遠く憧憬を、撃ち落とす話1
とても清らかな人だと思った。
決して汚してはならないような、触れてはいけないような、そんな風に思わせてくる何かがある人だと思った。
彼は結局どこまでも正しい人だろう。人を人のままに殺したことすら、きっと無い。異形に成り果てた人々を、救う為以外には。
黄昏の赤が滲む姿が、とても眩しくて、遠く感じた。こちらに気がついて微笑むのもまた、どこか澄み切った色をしていて、どうにもこうにも、地を這いずり砂埃と血に塗れているような自分に向けられていることに焦燥を感じて、私は思わず逃げ出した。それはもう、明らかに後ろめたいことがあるという様で。
ちょうど槍を持っているときでよかった、こんなことに使うなんてあまりに恥さらしだけど、それでも。高い場所へ飛んで、飛んで、飛び降りて、建物の間を通り抜けて彼の街の外れ、物見塔の上、端まで言って、しゃがみこみ、ようやく一息ついたら無性に泣きたくなった。
いつも通りに戻るから、今だけ許して欲しい。彼の街だ、逃げても隠れても、手のひらの上でしかないのは百も承知で、用事を思い出したのだといえば、何かを察しても、きっと無理に詮索はしないだろうと考えた。今は、この、どうにも抑えようのない感情を飲み下すので精一杯だ。自分でもこの感情の渦に何と名をつけたらいいか分からない。
「や……っと、追いついた……」
近くに来ていると察した時にはもう、逃げるつもりはなかった。あからさまに二度も避けるほどの勇気はなく、退路もない。この高さでは飛び降りたら流石に怪我をしそうだ。息を切らして私の前までかけてきた彼を、見上げる。
どうにもバツが悪い。視線を上手く合わせられず、ゆらゆらと揺れた挙句、結局足元に落ちた。
呼吸を整えた彼が、目の前にしゃがみ込む。大丈夫か、と、呟くように問いかけられて、頷くけれど、言葉で返すことが出来なかった。
やっと視線を上げて、彼を見た。どうしたものかと困り果てているのが分かる。私と目が合って、安堵したように表情を緩めた。
「急に立ち去るものだから、どうしたのかと」
「大丈夫。ごめん。心配、かけて」
「何か、あったのだろうか?」
「何も無いよ」
突然伸びてきた手が、私の頬に触れた。息が詰まる。目を覗き込まれて、近くなった体に、身が強ばる。目元を撫でられている。
「目が少し、充血しているようだ」
「これはなんというか。乾燥したんだよ」
そっと身を引き、気にするふりをして目を手で隠した。どうかこれ以上詮索してくれるなと、適当に受け流して、もうそろそろ日も落ちて冷えてくるから、部屋に戻るべきだとか、そんな言葉を待てど彼は、どうやら私を見つめたまま、なにかを思案している。
言葉を、選んでいるみたいだが、喉につかえて、言葉にはなっていない。
「……グ・ラハって、すごく優しいよね」
「ええと……そ、そうか?」
困惑した様子に、少し気が紛れる。
素直で、良い奴だ、そんなことは分かりきっているけれど。長い時を、よくもまあこれ程までに、擦れず、善良なまま、柔らかい心を柔らかいまま、生きてきたものだ、と。
ああ、嫌だな。優しくなどされたくはないというのに。この人は、決して弱くはないと分かっている。どんなに私が汚れたやつだとしても、泥は拭えば落ちることも分かっている。
優しさは、凶器だろう、ことに、私のようなやつには。
少し笑いを零せば、息を吐いたグ・ラハ・ティアに、腕を掴まれた。それから、腕を退かされて身を乗り出されたら、流石に何か雲行きが怪しいと私でも分かる。
「離して、くれたりは」
「そしたら、あなたはまた逃げるだろう」
「だ、としても……、近い……」
「済まない。けれど、あんな顔で逃げられるくらいなら、踏み込んだ方がいいと思ったんだ」
押しのけようと思った腕は結局そこまでの意思を持って動かすことが出来なかった。息を飲んで、それだけ。内心白旗を振って、抵抗の意思が無いことを沈黙を持って示せば、待っていた彼が少し息をついたのが分かった。
額同士がくっついて、少しひんやりした手で、項を撫でられた。上手く息が出来なくて、喉が震えている。だけど息を整える余裕もない。触れた唇は柔らかくて温かかった。本当に、ただ触れただけだ。暫くして離れて、赤い瞳の奥は、水晶公にはらしくないほど、何かがどろどろに渦巻いて燻って堪らないというようにぎらぎらしているくせに、恥ずかしげに微笑んでみせて、それ以上を求めては来ない。
「そんなに優しくされると」
「うん?」
「逃げたくなる」
「それは、困ったな」
掴まれていた腕が下ろされるように離された。だったら、逃げればいいと、そういう意味に捉えて、思わず俯いてしまった。そんな意思表示をした手前、どうしたらいいか分からず、もう逃げてしまいたくて後退りする。
そしたら、そっと顎を掴まれて顔をあげさせられて、唇を押し付けられた。吸い付くように食まれて、零した息すら飲み込まれる。
反射的に腕が、押し退けようと彼の体を押すが、力が入らない。苦しくて、頭の中が痺れて、おそろしくて堪らなかった。
項を軽く引っ掻くようになぞられて、緩んだ口の間から、ぬるりと何かが入り込んできた。逃げたい体はもうしっかりと押さえつけられていて、抵抗出来ない。
「ん、ぅ……っ」
乱暴な動きではない、けれど、殊更丁寧に、確かめるように、貪られている。歯列をなぞって、歯茎を撫でられて、逃げる私の舌を追いかけて、絡めてくる。
震える体を抱き締められて、涙もぼろぼろ落ちて、やめてくれない。酸欠に喘ぐ呼吸を聞いても、離してくれない。
酷い、全然優しくない。唾液を啜る音が、ずっと耳の奥で響いている。まるで、ただの獣みたいだ。美しさの欠けらも無い、飢えを満たすだけの何かだ。
「は、ぁ……。大丈夫か?」
しばらくして、冷たい空気が体内に入りこんだことで、終わったことに気がついた。赤い瞳の奥のどろどろしたものは、ひとまず落ち着いたらしい。
私といえば、汗と涙と、唾液でべたべたで、何も大丈夫ではない。体の中は熱が渦巻いているようだったし、力も入らない。
「逃げる気は、もう無さそうだな」
にっこりと笑うさまが少し恐ろしい。
それならば、良かったと、キスを額に落とされる。それから、懐から取り出したハンカチで顔やら首やらを拭ってくれる。太陽は、すっかり落ちていた。
+++
夜の空気に熱が冷めた頃、冷静になった頭の中は後悔でいっぱいだった。膝を抱えて俯くと、グ・ラハ・ティアは私の隣に移動して、座り込んだ。
「この色男め」
「あー、……悪かったとは思っている。けれど、私とあなたの間にある、何かが遠くて神聖なものという感覚を無くすのには手っ取り早いと、思って」
「何か清らかなものに泥を塗ったのは、お互い様、か。私も悪かったよ」
求められた英雄のままでいたかった。ずっと抱え込んでいただろう憧れを、大切にしてあげたかった。神聖化されていそうな英雄像を、少しずつ、小さな失望と共に和らげて、元通りの、あの頃みたいな関係に戻してやろうと思っていたのに。なんともまあ、強引なやり方で、両者共々地に叩き落とされたものだ。
