共食い秋山には、もはや痛覚も存在しない。
昼は屍臭を漂わせながら人のように働き、夜は幽霊族と寝食を共にする。そんな生活は全く同じ景色で半世紀に渡った。
その男は朝になると鳩時計のように障子を開いて閉じて、会話よりも一方的なしらせを一言、二言残して人間社会という巣へ戻る。生命を維持できると思えない睡眠と食の量に白髪もない若々しい見た目。この事実を知ったらば、いったい、秋山のことを誰が人間だと信じるだろうか。
それに、人の姿をした彼の体は形だけがまともで、中身はめちゃくちゃだった。
片道切符で地獄の入り口へ訪れた際、秋山の体はその場に相応しい、あるべきものに変化しようとした。だが、地獄の戸籍がなければ、秋山という霊は入り口の先へ進むことは勿論、その体を手放すことも出来ない。つまり、彼の居場所は現世に他なく、そして、地獄との境を跨いだ故に「生きたまま」死者の体となった。
摩訶不思議なその体に死者の判定をつけたのは地獄だから、取ってつけたような特徴があるだけで心臓が止まっても死斑はおろか、死後硬直でさえ起こらなかった。
「口を開かないつもりですか。声を出すことくらいはできるでしょう」
死者の判定を受けたならば秋山の霊は肉体を離れるはずだったが、どうにも離れない。それは秋山の体が期限を迎え、本当に死者の体となってもだ。
だから、空っぽの秋山にはもはや痛覚も存在しない。何も残っていない。ホルマリン漬けにされたように保存されても、そこに生命の機能は残っていない。
「喉はまだ食べていないんですから」
鬼太郎はあの日、自分を抱き抱えていたであろう秋山の腕を口に運んだ。秋山は赤子を愛でるように目を細めて、反対の手で鬼太郎の頭を撫でる。
鬼太郎は髪に絡まる指先の柔らかさを感じやすいように食べている腕の位置をずらした。
「あなたが僕を拾ったのでしょう。マッタク、おかしな人ですね」
秋山の体は鬼太郎に捕食されて、もう残り僅かとなった。もしかすると、秋山は幽霊夫婦に目をつけられた時から捕食され始めていたのかもしれない。
正直言って、秋山はその人生の殆どを鬼太郎に捧げた。地面から必死に這い上がるその姿を見たとき、生まれてくる子には罪は無いのだから育てるべきだと思ったのだ。とはいえ、幽霊族の歴史を知ったところでどう育てればいいか分からず、人間として鬼太郎に接する度に痛い目を見た。人間には理解できない世界を鬼太郎は見ているのだと気がつくまで、鬼太郎の常識を受け止められなかったからだ。
「僕の手、冷たいでしょう」
首から下が無くなった秋山の頬にするりと細長い指が添えられる。
秋山はぼんやりと、地獄から戻ってきた際に同じようなことを言ったような記憶があったが、昔のことでよく思い出せなかった。
僕の手も、冷たいだろう。と、口にしようとして飲み込んだ。秋山には自分の手が冷たいか、まだ腕と繋がっているかどうか分からないからだ。
この奇妙な時間は一週間以上に渡っている。
「秋山さん、共食いをしましょう」
なんの前触れもなく、その一言だけが発端だった。
翌朝、微かに残っていた体の感覚が無くなり、翌晩、金縛りに遭い、朝焼けと共に鬼太郎の捕食は始まった。足先から、一睡もせずに鬼太郎は秋山の体を食べ続けた。見ようによっては儀式のような行為の中、秋山は体の部位の一つ一つを鬼太郎に委ねていた。
「最後になにか一度くらい話したらどうですか」
鬼太郎は何度も何度も秋山に話しかけていたというのに、金縛りが解けた後、秋山は声を出していない。何か言いかけても、諦めるように口を閉じてしまう。いつの間にか鬼太郎が肺を食べて、両腕を食べて、既に残っているのは首と頭だけになっていた。
「秋山さん……僕は、食べ終わってしまいますよ」
鬼太郎の力の無い声に秋山は視線を逸らす。バツが悪そうに笑って、そのまま瞼を閉じた。
「鬼太郎、耳を貸してくれ」
低く落ち着いた声色に、鬼太郎は秋山の口元に耳を寄せる。一層濃くなった死の香りから不意にタバコの香りがした。
「これは共食いじゃない。だって、鬼太郎、お前は幽霊族だ──────」
秋山を完食したその暫く後。鬼太郎は目玉親父を迎えに行った。自宅に彼女を呼ぶからと理由をつけて外へ出て貰っていたのだ。
本当の理由は考えるまでもなく、秋山を食べるためである。秋山の本来の寿命を察知して、体が朽ち果てるよりも前に、腹の中に留めたのだ。
鬼太郎は秋山のスーツからマッチとタバコを抜き取り、その他スーツ一式をゴミ袋に入れて外に出した。
「……あなたはもはや人間では無いでしょう」
ああ、秋山の体は人の形をしているだけで、めちゃくちゃだった。
それはこれからも。ずっとそう。
今はまだ、地獄の入り口で、男が一人さまよっているところだ。