理しないなんてもったいない」
冷蔵庫もそうだが、この屋敷の設備は埃を落とすと、最先端で立派なものばかりだ。だから彼は召使いを雇わず、一人暮らしができていたのかもしれない。
「いっぱいお料理できるかも。料理本を買おうかな」
村にいた頃よりも、レパートリーが増えそうだ。
(やっぱり……あの人に食べてほしいなぁ)
スレッタは食事を終え、自室の掃除をすることにした。
物が少なかったおかげで、スレッタは掃除を早くに終えた。時刻は十五時半。スレッタは自室で空色のドレスに着替えたあと、トレーを手に、青年の部屋の前で立ち尽くしていた。紅茶の入ったポットに、カップ二つと、チョコレートマフィンが二つ。スレッタは何度か深呼吸をして、声をかけようとした。
「スレッタ」
カチャリ、とドアが開いた。
「ご主人様! あ、あの……」
「僕の部屋の前でずっと立っている気配がしたから」
彼は寝巻き姿で立っていた。
部屋の前で大きな物音を立てた覚えは無い。視力はもちろん、聴力も人間とは異なるのだろうか。
「ごめんなさい。あの、お茶……飲んでほしくて。ご主人様は、お茶は飲まれますか?」
「いただくよ。おいで」
「は、はいっ」
スレッタはベッドそばにある小さなテーブルにトレーを置いた。ソファは無いが、デスクチェアはあるので、それをベッドの近くに持っていったらダメかな、とスレッタが考えていると、青年がベッドをぽんぽんと叩いた。
「悪いね、それ以外の椅子が無くて不便はなかったから……。ここに座って」
「し、失礼します……っ」
このベッドで寝たこともあるとはいえ、はっきりと意識のある時に、彼と一緒にいるのは初めてだ。
スレッタはポットから紅茶を注ぎながら、青年に聞いた。
「お隣の部屋の掃除をしましたが、もしかしてうるさかったですか……?」
「君がいるのはわかっていたけれど、別に大丈夫だったよ」
「そうでしたか」
ほっとしつつ、青年に紅茶を手渡した。
スレッタは青年の口元を凝視した。
相変わらず肌は青白く、薄い唇だけがほのかに赤く、血色を感じさせる。その唇がカップの縁にふれ、目立っている喉仏が上下した。
スレッタの頬が赤くなった。
「美味しいよ。……どうかした?」
「い、い、いえっ!」
美味しいと言われ、スレッタの胸に喜びが広がると同時に、彼も人間と同じものを口にするんだ、と驚いていた。
「食べようと思えば、何でも食べられるよ。必要が無いというだけで……僕は食事に興味が無かったから、水くらいしか口にしなかったんだ」
スレッタの視線の意図を読み取った彼からそう説明され、少し申し訳なく思ったが、スレッタはいよいよ仰天した。
「み、水しか飲まない、です!?」
「うん。僕たち……まぁ、俗に言う吸血鬼だけど、基本的には飲み食いは必要が無い」
「じゃ、じゃあ……血、は、毎日飲まなきゃ、です?」
「いや、必要無い」
「へ?」
物語で読んだことのある吸血鬼は乙女の血を好むし、血を飲むために人間を襲っていた。
「太陽光に浴びさえしなければ、それだけで生きられる。ニンニクや十字架や銀の杭なんかが苦手だとよく言われているみたいだけれど、銀の杭以外は特になんとも無いよ。銀で刺された事がないから、それについては分からないだけだけれど。血液は……嗜好品と言ったところかな」
「へぇ……」
つまり、血は生存に関係が無い。基本的に何も口にせずとも生きられるということだ。
スレッタは、飢えを感じないことは羨ましいと思ったが、吸血鬼のようになりたいとはあまり思えなかった。スレッタは食事が好きなのだ。
「ご主人様は、何が好きですか? やっぱり読書、ですか?」
「僕の好きなこと……?」
「はい! ご主人様のことを、教えてほしいです」
「どうして?」
スレッタの笑顔が固まった。数秒の間にスレッタは必死に頭を回転させ、上手い言い訳を思いついた。
「ご、ご主人様の好き嫌いを知って、手助けできたら、と思いまして……! 私、ご主人様のメイド、なので!」
嘘ではない。
なぜ手助けしたいのか。どうしてメイドになることを決めたのか、と次々に問われれば、「好きだから」と、本当の答えを暴かれただろう。しかし青年は納得したように頷いたので、スレッタは安心しつつ、少しガッカリした。
「そう。でも、思い浮かばないな……読書は確かにするけれど、手助けしてもらうようなことはないし……」
「本棚のお掃除とか!」
スレッタは部屋の本棚に目を向けた。しかし隙間なく、埃もなくきっちりと本が並べられている。
青年は顎に手を添えて悩んでいたが、スレッタの方を向き、じっと見つめ始めた。
「なにかもっと、別のことがいい。それが何かは、思い浮かばないけれど……スレッタ。君の好きなことは?」
「ふえぇっ!? あ……えっと、そうですね、た、食べること、ですかね……」
彼の口から発される好き、という単語に過剰に反応してしまった。もっと面白くて、可愛い趣味があれば、とスレッタは歯がゆい思いをしたが、思いつかなかった。村にいた頃は、ずっと家事をしていたのだ。まともな暇は無かった。
そういえば絵本や小説なら読んでいた。彼と同じ話題を共有できるかもしれない。
「なら、これからは食事をとりたい。君と。いいかな」
「わ、私と……? 嬉しいです、けど、どうして……?」
「きみの好きなことを知りたい。きみと時間を共にしたい」
スレッタの体温はたちまち上がった。
「私も……あなたと一緒にいたい、です……!」