「仲間の距離なら良いけれど、あんな、遠い何かを見るような顔されたら焦るだろう。折角、手が届いたというのに」
「グ・ラハは、私に、憧れとか、仲間意識とか、そういうものしかないって思ってた」
「それはまあ、概ね正しいが……。でも、あなたならそれでも構わないんだ」
「流されてもいいってこと?」
「そうではなくて。何でもいいから、近くにいたいということだ」
ああ、なんだろう、この空気は。あまりに良くない。互いに黙り込んで、静かになってしまえば、街の人々の賑わいが、ここまで届く。
顔が赤くなっていないだろうか。じっと見つめてくる赤い瞳が、少し怖くて、顔を正面に戻すと、思わず両手で顔を覆った。
「水晶公」
「うん?」
「……悔しいことに、惚れちゃいそうだ」
横目で彼を見れば、驚いたように目を瞬かせ、その後照れたような顔になる。
「それは……、光栄だな」
明日からはまた、今まで通りの二人になれたらいいと思う。だけど、無かったことにもしたくはない。なんともまあ強欲でままならないものだ。変わらないものを求めているし、それだけでは物足りなくなる。
「この後、用事は?」
「いや、特にはないよ」
「だったら、デートしよう。酒場で一緒に飲んで、部屋まで送ってほしい」
「え、ええと……、それは、デート、なのだろうか」
「さあ。経験がないから、何もわからない」
立ち上がった彼がこちらに手を差し伸べて、手を取って引き上げてもらう。当然離されると思った手を握り直されて、驚いていると、デートなのだろう、と。
「そういう関係だと、誤解されそう」
「ああ……、それだと少し、気まずくなりそうだ。では、人の気配がない時だけ」
+++
如何にも、古くからの友人というような距離感で、酒場に行き、特に希望もなかったからワインボトルを一本と、少しサイズの控えめなフルーツの盛り合わせを貰って空いている席についた。よくお世話になったイシュガルドの酒場とは違って、立ち飲みではないのが、疲れている体には優しい。
「コルクを開けるのが好きなのか?」
「飲み物に対するトラウマ的な。私だけなら良いんだけど、今日は二人だから、念のために」
「そうか」
「グラス、一度私が使っていい?」
「あなたが安心できるまで、なんでもしてくれ」
分かっている。それだけでは、遅効性には対処できないことも、その言葉が出た時点でなんの不安要素もないことも。彼のことだ、少しでも危険だと思えば、私が毒を呷る真似を許さないだろうことも。
グラスに赤いワインを注いで、飲み干す。一応口を着けたところは指先で拭った。
「ここに口付けたから」
「今更気にすることもないだろう」
「そ、そうだけど」
ワインを注ぎ、軽く乾杯をして二杯目に口をつける。どちらも大人だったのに、あの頃は一度も一緒にお酒を飲まなかったなと思い返す。
語る内容は取り留めもなく、今までの旅の話や、仲間たちの話だ。居心地がよかったし、これが正しい私たちの形かもしれないと、先程が異常だったのだろう。
瓶の一本が空になり、皿のフルーツが無くなる頃には、緩く酔いが回りきって、とても眠たかった。そろそろ切り上げようと、立ち上がれば、体がふらふらとしそうだ。意識すれば大丈夫だけれど、それよりも先に、グ・ラハが私の腕をとった。
「肩を貸すよ。部屋まで送る」
「高さがちょうどいい」
「まあ、背丈は同じくらいだから……」
少し甘えが滲み出て、彼が支えているからいいかと、ほんの少し、眠気に身を委ねた。苦笑する気配がすぐ側にあって、かけてくる声も全部知らないふりをして、のんびりと私の借りている部屋まで向かう。途中で階段を昇って、ドアを開けた彼は、少しだけ悩んでから、部屋に入った。
「水とか、欲しいものは」
「大丈夫。ありがとう」
私をベッドに座らせてから、そそくさと立ち去ろうとする薄情者の腕を掴んだ。
「最後、に。もう一度、キスをして欲しい」
「……今日は、もうしない」
乗ってこない気はしたけれど。気にした素振りを見せれば、彼にも気を使わせそうだなと、そうか、といつもの顔で頷いて見せたら、少し焦ったように両肩を掴まれた。
「グ・ラハ?」
「あ、あなたが、それを言うのには多少なりとも勇気が必要だっただろうし、嬉しかった、けど……、最後、は嫌で、これ以上、は。ごめん、優しくしたいから、だから」
「ハグしていい?」
「はあ?! ちょっと、オレの話聞いてたか?!」
「昔の君みたいで、可愛いなって……」
「なんだよそれ……」
隣に座って、ぐったりと、私の肩に頭を預けるように項垂れてきたので、了承ととってその背に腕を回す。あと少しでも間違えたら最後、このまま押し倒されそうだなんて、経験が無くとも察せられる。あくまで、子供をあやすように頭を撫でて、背を軽く叩く。
しばらくして、少しくぐもった声が聞こえてくる。
「きっと、こういう雰囲気に、自然にはならないのは分かるよ。だから、冒険とは別に、デートに誘わせてくれ」
「分かった。待ってる」
「あんたは、オレを冒険に誘うんだからな」
「はいはい。任せて」
離れたのはグ・ラハからだ。私は抵抗せずに彼を解放して、何となくじんわり熱を持った雰囲気から目を逸らして、最後に少し、あの時の彼をして見せてくれた水晶公を見送った。
正直、デートについてはあまり、期待していない。冷静になってしまえば、彼にその気は無くなるような気がする。そうでなくても、刺激的で困難も溢れんばかりな日々なのだから、それ以上の何かを求める余裕なんて。
+++++
2
結局予想通りであった。あれ以来、そんな話にはならなかった。ただ、少しだけ遠かった距離が近くなったとは思う。それだけで充分ではあったけれど。
原初世界に戻ってきてから暫くは、そこまで忙しくはなく、代わりに皆一緒にいたから、楽しくて、こういうのが欲しかったんだよなと、私も、きっと彼も
そう思うほどに、あの約束は果たされなかったし、今を受け止めるのに精一杯で、やっぱり余裕なんてなかった。
そもそも、グ・ラハは私に恋慕の感情は持っていない。あの日以来、私が一方的に意識してしまっているだけで、私たちの間にそういう何かはない。強いていえば、片思いだ。その上、多分、彼が、いざそういう相手が欲しいと思った時に、一番に候補に入れてくれる気がするし、私がそう望めば応えてくれる気もする。それならまあいいかと、必死に縋る気も起きず、意識させたいという欲もなかった。
もちろん、そのまま、誰か別のいい人と巡り会ってしまう可能性だってあるが、それは仕方がないことであり、ある意味、最善だろう。私の傍らに私達なりの正義と戦いはあっても、安らぎや、安定は無い。幸せにしてあげられるとは思えなかった。帰る場所や安らげる相手が見つけられたなら、安心して彼を冒険へ連れ回せる、とも思ったくらいで、本当に。私はそれで満足のはずだ。それ以上は、彼には、重たいだろう。もう、これ以上私の存在を、命を、背負って欲しくはないのだ。
「ジル、ちょっといいか」
「どうしたの」
「その、あの約束は、まだ有効だと思って良いだろうか」
