「あのさあ、」
一瞬、三ツ谷はその声を、生活音として聞き逃してしまいそうだった。にんじんを切っていた包丁をまな板の上に置くと背後を振り返る。今、この一人暮らしの三ツ谷の小さな部屋には、自身を含めてふたりしかいない。
「なに?」
「あのさあ」
部屋を占領する不釣り合いなベッドに寝転がって、手にした携帯電話から顔を上げずに、灰谷は繰り返した。今度は何ごともなかったかのように、いつも通りだった。先程の、らしくない意気消沈した声は聞き間違いだったか。
異性間でありながら、灰谷とはかれこれ数年、『仲の良い友人です』と言えるような関係性を続けている。見目の整ったこの男はいわゆるセフレと呼ぶような女の子もいるようだが、三ツ谷には関係なかった。二人はただ、こうして定期的に手製の料理を囲むだけの仲だ。
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