自分の心の問題だ、自覚はあった。
感情の起伏が緩やかになっている。悪く言えば鈍い。フレイは、それ見たことか、と少し悲しそうに吐き捨てて、あなたの悲しみや苦しみはきちんとここにあるから大丈夫だと言った。
きっと疲れてしまったんだと、休めば良くなるよと誰かが言った。きっとそうだと思ったし、実際、宙の果てから戻った時より、たっぷり休んで、暫く経ってからの方がずっと良くなった。元気になって良かったと言われたから、元気になったのだろう。丸くなったとも言われた。
みんなには、なんとなく誤魔化せてる気がした。グ・ラハには、誤魔化せていない気がした。
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あれから、一緒に眠ってくれなくなった。ベッドに潜り込むことも許してくれなくて、部屋に入っても少し微妙な困ったような顔をされる。仕方が無いから、返し損なったままずっと持ち歩いている彼のブランケットと一緒に眠っている。
キスすらしてくれない。いや、分かってはいるんだ、友達なんて普通はキスしない。だけど私達にはそれが普通だった。世に溢れる普通なんて、今更何ひとつ私達に当てはまらないのに、突然枠にはめたような距離感を作ってくるようになった。
かと言って、距離を置こうとすれば、定期的に連絡は来るし、いつも通りお誘いがあって、相変わらず一緒に食事をしたり、ちょっとした冒険へ行くこともある。隣に座っていて、手を握られることもあった。そのときのグ・ラハは黙り切っていて、時々何かを視線で訴えてくるけれど、暫くして諦めたよう笑って離れていくのだ。
帰ってきた分館前で立ち止まると、言葉を促すよう待ってくれる。
「グ・ラハ」
「ん?」
「あのね、どうして君が、そんなに頑なになっているのか、分からない」
「……そうか」
「だけど、まあ。色々考えてはみたよ」
オジカに、しばらく一緒にいるから、誰か尋ねてきてもいきなり通さないで欲しい、と告げたグ・ラハは、そのまま私の手を取った
まっすぐ、彼の使っている部屋に連れ込まれて、ベッドに座らされた。目の前に跪いた彼が、私の両手をとって握る。
「オレにしたかったこと、なんでもしてもいいぞ」
「一緒に眠りたい」
「……分かった。後でな」
「それから、隣に座って、話を聞いて欲しい」
「うん」
立ち上がって、腰掛ける、彼との少しの隙間を無理に詰めることはしなかった。
静かに、言葉を待ってくれる空気が好きだ。緩やかに意識をこちらに向けて、でも急かすわけでもなく、口を挟むでもなく、多分思考に半分漂っている私を見て、いつも少し楽しんでいる気がする。
「世界の半分を君にあげたい」
「魔王にでもなるのか?」
「私の世界。それで、君の世界が半分欲しい」
脱力した体をベッドに預ける。天井と、少しこちらを見る彼の背中と横顔が見える。
私の世界は私の世界だ、私の全て、見ているもの、感じていること、思い出と想いと、なんか色々。綺麗なものに、嫌なものも沢山混ざってる。だけど、本当にあげるなら、綺麗な部分だけだ。
「オレの世界の半分は、既にあんたみたいなものだけど。あんたに取られちゃうのか」
こいつの半分は私なんだ。それもそうか、長い時間をかけてくれて、すっかり染み付いてしまっているのだろう。それは、少し可哀想だ。
「……魔王になるから、取っちゃおうかな」
「やだよ。オレの大切なものなんだから」
「でも、私の世界は、半分あげたい」
「あんたの世界にオレはいないのか?」
拗ねたような声だ。
思わず、目を瞬かせて、笑い声が喉から出てきた。不満げに顔を逸らされたので、腕を軽く引いたら、目が合わないままに、横になってくれた。頬を撫でて、額にキスをひとつ。私の言動で、一喜一憂する彼が愛おしい。
「拗ねないでよ。ちゃんといるから。すごくすごく、大切にしてきたんだ。だからこそ、君にあげたい。知って欲しいから」
私の世界には、大切な人たちがどこにでもいる。もちろん、グ・ラハも、世界のいたるところにいる。彼の思いは大きくて、まるであたたかい風や澄んだ空気、柔らかな日差しのようだった。
私の世界は、私の世界でしかない。どうやったってあげることは出来ない。それは分かっていて、それでもそうしたい気持ちは多分、分かって欲しいし、知りたいと言う感情なんだろう。
「なんでもしていいんだよね?」
「良いとは言ったが、なんだ?」
「私も、君の胸を触ってみたい」
「いい、けど……なんで?」
「グ・ラハが。夢中になってたから、楽しいのかなって。あと、ちょっと気持ち良かったから、してあげたい」
起き上がって、いつか彼が私にしたように、上に乗って見下ろす。困惑した様子で私を見ている。
手のひらを服の上から胸に当てる。微かに、脈打つ鼓動を感じた。女の胸ほど柔らかくはないが、硬い訳でもない。緩く揉むように手を動かすと、じわじわと彼の顔が赤くなっていった。
「その。それ、楽しいか?」
「うん。君はどう?」
「……擽ったい。これ自体が気持ちがいいかは、ちょっとよく分からない、けど」
「でも、顔は真っ赤になってる」
「それは、あ、あんたが……」
「私?」
「あんたが、オレに、こんなこと、してると思った、ら。……めちゃくちゃ興奮する、っていうか」