「冒険の約束?」
「で、デートのほうだ」
「ああ、うん。もちろん」
「やっぱり、有耶無耶にする気だっただろ、あんた。そういう奴だよな、本当に……」
「ごめんって」
「それで、その。デートという程のことでは、無いんだけど、オールド・シャーレアンに行く前に、少しだけ。時間があれば」
「うん。いいよ」
+++
馬鹿の一つ覚えのように、ワインボトルを一本と、グラス二つを持って、人気のない場所を探し歩いて、結局、クリスタルタワーまでやってきた。
「このままだと、デートがサシで飲むって意味になりそうだね」
「また余裕が出来たら、サンクレッドにでも相談してみる」
閉じたドアの前に二人で座り込んで、青白い光の中で、ランタンのあかりだけが赤い。ツマミは干した果物と、串焼き。乾杯して一杯は一気に呷った。
「君がここで、眠ることを選んだ時、私はさして、寂しいとは思わなかったんだ。人との出会いも別れも、旅をしていく中ではよくある事だったから」
「ああ」
「だから、きっと目覚めた先で、また色んな出会いをして、別れを告げて、そういう、君もまた旅人なんだろうと。それがまさか、ひたすら時の彼方から私を追ってくるなんて」
「オレも。あれで、別れだと思った。別れの瞬間は寂しいものだけれど、目覚めた先で、あんたの冒険を知れたら素敵だと思ったし、その先の世界にも興味はあった」
「君が、憧れた英雄は、物語の中にしかいないかもしれないよ」
「物語よりも人間味があって、オレは好きだ」
「……そう。どんな風に書かれていたんだか」
「語ろうか? 全部覚えている」
「え、聞きたい」
「よし来た、何がいいだろう。書籍化していた定番のものより、人々の中で語られていたものの方が、幾分か大袈裟で面白いかもしれないな」
それから、ワインをお供に彼の語りを聞いた。覚えのある冒険から、そんな大袈裟な話ではないはずだと言える脚色の入りまくったものまであって、時折笑いを噛み殺しつつ、数年ぶりだという唄も、聞き心地の良いものだった。
ボトルが空になってからは、酔いが回ったまま彼の肩に寄りかかって、ぽつりぽつりと、言葉に、言葉を返すことを繰り返している。あまり、内容に意味は無かった。
口付けのひとつくらい、迫られることは覚悟していたけれど、素振りは見せなかった。ただ、手を握られて、握り返しただけだ。グローブ越しに手のひらが熱くて、なんというか、気恥しさに堪らなくなった。焦らされるような距離感が、だけどどこか丁度いいのだ。
「あのさ」
「うん?」
「色々一段落したら、私も、詩を練習してみようかな。英雄が歌う英雄の詩に興味はない?」
「ある! すごく最高に聞きたい。楽しみだな」
握られた手が持ち上げられて、隣を見ると、目が合った。そのまま、グローブから出ている、指に口付けられて、呆気に取られた私は間抜けな顔を晒したことだろう。
「……惚れちゃったらどうするんだ」
「そしたら、責任はとる」
「なんでこんな目にあってるの、私」
「男女の距離感ほど、難しいものは無いだろうな」
「すごく、難しい。どうしよう、私たち」
「オレは割と、あんた次第だ」
「ずるいなあ」
けらけらと笑って、そしたらもうお開きだ。ここからでたら、次はあるのか無いのか。彼の曖昧な感情に、あまり信頼ができない。どこかで恋なんて落ちてしまえば、きっとこの曖昧で擽ったいような関係はおしまいだろう。
+++++
2-5
「あんなにも、英雄と呼ばれることを嫌がっていたっていうのに、あいつのは良いのか?」
「あいつ? ああ、グ・ラハ・ティアのことか」
晴れてなのか、挙句の果てに、なのか、とうとう暁の仲間入りを果たした我が相棒ことエスティニアンが、満を持して問い掛けてきた。サベネア島にやってきて、下ろしていた髪を縛った姿は少し物珍しい。縛ってる方が良い、絶対。
私達の話を聞いて、え、まじかよ、みたいな反応をするサンクレッドは確かに度々私を英雄と呼んでいる。
「彼の言う英雄は、なんかすげー強いやつで、色んな冒険をしてるやつで、物語の主人公って感じ、だからかな。なんかこう、受け入れられるんだよね」
ちらりと隣に目を向けると、しかめっ面のサンクレッドとウリエンジェがいる。エスティニアンは愉快そうにニマニマしていて、全く、性格が悪い。
「あー、その。あのだな」
「サンクレッドのは、というかみんなが言うのは、うちのエースってくらいのノリだと分かってるから、気にしてない」
「ああ、それなら良かった」
「今はね。前は色々思うとこはあったよ」
もちろん、そいつの相棒と言われるだけあって、私も性格には難がある。
「ほう? せっかくの機会だ。ぶつけてやったらどうだ」
「聞く?」
「……ここは、謹んで拝聴すべきかと」
「覚悟を決めるぞ」
「いや、そんな重い話じゃないけど。とりあえず前提として、最初の頃の話であって、今は受け入れてる。何かを正して欲しいとも変えて欲しいとも言っていないってことは理解してほしい」
立ち話もなんだと、エーテル酔いで世話になったベンチに移動して座る。どこから話すか、と考えてみるけれど、そう長々と話すことでも無いし、簡潔にまとめて話そうと決めた。
「君たちも、手段を選べなかったんだろうとは、なんとなく理解はしてた。言い方が悪いけど、私は、都合のいい駒だったんだと思う。対蛮神用の兵器なんだろうなあ、私の意思はどうでもいいんだろうな、みたいなさ。とはいえ、戦うこと自体には文句は無かった。それに、身内も記憶も無かったから、そのまま使い潰されてもいいか、とも考えていた」
息をつく。とはいえ、それでも、彼らは人が良かった。まだ駆け出しの冒険者の私が、不便しないよう、出来る限り傷つかないように、知らないことは教えてくれて、出来る限りは手を貸してくれて、進む先を示して、ただ、退路は無かった。本当に、フレイが言ったように、この大陸から逃げ出す以外には。
「……記憶が、無かったとは、初耳でした」
「私個人について、聞かれることもなかったからね。ああでも、アルフィノは知ってるよ。私の知識に偏りがあることが気になったらしい。他の人達は……気遣って言わなかったか、気にもとめなかったかは、知らないけど」
心底苦しげに呻くサンクレッドに、思わず笑いを零し、苦い顔のウリエンジェには、気にするなと、言っておく。
「……別に、英雄になんて、なりたくなかった。そんなふうに呼ばれたくなかった。だって、私は言われるがままに戦っただけで、何もしてないのに。色々頑張ってたのは、みんなで、だから分不相応だって。なのにどんどん祭り上げられていくようで、怖かったな」
地面から視線を上げて隣を見ると、酷い顔色をした男が二人いた。悪い事をしたかなと思う反面、多少のいい気味だ。
「気は晴れたか、相棒」
「二人の様子を見ると、充分すぎるくらいだよ」
「それは何よりだ」
薄情なエスティニアンに、苦笑を零し、乾いた喉に、さ先程のアームララッシーの残りを流し込んだ。さて、そろそろ休憩はおしまいだ。
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3
