都市が眠らない理由東京の雨の日がたいていそうであるように空は陰気な雲を垂らして力のない雨脚を垂らした。帝統はそれが水圧の低いシャワーのようだと思った。夕方が始まる時間、巨大なシャワーヘッドの下に黒い傘が影の下にまた影を作った。下降するシベリア高気圧が小さな人間の懐から温もりを奪っていく。襟を正す、雨を傘で遮る大勢の人々と一緒にスクランブルを通る。向かい側の人達は帝統を避けて歩いて行った。いくら混みあっても雨、風、そして少し汚い人には触れたくないようだ。紅海を渡るモーゼにでもなったような気分で、帝統は渋谷スクランブル通りを斜めに歩いていった。2日3日洗ってない頭の上に雨が降り、濡れた髪を冷たい風が靡いた。自分についている汗、血、ほこり、砂のようなものが雨粒に混じって風に乗って…···遮断された視線、ぎゅっと閉じた襟、固い傘の中に食い込み彼らになにかしら病気になりますように。そんなことを想像しながら歩いて行った。その病気を一層深めることができるかな?と期待しつつタバコに火をつけた。雨の中でなかなか火がつかず、ライターを何度もカチカチと鳴らした。やっとついた火が消えるのが嫌だったので、フードを深くかぶった。
TOHOシネマあたりで、これ以上雨に降られても風邪をひくだけで何の良いこともないに気付き、近くのパチンコ屋に入った。オゾンの匂いがする室内はピロピロという機械音、幼稚な8ビットサウンド、玉がチャラチャラする音でいっぱいだった。帝統はこれくらいのデシベルを白色騒音と感じた。遥かさすら感じられる寂寥感は耐え難かった。彼は常に自分の存在を確認できないほどの混雑さを望んでいた。
各機械が表示する当選回数を目で見て、適当な機械の席に座った。ポケットの中から紙幣を取り出し、投入口に挟んだ。玉が大きな音を立てて出てきたが、その大きな音すらよく聞こえなかった。帝統はいつもこの瞬間にある経験を思い出したりした。それは今年の晩春からついた癖だった。
この春の夜、パチンコ屋に幻太郎を連れてきたことがあった。最初はそんな所には行きたくないと言って引いてたが、好奇心が同じようなのか経験がてら行ってみたいとついてきた。入場する瞬間から襲ってくる暴力的な騒音に彼は手で耳を覆って慌てた。帝統が何と声をかけた時、彼はよく聞こえなかったか「何ですか、何ですか」だけ繰り返し、何も聞こえません、と言ってた。もともと叫ぶ性格ではない幻太郎の声は、実は帝統にもよく聞こえなかった。唇を読んだだけ。大したことではないと思って良い機械から探す途中、突然自分のパーソナルディスタンスの中にある有機体が入ってくることを感じた。それが左耳から「ここうるさすぎます、出ます」とわざわざ意思表現をする幻太郎だということを認知した時には、手遅れだった。近すぎた。避けられなかった。耳元に触れたぬるい手の体温、柔らかい発声とともに出る呼気、いつも彼の外郭でかすかにしか嗅いだことがないシグネチャーセントのベースノート、そして…···帝統自身の体温、呼吸、体臭がそれらと混ざる空気。どうしてその時息を吸ったんだろう?当時はただ「分かった、出よう」と急いで外に出たが、まるで気化したシンナーを吸い込んだ時のように脳が収縮するような感じがした。もちろん幻太郎はシンナーではないので、その周辺の空気をどれだけ吸い込んでも中枢神経障害を起こすことはない。それでもパチンコの玉が出てくる時、耳がここのすべての音で覆われる渦中にその間に入り込んだ幻太郎の囁きを思い出す癖ができたのは帝統にとって生活を妨害する一つの要素だった。
不快ではない。強いて言えば、あまりにも気持ち良くて困る。俺は耳が弱いのか…というには時々乱数から耳を噛みつく悪戯をされた時は平気だった。幻太郎特有の鼻音が混ざった声が問題なのか?そんな声を耳元で聞くと何ヶ月間忘れにくいのか?季節はいつのまにか2度も変わり、クリスマスを準備するシーズンになったのに、帝統だけがまだその春の夜に立ち止まっているような気分だった。出し切った玉がパチンコに引っかかり、いつもの手のテンションを維持し、小さな玉を左上の狭い隙間に流し込むことに集中した。いつの間にか幻太郎のことも小さな玉のように散らばって、それぞれ行きたいところに入ってしまった。
ポケットにあった六千円を溶かし、帝統の手に残ったのは景品のお菓子と換金された五百円が全てだった。席選びに失敗したと思いながらパチンコ屋を後にした。雨はもうやんだのか、街には涼しい臭いが漂っていた。外の空気を吸うと一ヵ所に集中していた五感が再び体の隅々に伸びては、忘れていた幻太郎のことを拾ってきて頭の中に集まった。幻太郎の家に行こう。500円で安いお酒でも買ってやってきたらとにかく入れてくれるさ。感覚は帝統の頭の中で悪魔になってそうささやいた。でも、今の俺って汚すぎじゃないか?自問自答していると、再び提案が聞こえてきた。こんなに汚い人は誰でも洗いたいと思うって。むしろ清潔を追求するお前に感動してえらいえらいと小遣いまでくれるかもしれない。
俺は幻太郎に金がもらいたいわけじゃねえのに。いや、正確には幻太郎にもらいたいのは金じゃないのに。最近、帝統は幻太郎からお金をもらうことが全くうれしくなかった。おもちゃを握らせて「これでおとなしく遊ぶんですよ」と統制されると感じられた。乱数は1万円未満の少額を頻繁に貸して帝統の賭博生活を延長させるだけなら、幻太郎は比較的巨額で、これくらいあげたら危険なことはしないだろう、という一種の保険みたいなものだった。これが博打の中の博打という奴か…?手のひらに帝統を乗せたような幻太郎の予想は的中し、帝統は不完全燃焼を繰り返す日が増え、自然と一酸化炭素が心の中を埋め尽くし胸が苦しくなった。幻太郎は俺をギャンブルじゃない他のものに中毒させて殺したいのだろうか?彼が与える生命保険金はもうもらいたくなかった。なんで俺にそんなことをするんだろう。なんでだろう…俺に、なんで……乱数の所に行って愚痴ろうか?そうするにはすでに広尾方向に来てしまった。再び原宿方向に向かうよりは、今すぐ体を洗いたい気持ちが先だった。
幻太郎の家の呼び鈴を押して、家主が出てきた。今日も珍しいのを見るような幻太郎の眼差しを感じながら、帝統はぎこちなく笑った。彼の前で見せたいのもこんな微妙な笑顔ではなかった。帝統は最近、自分の人生の求心力を幻太郎に奪われたことへの悔しさぐらいは自覚していた。ねじれた求心加速度が作った人生の方向変化を忍耐する自分がおかしかった。複雑な感情より進んだ異質感は、忍耐力なんてほぼ持っていない帝統が最近この一連の事件を何とか耐えているという点だった。
帝統は本人の求心力で人生を生きていると勝手に思っていたが、実状はルーレットの玉に似た遠心力で人間社会の表を回っていた。そうやってるうち、ある呼気一つに遠く弾かれ、幻太郎の周囲に軌道を形成した星になったことも知らないまま、彼は何かが変わったことだけをぼんやり気づいていた。とにかくそこには多くの変化というものが存在したため、帝統は窮屈さとは別に倦怠は感じず、それが彼がこの換骨奪胎を無意識に受け入れた理由だった。