箱おじさんが箱になった。
僕の目の前で白い箱がみっともなく怯えている。初めのうちは、おじさんは箱の中ですし詰めになっているのかと思ったがそうではないらしい。おじさんはこの、白くて面白みのない、ただの箱になったのだ。見た目は箱でも、やはり、強く睨みつければどこか怯え、微かに震えているようだし、小遣いを強請ればこちらに意識を向けてくる、そんな気がするのだ。
「おじさん、箱になって何か面白いことでもあるんですか?」
箱はこちらを向いたままで、応答しない。触ってみたら何かわかるだろうかと、その箱を持ち上げる。思っていたよりは軽くて、見た目よりは重かった。少し傾けると、母のお腹にいた時のような、心地よい漣が聞こえてきた。その次はカラカラ、カラカラと、おじさんの革靴にツヤがあった頃の懐かしい足音が聞こえてくる。それがなんだかおもちゃ箱のようで、面白くて、色んな角度にしてみたり、床に置いたり、タンスの上に置いたり、日向に置いたり、日陰に置いたり。デパートを連れ回すように家中で遊んだ。
夢中になっているうちに、どうしておじさんが箱なのか分からなくなってしまった。元から箱だったかもしれないし、朝起きたら人間の形になっているかもしれない。
「おじさん、戻れるなら早く戻って小遣いくださいね」
その日はおじさんの箱に飽きてしまったので、ちゃぶ台の上に置いて家を出た。
それからしばらく経った。おじさんの体は地獄へ置いていかれてしまったために、箱だけになっていたのかもしれないと考えて、僕は地獄へ向かった。けれど、番人も住人も口を揃えておじさんは居ない、なにより切符を手に入れていないと言うのだ。それで仕方なく、久々に箱の様子を見に、家へ帰った。
鍵のかかっていない玄関に手をかければ、前より建付けが悪くなっていた。
「ただいま戻りました」
部屋は静けさに包み込まれている。その中で異様に漂う地獄の香り。加えて、おじさんの項に顔を埋めた時の、あの草木の香りと屍人の香りがほのかに混ざっている。記憶しているよりも遥かに芳醇なそれは僕の頭をクラクラにさせてしまう。
「おじさん、あなたって人は酷いです」
どうして地獄に居ないのですか、どうして黙っているのですか、どうして僕から逃げないのですか、どうして魂はそこにあるままなのですか。
「おじさん、よく見たら豆腐みたいですね」
触れたら柔らかに崩れてしまいそうな、醤油をかけたら美味しそうな豆腐はおじさんだ。
壁にかけてある古びたスーツからお金を抜き取り、瓶を片手に商店へ向かう。
「醤油を」
注文していると見慣れた顔が変なものを見るように近づいてきた。
「なんだ、ねずみ男」
「なんだって、なんだよ。マッタク、失礼な奴だ。お前の方こそどうしちまったんだよ。親父さんはどうしたんだ」
店員がこの男の悪臭に倒れそうになる前に醤油の入った瓶を受け取り、ねこやの方向へ歩き始めた。
「父さんは旅行です。お前と違って潤ってるんだよこっちは」
「やかましいナ。それにしたって、おまえ、何に執着してるんだ」
何にって、何だ。僕は何にも執着などしていない。最近フラれた女の子のことなら、新しい可愛い子のことでもう考えてなどいない。
「聞いたんだよ、噂でさ。お前が人間の魂を引き留めてるってさ」
「ケッ、デタラメだァ、心当たりないね」
「ふーん、面白いもんでも見れるかと思ったんだが、オサラバだ」
そそくさと、つまらなさそうに離れていくねずみ男と悪臭をスッキリした気分で眺めた。
ガタガタと軋む音のする戸を引いて階段を上る。ねこやの二階は呆気ないほど空気が乾いていた。階段は鬱蒼として湿っているのに、まるで別世界だ。
おじさんの箱はちゃんとそこにあった。いつまでも白いその箱に買ってきた醤油を最後の一滴まで、思いっきりかけた。
「初めからこうすれば良かったんです。」
口を大きく、縦に開ける。
地獄から連れ戻すこともできず、転生は期待できないし、箱のままでは会話し、動くこともままならない。
「だから、僕が食べてあげます。僕の体の中で生活していいですよ」
おじさんの箱は少しホコリっぽい味で、こうして醤油をかけなければ、なかなかに量もあるので食べられたものでは無かっただろう。
ガリ
一際大きい塊が歯に詰まる。
複雑そうなその形が気になったが、そのまま飲み込んでこの豆腐を平らげることにした。
「これで観念してください。もうあなたは僕の体のうちなのです」
白昼夢を見る心地でよく分からないことを口走る。一体僕は何を言ったんだ。きっとおじさんには分かるかもしれない。いや、父さんに聞いた方が早いだろうか。
旅行から帰った父さんに箱の正体を聞いたら、あれは骨壷というものらしい。どちらにせよ僕には関係の無い話だった。