エルピスにいる間に、どれくらい時間が経ったのかよく分からないが、その間にも何やら色々あったらしく、そのままガレマルドへ飛んだ。
間に合ってよかった、いや間に合ったわけでは、無いけれど。皆は無事でよかっただなんて、死んでも口には出来ないけれど。ひとまずキャンプ・ブロークングラスへ戻ることになったが、彼らのそばを歩いて戻るだけの、余裕が無いことに気がついた。色々あって疲れてるというか、まあ色々。
各々、話をしながら歩き出すのを、眺める。当然、いつものように、ついてくることを疑ってもいないのだろうなと、ぼんやり考えながら、立ち止まったまま。エスティニアンはこちらを一瞥したが、私の反応を見て、肩を竦めはしたが、声はかけて来なかった。
少し後から来たフルシュノさんには、しんがりをするので気にするなと伝えた。
「参ったな」
ふかふかの雪の上に倒れ込むと思いの外、冷たくて気持ちがいい。こういう時は頭を冷やすのが最善だ。空は赤く、終末の流星が降り注いでいる。もし、私一人だったら、抗うつもりもなく、終わる世界を眺めて終わっていたような気もするし、それでも目の前の惨状を放置できず、闇雲に武器を降るっていた気もする。
そんなことをしている場合ではないのは分かっているが、休む間もなかったんだ。ほんの一瞬息を抜いても許されるのでは無いだろうか。目を閉じると、そのまま眠りに引き込まれそうな気がした。
「いいから、早く! ケアルよ!」
雪を踏みしめる足音が二人分。それから暖かい魔法が二回分飛んできた。それが全く無意味なことを知っている。目を開くとほぼ同時に、腕を掴まれて引き起こされた。
「大丈夫か?」
「大丈夫なわけないじゃない! 倒れてたのよ!」
なお治癒魔法を重ねようとする二人を慌てて止めると、ようやく私が全くの無傷、というより、あった傷はとうに癒されていることに気がついたらしい。
「どうかしたのかって、驚いたじゃない……」
「ごめん」
「いいわよ。元気なら」
だったら、これからどうするか、移動するにしてもどうにも疲れているようだし、だなんてことを、二人して話し出すのを見て、もう一度地面に寝転がった。
息のあった良いコンビだ、アリゼーもグ・ラハも、とても強くて優しくて、いいな、こういうの。
「二人は、先に行ってて、いいよ。ちゃんとすぐ行くから」
「オレとアリゼー、どちらの方が気が楽だ?」
「え?」
「疲れ切ってるあなた一人、置いていくわけないじゃない。少しくらい、息を整える時間くらいはあるわよ」
「だが、三人戻ってこなかったら心配されるだろうから、オレたちのどちらかが先に戻って、言い訳しておく」
「じゃあ、アリゼー」
「えっ、私?」
「わかった。でも、もしも何かあったらすぐに連絡してくれ」
驚いた顔のアリゼーと一緒に、グ・ラハを見送る。傍らに座っている彼女を見上げると、こちらを見下ろしてきた。
「ラハじゃなくて、良かったの?」
「どうして?」
「好きなんでしょ。分かるわよ。あなたの事、ずっと見てきたんだから」
「アリゼーのことも、みんなのことも、愛してるよ、私」
「そ、そういう話じゃなくて……。分かってるわよね」
「うん」
苦い顔をしたアリゼーが、呻くように息を吐き出した。上半身を起こして、みんなが向かった方向を眺める。
「君たちは、いいコンビだと思うよ」
「……言っとくけど、そういうんじゃないわよ。ちょっと、無言で微笑むのはやめてよね!」
別に、彼女たち二人だけではない。何となくみんないい感じに息もあってきていて、そこに私は一人だなと思うと、何となく、寂しいときがあるのだ。分かっている、私はどこでだってやれるから、求められた場所で戦う英雄であって、私の感覚に、息を合わせてくれた結果がどうなるかということも。彼らは私が動き回れるよう、連携して、なんとか支えてくれているということも。傍にくっついていることが、共に戦うことではないということも。
「でも、よく一緒にいるよね。実際、どうなの?」
「どうって。あなたに誤解させたままだと、そのまま見守られそうだからいうけどね。同類なのよ、ラハと私は。進みたい方向が似ているから、追いたい背中が同じだから、結果、並んじゃうのよ」
「そうなんだ」
「もちろん、あなたを差し置いて、って気持ちが過ぎったこともあるわよ。でも、進もうとすると、いっつもあいつがいるのよ! だから、絶対、そういうんじゃない! ちゃんと理解した?」
だから、やっぱりそんな彼女たちを守りたいし、期待には応えたい。英雄という貼られたレッテルの通りに、たくさん殺して、困難を乗り越えて、託された思いを背負って、世界だって救ってみせる。その為に、この命を使うべきだろう。
「でも、それならそれでも、いいと思うけどな。価値観が合うってのは大切だよ」
「ああもう! 私もラハも、あなたを追ってるって言うのに。薄情よ」
「ごめん。でも、だとしたら、それが故に、私の片思いだからいいんだよ」
「そんな、嬉しそうに言わないで。あいつのこと、ぶん殴ってやりたくなる」
「許してやってよ。その事で傷付いてるのは、多分、私じゃなくて、グ・ラハだから」
どういう意味だと聞くアリゼーには、答えなかった。
代わりに、ぎゅうっと抱き締めてあげれば、抵抗はされなかったけど、装備が痛いと呻かれた。
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4
手を貸してほしいと言われた時、果たして私で大丈夫だろうか、知識やら何やら、頭脳が必要なことは、彼らほど得意ではない。というか、彼らといると、自分が愚か者に思えてくるほど、知識人の集団なのだ、だから賢人なのだけど。それでいて戦える彼らは、天才と秀才の集りという訳だ。必要な手が戦力で良かった。
魂に性分、素質だったり、性質だったりそういう物があるのだろうと言うのは、私も少し考えたことがあった。同じ魂を分け合った私と、アルバートは同じように冒険者となって旅をしたし、同じく光の戦士と呼ばれるものになった。その魂のもとが、おそらく、エメトセルクたちの言うアゼムで、その人物も旅人であったらしいから。
「ごめん、グ・ラハ。少しだけ、甘えたことを言ってもいい?」
「ああ、どうした?」
「どう言えばいいかな。ええと。私なら、私達ならなんとかできると、楽観的な根拠の無い自信のようなものもあるんだけど、それでも、ずっと、思ってることがあって」
言わない方が良いのでは、彼に対しては、特に。言ってもいいのか、どうなんだろう。今はただ、みんなの希望になれる、英雄でいるべきなのではないだろうか。
傾聴の姿勢をとっているグ・ラハの視線は優しい。
「やっぱり、いいや。なんでもない」
「オレは大丈夫だから、話してくれ」
「中途半端にしたのは悪かったけど、また落ち着いたらにしよう。やっぱり、いま話すことでもないって言うか」
「無理に聞き出す気は無いが、それで気が楽になるなら、やっぱり言って欲しい。それにここまで言われたら、気になって身が入らないっていうか……」