「なにそれ、かわいい」
「……複雑な心境なんだけど」
ごくりと動いた喉仏が気になって、顔を近づける。舐めると小さく悲鳴みたいな声が上がった。緩く噛むと、押し返されてしまう。嫌だったらしく、なんとも恨みがましそうにこちらを見ていた。
彼の手が腰を緩く掴んだ。そのまま身を起こして、手が後ろにまわったと思ったら、私の尻尾を探り当てて掴んだ。付け根あたりと尻尾を撫でられる。
そのまま好きにさせて、彼の髪を触った。思ってるより柔らかいし、三つ編みを解くと少し長い。暫く、髪を撫でて遊んでいたけど、なんか体が変だ。息を吐く。だめだ。縋り付くように身を預けて、耐える。
「分かったことがある」
「え……?」
「ジル、気持ちいい?」
素直に何度か頷けば、尻尾は解放されて、頭を撫でられた。身体の力を抜く。頭を撫でられるのは好きだ。お返しにまた彼の頭も撫でると、耳が下がった。耳も撫でてやると、擽ったそうに、ぴょこ、と動いた。可愛い。噛みたいなと思って身を乗り出そうとしたら、それは止められた。今日は噛まれたくないらしい。
「あのさ」
「なに?」
「あんた、性欲がほとんど無いんだろ」
言われて、まあ、いつかはバレるよなと思った。気付かないままで誤魔化せたらいいなとも思っていた。最初からそうだったわけじゃないはずだけど、いつからかそうだった。ぽかぽかと温まっていた気分が、すっと冷えるような感覚がして、別に、そんな意図はないと分かっていても、責められた時と似たような心地になる。
どう答えたらいい、と混乱しかけたが、なにも言えることは無かった。
「……ごめん」
「オレとする気持ちがいいことに嫌悪感は?」
「ない。というか、好き」
「すっ、……あー、そうか。うん、よかった」
ただ、じゃれてるのが楽しくて、向けられる思いとか温もりが心地がいいだけではあるけれど。
だったら、と。ベッドに転がされて、キスをされた。その後は何をするでもなく、私を見下ろしている。吟味するような瞳が、この前と似ている。大丈夫かな、必要ならきちんと止めてやらないと、また距離を置かれたり、落ち込まれたりと面倒だ。
「グ・ラハ。大丈夫?」
「大丈夫」
「ほんとかな……」
「あのさ、オレに、抱かれることに興味は? 愛とか欲で、めちゃくちゃになってるオレのこと、見てみたくはないか?」
「……それは。正直見てみたい。きっとすごく可愛い」
「か、可愛い……。取り敢えず、それでもいいか」
彼は私の上から退くと、隣に転がった。手を掴まれて隣を見ると天井を見たままぼんやりとしていて、だから私もそうする。どうせ眺めるなら星空や青空がいい。だけど一緒なら天井でも悪くは無い気がする。
「前に言ってたこと」
「ああ」
「……もっと触れたいと思うし、生きていることを実感したい。色んな表情や姿を見たいし、何されたって、大丈夫だって信頼がある、っていうやつ。私もそれには共感してる」
「じゃあ、オレと一緒だな」
「それで、そういうことを満たすための方法が、君にとって抱くことなら、私は君に抱かれてみたい」
静かだった。返事も、相槌もない。
少し待っても無反応で、隣を見ると、顔を見る前に抱きついてきた。胸元に縋り付くように引っ付いて動かないので、受け止めたまま、頭を撫でる。あまりにも静かなので、少し眠たくなってきた。
やがて、動き出して私から離れると、身を少し起こして、私の額にキスをした。すごく優しい笑顔だ。頬は真っ赤だった。
「……取り敢えず今回は、これ以上なにもしない。シャワー浴びて、眠るか。一緒にな」
「うん。もう眠い」
「というか気になっていたんだが、一緒にいなかったのに、何で時々オレの匂いがしてたんだ?」
「ああ、それ。君のブランケットだ。寝る時いつも持ってたから」
ほら、と床に置いたままの鞄から引っ張り出す。これのせいであまり荷物が入らなかったので、この機会に返してしまうことにする。受け取ったグ・ラハは、少し固まって、持ったままベッドから降りて、テーブルにそれを置いた。それから、その場にうずくまると、大きなため息をついた。
「……頭冷やしてくる」
「ごめん。前も言ったけど、君の匂いが好きで」
「頼むから! 少し黙っててくれ……」
「わはは、尻尾がふわふわになってる」
「笑いごとじゃないからな……!」
立ち上がったグ・ラハが、少し乱暴に着替えを持って部屋を出ていった。と思ったら戻ってくる。ドアから少しこちらを見て、少し気まずそうに口を開いた。
「その。怒ってないから。シャワー浴びたら、ちゃんとこの部屋に戻ってきてくれ」
「分かってるよ」
「じゃあ、また後で」
静かにドアが閉まるのを見送る。
彼の足音が遠くなるのを聞いていた。
「もう少し。自分のこと大切にしておけば良かったな」
せめて、せめて彼への思いだけは綺麗に保てておければ。彼のことは好きだ。愛している。それは事実だけれど、記憶にしかない、あの頃の苦しい焦がれるような想いこそが、きっと一番、彼が欲しかったものなのだろうと考えては、少しだけ落ち込む。
打ち明ければ、少し悲しい顔で、きっとあの時の想いも今の私も受け止めてくれるのだろう。だけど、それは嫌だった。今のグ・ラハ・ティアは、今の私のものだ。今の私の想いだけ受け取って欲しい。欠片ですら、あの頃の私にあげたくはない。