「それは、そう、だよね。うん。分かった」
取り敢えず、少し時間がかかりそうだと判断したのか、私を手招いて階段に座らせると、彼も隣に腰掛けた。人工太陽の陽射しは、自然のものではなくともどこか柔らかい。
言葉を選び始めた私を静かに待っていてくれる。自分よりずっと大人みたいだ。実際、精神の方はそうなのだろうけど。それが少し寂しいし、安心感があった。
躊躇いが喉を震わせるが、私は口を開いた。
「英雄は、いつでも、誰よりも多く殺し、困難から皆を守る正義と希望の象徴だ。それ故に、そう呼ばれた人が、戦いの最中に散ることも多かったんだろうと思う」
「……記録上は、そうだろうな」
「私は皆に、英雄と呼ばれることを今は、誇りにさえ思ってる。求められるなら、必要なら、そうして見せる覚悟も、もう出来ているつもり。だけど、グ・ラハ。私は、死にたくないし、やっぱり怖い」
言ってはいけない言葉を、吐き出した時の罪悪感に似ている。思ってはいけないことを、思ってしまった時の動揺に似た感情が、私を満たしていて、どうしようもなかった。フレイが呆れて私を見ている気がする。恐怖も苦しみも、受け入れて進んで、それでもやっぱり、誰かと分かち合いたい甘えがあった。一人で腹の底で燻らせておくにはあまりにも重かったし、きっと一人で抱えられるけれど、出来れば、誰かに知って欲しかった。
「でも、自分が死ぬより、皆を守れない方が、ずっと怖いんだ。だから、戦ってる。私は、皆みたいな大層な正義を、優しさや慈しみを、託された思いを掲げて戦えるほどには、強くないんだと思う。いつだって誰かを失うのが怖くて、貰った思いに縋って、もうあんな思いはしたくなくて、戦ってる」
情けない気持ちで吐き出した声は、案外平坦で、我ながらに淡々と事実だけを述べているようだった。
取り繕って強がって見せたって、やっと手に入れた気がした居場所を守るので精一杯なのだ。皆が困難にぶつかり、乗り越え、強く前へと進んでいくのを、少し後ろで、時に隣で見てきた。きらきらと輝いて眩しくて、いつもどこかでそんなふうに思ってしまう。
グ・ラハは、呆れもせず、笑いもせず、私の言葉を受け取って、至極真面目な顔で言った。
「なあ、それって凄いことだろ。自分と同じかそれ以上に、皆が大切で、守りたいってことだろ。理屈で固めた決意や正義なんかよりずっと、強くて揺るぎないと思う」
頷きもせず、その言葉を聞く。一見したら綺麗事のようにも、都合がいい言葉を並べているようにも聞こえるそれらは、だけど、他でもない彼の言葉だから、本心なのだろうと分かる。
「あんたは、それを恐怖だというけど、それはさ、皆が幸せであって欲しいとか、笑っていて欲しいとか、そういう思いの裏返しなんだよ。だから、それが奪われそうなら、なりふり構わず立ち向かう。あんたは、強いよ、強いし、優しい。オレはそう思う。本当は、自分のことも二の次にはしないで欲しいけどさ、もし自分を守ることを忘れて、蔑ろにしそうになっても、オレたちがいるから、大丈夫だ」
それから、と。
顔をあげて隣に視線を向けると、真剣な顔から一変、心底嬉しそうに破顔して、彼は言った。
「話し相手に、オレを選んでくれてありがとう」
呆気に取られて、そのあとなんだか気が抜けた。なんだそれ、聞いてくれて感謝するのはこちらだろうに、変な人だ。
「こちらこそ。聞いてくれてありがとう」
それから、ふと思い出して、懐から取り出したものを、差し出す。よく分からないまま受け取る姿勢をとったグ・ラハの手のひらに置いた。
「関係ないけど、話のついでに。これを君に渡そうと思っていたんだ」
「鍵?」
「イシュガルドのエンピレアムに、アパルトメントがあって、そこの一室を借りているんだ。それの、鍵」
困惑した表情で、鍵と私を交互に見るグ・ラハは、どうにも状況が飲み込めていないらしく、戸惑っている。突拍子もないのは重々承知のうえ、この先タイミングは無いかもしれないから仕方なかったのだ。
「読書好きだったよね」
「ああ、うん」
「私の部屋ではあるけど、本があって。ちょっとした書庫の鍵だと思ってくれたらいいかな。冒険と英雄の物語が多いんだけど、よければ」
「あんたの、部屋?」
「要らないなら、返してくれていいけど」
手のひらに乗せていた鍵を、ぎゅっと握って手を引いた。返す気は無いらしい。取り敢えず無くさないようしまうのを待って、私の用事も済んだことだから、リトル・シャーレアンに戻るかと、立ち上がろうとしたところで、待ったをかけられた。
「……不用心過ぎないか?」
「盗みを働くやつじゃないだろう。君は。ああでも、気に入った本があったら持ち出してもいいよ。そうだな、さっき話を聞いてくれたお礼ってことで」
「そうじゃなくてだな……。他に鍵を渡したやつは?」
「いないよ」
「じゃあ、オレだけにしてくれ。他に部屋とか家とかあっても、絶対、オレ以外に鍵なんて渡さないでくれ。頼むから」
「他には持っていないし、そのつもりだったけど……」
「いいな」
「う、うん。分かった。誓う」
「よし」
私の部屋ではあるが、殆ど物置同然だ。机と椅子とベッドはあるけれど。本棚に入り切らなかった本は散乱しているし、集めた資料も置きっぱなしだ。メモは適当に壁に貼り付けてあるし、お世辞にも綺麗な場所ではない。ありのままの私しかない場所、それがこの部屋だ。
「それはそれとして、どんな本があるか、楽しみだ」
「頑張ったあとのご褒美は、いくつあっても良いからね。気に入るものがあることを願ってる」
+++++
5
未来と、今できること。私は、命ある限り、旅を、冒険を続けるのだろうと思う。だけど、確かに終わりとは唐突に訪れるもので、その時に後悔しても、もう遅いのだ。しておけば良かったこと、言っておけばよかったことなんて、いつでもあって、どんなに尽くしても足りないのに、分かっていても躊躇ってしまうし、タイミングを逃せば、そのままになってしまう。
「寝てるし」
何か言葉を交わせたらと向かった先で、グ・ラハとアリゼーは居眠りしていた。いつだって全力の二人だから、疲れていたのだろう。本当、気が合うというか、仲がいいというか。
「……言いそびれた、か。まあ、それもまた、私だな」
心残りがきっと、果たしたい何かになってくれる。
うとうとと船を漕ぐ二人を暫く眺めて、それから隣に座って目を閉じる。風が、木の葉を揺らす音、遠くに水の流れる音、それから二人分の穏やかな寝息と来た。一緒に微睡んでしまいそうだった。
幸せとはなんだろう。それは、こういう時間を過ごせることとか、だったりするのかもしれない。
+++
ベンチに横向きで寝転んで、薄暗い海と、空を眺めていた。
あの星々はもう、死んでいるというけれど、それでも綺麗だと思ってしまう。
「眠るなら、部屋のベッドの方がいいんじゃなかったか?」
「君こそ。疲れているならちゃんと寝ないと」
「そうなんだけど、あんたが、まだ戻ってないって聞いて。またどこかで、ぼんやり空でも見てそうだと思ったんだ」
草と土を踏みしめる音、目の前に立ち塞がった足と、揺れている尻尾。目の前にしゃがんで現れた、グ・ラハの顔をぼんやり眺める。
「不謹慎なこと、言っていい?」
「ああ」
「知らない場所へ行くのって、ちょっとワクワクするよね」
「分かる。オレも少し、な。不安や少しの恐怖もあるはずなんだけど」
「月に行った時も、そんな場合じゃないのに、心のどこかでやっぱり感動して、ワクワクしてた。本当に、皆大変だっただろうし、心配もかけたし、それに、あんなことになって、止めれなくて。だけど、月から見たこの星は綺麗だった」
「オレも見てみたい」
「終わったら、行けるよ。レポリット達も住んでるし、遊びに行ったっていい」
「そうだな」
「第一世界に初めて行った時も、空が不思議で、まるで夢の中にいるのかなと、思ったくらいに、綺麗な場所だと思った。彼らにとっては絶望の象徴だっていうのに」
「絶望や、悪が、いつだって分かりやすく醜い訳では無いんだ。逆も、然りではあるけどな」
美しくて、何処までも悪を貫いた人を知っている。砂と埃に塗れていても、同胞を守る正義があったことを知っている。
しゃがんでいて疲れそうだから、と座る場所を空けてようと思ったが、私の髪の毛先を触り始めたので止めた。
「あのさ」
「なに」
「あんた、頑なにオレのこと、氏族名と合わせて呼ぶよな。時々フルネームだし」
「グ・ラハ・ティア?」
「そう、それ。アルフィノ達だって、ラハって呼ぶのに、付き合いが長いあんたがなんでそうなんだ?」
「響きが好きだから」
ほんのり拗ねたような気配を滲ませていた彼の表情が、言われた言葉を反芻したあと、困ったように笑った。
「そんなこと言われたら、ラハって呼んで欲しいなんて、言えないじゃないか」
「言えばいいのに」
「あんたも、オレをラハって呼んでくれ」
「ラハ」
「そう、それ」
「グ・ラハ・ティア」
「……ちょっと」
「水晶公」
「あのなあ」
「どれも好きだよ」
「響きが?」
「……そう。響きが」
一瞬揺れた瞳は、どうやらそれを上手く感じとってくれたらしい。真っ直ぐ私を見て、だけどどこか照れくさそうにしている。
「この、人たらしめ」
+++++
6
メーティオンに、花を、届けたかった。
怖い。一歩進むのが怖い。一人、また一人、私たちの背中を押していく。今までだってあった。だけど、いつも背にして見ていなかった、それを目の前に見ながら、それでも一人では無かったから、正しく、英雄として進んでみせた。
一人、皆の前を往く背中を見た。
いつものように、竜に発破をかけるのを、ただ見ているだけだった。
次はあなたなのだと、分かっても止めることは出来なかった。
譲れない信念や思いを、貫くことを、見ていた。
あの日と同じ言葉だった。あの時は多分別れの言葉で、今回は再会の約束だった。
分かっていても、怖い。寂しくて、だけど、多分最初からこうなる気はしていた。
あなたを一人にすることが心配だと、本当はそんな重荷、背負わせたくないと、言ってくれたことが嬉しかった。みんなの思いは重たくて、だけど、絶対手放したくない、ちゃんと守ってあげたかった。
優しいあの子もまた、守ってあげたかった。旅の終わりが、苦しみと絶望だけには、させたくなかった。
+++
まるで一生分の喝采と、感謝を受け取った気分だった。それは私達の家があるレヴナンツトールも同じで、石の家に入って漸く、ある程度の静寂に気を抜くことができた。
前に立つ二人、アルフィノとアリゼーを抱き締める。近付く気配に振り返りかけた二人は、それが私だと気が付くと、とりあえず受け入れる体勢に入っていて、だから二人の腕が、私の背を支えるように触れた。ああ、ちゃんとここにいるな、なんて何度確かめたか、分からないけれど。
「どうしたんだい」
そのまま俯いている私に、アルフィノが声をかけてくる。なんでもないように離れて終わるつもりだったのに、緩んでいた感情が、酷く揺さぶられて、耐えられなかった。
「二人が、私の幸せを願ってくれたことが、すごく嬉しかった。あれが一番ずるい……。あんなこと、いわれたら、いっぱい頑張れる」
「突然、何よ……」
ぼたぼたと涙が落ちて、視線の先の床を濡らした。ぐずぐずと鼻をすする音が耳障りだ。誰かが息をのむ気配を感じる。背中の手が撫でるように動いた。
「私が一番、最後まで無事だった。ちゃんと、無事だったんだよ。だけど、もう、置いていかれるのは、嫌だ。寂しかった。こわかった」
その後はもう、言葉を上手く紡げなくて、一歩、二歩と下がって二人から離れると、皆がこちらを向いていた。そうだよな、そりゃあそうだ。恥ずかしい、だと言うのに、皆の顔を見たらなんだか堪えられなくて、どうしたら良いか分からないけれど、前が上手く見えないし、声は上手く出ないけど、嗚咽に、笑い声が乗って息が苦しい。
「……は、はは、そんなにみなくたって、いいのに」
ふらふらしていたからか、アルフィノに腕を引かれて、椅子に座る。皆集まってきて、誰かに頭を撫でられた。肩に手を置かれた。そうじゃなくてもそばにいて、なんだかもう、本当に、何とかなって良かった。
「まるで憑き物が落ちたみたいに笑うのね」
「というより……、昔のあんたみたいだ。なにか、あったのか?」
思い出すのは、宇宙の果て、夜明けの地平線。
「ゼノスがさ」
「ゼノス!?」
「そう、あいつが、最高の口説き文句と贈り物を引っ提げてやってきたんだよ」
思い返すだけで、あのじりじりと燃え上がるような熱が、再びぶり返す気がする。
友の言葉によって、英雄として立つことが出来た。みんなのおかげでここまで歩いてこれた。その果てで、まさかあんな風に忘れかけていたものを引き出されるなんて、思ってもみなかった。正直な話、あれは、本当に楽しかった。
+++
ああ、もう少しで、皆とは暫くお別れなのか、と。もう会えないという訳では無いけれど、皆思い思いの方向へ進んでいくのだ。ひとりひとり話をして、これは節目、なのだなということをひしひしと感じる。
アルフィノとアリゼーはガレマルドに。サンクレッドとウリエンジェはしばらくふらふらするらしい。エスティニアンは依頼を受けてラザハンへ、ヤ・シュトラは暫くエオルゼアにはいるみたいだ。
グ・ラハは、バルデシオン委員会の再建に協力するとか、だけど冒険には誘うとか、一瞬約束すっぽかされるかと思った。本当に散り散りになって、もう今までのように、何かを皆で一緒になって取り組むことなんて、無いのかもしれない。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「うん?」
「それから、暫くは、その。整理したりなんだり落ち着かないと思うんだけど、落ち着いたら」
「落ち着いたら?」
「えーっと。だから、つまり。デートのお誘いだ」
今までに無いくらい、真っ赤な顔で告げられた言葉にあっけに取られた。今までだって、何度かそういう話をして、でも少し照れるだけで飄々としていた気がする。キスをされた時でさえ、私ばかり動揺していたというのに。
「ちゃんと、相談したし、調べた。そのうえで正直あんたは、冒険に連れて行った方が喜ぶ気もしてる……、してるけど! 最後が嫌だと言ったのは、オレだから」
「もう、忘れてると思ってた」
「それはこっちのセリフだ。どうせ、あんたは、また有耶無耶にしようとしてるだろうけど」
「そんなことないよ。私は割と、君次第だ」
「な……、あんたってやつは」
いつかの言葉を返してやれば、悔しそうに笑う。ずるい私達はそうやって、付かず離れずにそのままどこまでだって行ってしまいそうだ。呆気なく瓦解しそうな不安定な何かが、名残惜しくて踏み出し難いのは確かなのだ。
+++++
7
皆を見送ってから、石の家に戻った私は、皆からの連絡には応えていいけれど、こちらからはしないでくれとタタルさんに頼み込んで、ちゃんと戻るから、少しの間、許して欲しいと、メインに使っていた装備一式とリンクパールを預けて、ローブを羽織って、石の家を出た。英雄はやめて、何者でもない自分で見て回りたいとずっと考えて準備していたのだ。
最初はグリダニア、そこから三国を巡って、クリスタルタワーを見て、イシュガルドへ。ドラヴァニアも軽く一回りしたら、その後はアラミゴ中心にギラバニアの様子を見てから、東方に。次にモードゥナに戻り、第一世界へ。
ただ一人で、時々の買い物と、道中の軽い人助けの時だけ会話をし、あとは一人、宿にも泊まらず野宿をした。あとはひたすら進むだけ。寝ずに進んで朝眠る方が多い。
それから、先にラザハンに行き、オールド・シャーレアンに立ち寄った。このままガレマルドかな、と考えつつ、昼食にラストスタンドに寄り、持ち帰りでバーガーを買って、振り返ると、すぐ後ろにグ・ラハがいた。目が合うと、驚いた顔でこちらを見たまま固まっていて、久しぶり、それじゃあ、と立ち去ろうとすれば、いやいや待て待てと腕を掴まれる。お昼すぎに来たのが逆にまずかったようだ。
彼の後ろ髪を眺めながら、ラストスタンド敷地外まで連行される。立ち止まって振り返った彼は、多少の焦りと安堵を滲ませている。
「今までどこ行ってたんだよ! 連絡つかないし、タタルもどこにいるか分からないって言うし」
「今までって、せいぜい二ヶ月と少しだと思うけど……」
「てっきり行方でもくらまして戻ってこないのかと、心配したんだからな……!」
「あー、……」
「それに、この鍵。合鍵とかじゃないな?」
「ええと、私が持ってると、無くしそうだったから」
「言い訳が下手……」
「嘘が下手な君に言われたくない」
諦めて、ローブを脱ぐ。旅はここまでかな、と思いつつ、そういえば何か買いに来たのだろうグ・ラハを連れて、再び店員に声をかけた。同じくバーガーを買ったので、そのまま店内で食べていくことにした。
「それで。あとどれ位かかるんだ? まだ、途中だったんだろ」
「止められるかと思った」
「別に引き留めはしないさ。ただ、安否不明だと心配ってだけで」
あとはガレマルド経由で、月まで行って終わるつもりだった。なんとなく、肝心なところで遠慮がちなグ・ラハは、微妙に複雑な面持ちで、バーガーにかぶりつく。相変わらず食べるのが下手だ。
このまま、話と食事が終わったら、旅を再開するべく立ち去るのがいつもの私だろう。実際そうするつもりだったのだから。でも、なんとなく、それはしたくない。
別に、これはデートの誘いなんかでは無い。言葉自体は私が果たすべき、冒険の約束を果たすひとつであって、だと言うのに。彼も、同じなのだろうか。何度かくれた約束の言葉も、酷く勇気が必要だったのだろうか。
「君と、一緒に月まで行きたい、んだけど」
ぱちくりと瞬いた瞳が、いいのか、突然どうして、なんて聞きたかったのだろうことを雄弁に語っていたが、言葉を反芻して、全て飲み込んだ。
「ああ、よろこんで」
本当に嬉しい、という笑顔に、堪らなく息が詰まる。ただの冒険とも言えないくらいの旅だ。なのに、ずっと踏み越えらていない一線を、飛び越えてしまったような心地がした。
+++
ひとまず、ガレマルドで夜を明かすことにした。
寒過ぎるのと、一人ではないから、今まで通り野宿、という訳にも行かず、グ・ラハだけキャンプに置いて起きていようと思ったのだけれど、毛布を二枚借りてきたグ・ラハが私を毛布にくるんで、押して、結局室内の片隅を借りることになった。私は背を向けて眠ったけれど、ふと目を覚ますと背中にぴったりくっついていて、抱え込まれるように腕が腹に回されている。
「寒くない?」
「ん、んん……」
もぞもぞと動いて擦り寄ってくるので、項の辺りが擽ったい。この分だと、頭の上まで毛布の中にいるみたいだ。窓の外は、ぽつぽつとあかりが灯っていて、だけど静かだった。多分、その後しばらくは起きていたと思う。ぐっすり眠っているらしい緩やかな呼吸を聴きながら、いつの間にかまた寝ていた。
辺りが少し騒がしくなってきて、それから暖かかった体温が離れたことで、目が覚めた。隣を見ると上体を起こした彼が、大きな欠伸をしたところだった。
太陽の光が似合う人だ。サンシーカーだからだろうか。関係あるのかな。赤い髪が、窓から差した黄金の光に照らされて、キラキラしているように見える。私には少し眩しすぎる。
「おはよう」
反応も適当に、ぼんやり眺めている。そうか、一度髪を解いていたんだなとか、考えながら手を伸ばすと、少し屈んでくれる。毛先に触れてみた。思ったより柔らかい。
「いがいと、長いね。わたしより、長い」
「あんたは伸ばさないのか?」
「楽だからなあ」
寝惚けていると思われてそうだ。その方が都合が良かった。冷静になったら、こんな触れ合いも、夜に抱きかかえられていたことも、気恥ずかしすぎてやってられない。努めて感覚と心を鈍くして、だから私は今、寝ぼけているのだ。
+++
月は、相も変わらず静かだった。この場所に限っては、建物が幾つかと、封印の痕が見えるけれど、それでも、何も無いと思うほど、まっさらだ。距離が掴みにくい。
丘を登って、青い星がよく見える場所を探す。
「色々被って見えるな……、グ・ラハ、もう少し奥に行こう。向こうの建物にレポリット達が住んでるんだけど、あの辺の丘を登れば、アーテリスがよく見えると思う」
通った道を辿って、奥へ。途中で進めなくなって探せば、まだアルゴスはいた。いま思えば、過去に認めてくれていたから懐いてくれていたのだろう。
グ・ラハとアルゴスが見つめ合うのを眺めて、これは、彼と手合わせが必要だろうか、と思ったところで、分身を出してくれる。
少し方向転換して、そのまま丘を登ってもらって、降りると、アルゴスは恐らく、いつもの場所に戻っていく。
この先は、何も無い真っ白な大地が広がっていた。
「……停滞の、光の属性か。だから月は白かったんだろうか」
「ちょっと無の大地に似ているよね」
「それで、あれが、オレたちのいる星。すごく大きく見える」
興味津々で、あちこち見回しては何か考え込んで、ある程度したら満足したらしい。岩の端に座っている私の隣に来て、息を吐く。その後は、しばらくは、星空と、真っ白な大地と、アーテリスを眺めていた。
「オレを、ここまで連れてきてくれて、ありがとう」
「うん」
さて、もうすることは無くなった。私は、満足したから、あとは彼次第だ。隣を盗み見れば、まだ、空を眺めている。瞳に星が映り込んで、きらきらしている。
私は目を閉じて、彼に寄りかかった。それから少しの逡巡の末、彼の手を握った。
「ずっと、あの旅を終えたら英雄なんて殺してしまおうと考えていた」
「……心変わりしたのは、最高の口説き文句と、贈り物のおかげ、なんだろ?」
「ただの冒険者でしかない自分も、ここに居るって気付かされたんだ」
「英雄であっても、あんたはあんただ。英雄としての姿は、今でもずっと、オレのいちばんの憧れだ。だけど、好きなのは、英雄だからじゃない」
それを、言葉通りに受け取っていいのか、何か別の意味なのか。無言で、真意が読み取ろうととグ・ラハを見つめていると、どことなく諦めのような、何か言いたげな表情でまた少し考え込んでから口を開く。
「あんたのことが、好きなんだ」
繋いでいた手が離されて、肩を抱き寄せられる。顔が近くて、真っ赤になった頬が見える。心臓の音がうるさかった。
「伝わっている? ちゃんと。愛してる、オレは、あんたに心底惚れているんだ」
答えられずにいると、再び言葉を尽くしてくれそうな気配を察知して、慌てて頷く。大丈夫、しっかり正しく理解はできている。
「キスを、したい。いいか?」
顔が熱い。頬を撫でた彼の指も熱を持っているみたいだった。いいよ、と呟いて、息を詰めて目を閉じる。唇に柔らかいものが触れて、離れる。優しいそれだけなのは、最初と同じだ。目を開くと、やっぱり優しげに微笑んでいて、それ以上は求めてこない。
「逃がさないって意味?」
「……逃げないで欲しいけど、そうじゃない。オレはあんたが好きで、だから触れたいだけだ。あの時とは、違う」
喉がつまるような思いだ。不安や困惑にも似た感情だ。心の奥底に積もっている、負の感情と同類のような重さのある何かだ。
抱き締められて、身を預けると少し気が楽になった。
擦り寄るように、腕を背中に回すと、彼が息を吐くのが分かった。もっと近付きたいけれど、これ以上はどうしていいかわからない。誤魔化すような笑いが込み上げてきて、耐え切れなかった。喉からくつくつと声が漏れる。それに釣られたのか、同じくこの空気に耐え切れなくなったのか、グ・ラハまで肩を揺らして笑い出して、本当に締まらないことに、甘ったるかった空気は霧散しかける。
そうやって笑って逃げようとした私たちを、だけど、そうなる前に踏みとどまった彼が、再びのキスで無理矢理押し留めた。なんだ、やっぱり、逃がさないって意味もあるじゃないか。
+++++
8
月のような人だと思った。彼女自身は強かったけれど、それ以外は普通の、同年代の女の子だった。ただ、強敵や未知の冒険、それから色んな人々からの想いを受け取った時、きらきらと眩しくて、それはときに、夜を照らす月のようだと思った。ムーンキーパーはみんなそうなのだろうか。朝に弱くて、夜は逆に元気いっぱいに駆け回っている人だった。オレが起き出す頃にやってきて、オレの体温で温まった寝床に潜り込んで昼まで寝ていることもあった。あれはどうやら、オレだからではなく、オレだけが追い出さなかったから、らしい。
全部昔の、彼女がかろうじてまだ、一人で冒険をしていた頃の話だ。
+++
ほとんど最初の頃は、彼女とどうこうなろうとは欠片も思っていなかった。あったのは、百年かけて培った憧れと敬愛と、執着心だ。あの時だって、ただ話を、時間を共にするつもりで後を追ったはずだった。だけど、気が付いたのだ。いま目の前にいる女性は、何かしらの情を、こちらに向けて困惑している。いま、揺さぶりをかければ、手の内におちてくるのでは、と。
手段がなんであれ構わなかった。ようやく出会えた人を、はるか遠くの何かには、二度としたくなかった。愛していない女でも男は抱くことが出来るらしい。その心理とほぼ同義な、彼女にとって、ほとほと最低とも言える感情で、だけど全ての責任を負うつもりで、キスを、したのだ。
だが、彼女は思う以上には聡明で、おそらくは、おおよそ正しくオレの心情を理解していた。ここまで来たなら、おちてくれ、頼むから、そんな宙ぶらりんの関係に苦しめたいわけじゃなかった、あなたに不義理を働きたいわけじゃなかったんだ。測るような距離感と、時折遠慮がちに向けられる視線が擽ったくて、痛かった。大切にしたい人だというのに、人生をかけたっていいと思える相手なのに、何がどうしてこんなことになっているのか。
付かず離れずの距離が、心地よいと思いたくはなかった。だけど、ずっと心に描いていた憧憬は、どちらかといえば、これに近かった。
ずるずると続く曖昧な関係の中、じわじわと心を奪われていく感覚に、己の単純さが恨めしかった。目の前にいて、その背を追って、憧れが募る、もっと近くに行きたいのだと焦って、向けられる言葉や、表情が、ひどく心を穿つのだ。色んな感情がまぜこぜになって、その中に確かに恋心があった。それに気がついた時、そんな都合のいい話があるかと、酷く混乱して、それから。そうか、揺さぶりをかけられているのはオレもなのか、と。
遠回しな好意の滲む言葉と、人より一歩先を許された距離感。
応えたい、応えねば、と。恋心と同時に義務感が、己を冷静にさせる。約束の、誘う言葉は、ときめきとは別の意味で心臓を高鳴らせて、誘いに乗ってくれ、断らないでくれという願望と、この恋を成熟させないでくれ、オレにはそんな資格はないのだと、そんな混乱した内心が息苦しくて、誰かに溺れるというのはこういう心地なのだろうかと考えさせてくる。
あの人がふらりと姿を消したとき、逃げられたのかと思った。行先も分からず、半ば衝動的に、貰った鍵の部屋を開けに行って、そこで初めて、合鍵ではないと知った。部屋番号が分からず、ロビーで聞いたら話が通っていて、いっそ恨めしいくらいだった。入った部屋は、なんというか、あらゆるものを詰め込まれて、まるで倉庫だ。
一番奥の窓際にベッドがあって、しかしその上にまで書類が散らばっている。走り書きのメモが至る所に貼られていて、集めたらしいぬいぐるみが幾つも並べて置かれている。ワインの瓶が何本もストックされていて、中には空き瓶も混ざっていた。
イシュガルドと、クリスタルタワーの絵が飾られていた。仲間たちの絵が飾られていた。開けられていない手紙が置きっぱなしになっている。使い古した武器が、処分する手間も惜しんだのか、部屋の隅に積まれていた。
あの人の部屋だ。それも、人には見せない、可愛い部分もだらしない部分も何もかも雑然と詰め込まれた、空間。オレに見せるのは良かったのか、見せていいと思ったのか。そう思い至って、オレ以上に回りくどい不器用さが、何もかも、オレの気持ちなんてどうでも良くなるくらい、堪らなく、愛おしくなって。
それから、そう、再会して、あの言葉だ。一緒に月まで行きたい、と。だからオレは、応えた。