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    杏千リレー

    杏千二人でのんびり京都旅

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    杏千リレー

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    ②杏千リレー小説・京都編・一日目2

    #杏千
    apricotChien

    ②杏千リレー小説<京都編・一日目・2>「千寿郎?」
    伺う声と共に、ラバトリーの鏡に杏寿郎が映り込んだ。
    「あ、兄上、お待たせしてすみません。時間がありませんよね」
    千寿郎は慌ててTシャツを整え、しおりのタイムスケジュールを思い出した。この後は、嵐山まで電車での移動が控えている。いつまでも、ここに居る訳にはいかない。
    「焦らなくて良い」
    扉を開けてここから出ようとした千寿郎を、杏寿郎の手がそっと制する。
    「今日は暑いから、また汗をかくだろう。これを着てはどうだろうか?」
    杏寿郎が差し出したのは、ファストファッションの店で売られている速乾性のインナーだった。未開封のパッケージに、千寿郎は目を丸くする。
    「もしかして今、買って来てくれたんですか?」
    「ああ。丁度、駅ビルの中に店があったんだ。色は白にしたが、好みでなかったらすまない」
    「熱い中、わざわざ駅まで戻って…。兄上、ありがとうざいます」
    荷物を最小限に抑えた為、インナーは明日と明後日の分しかない。きっと杏寿郎は、それを見越して買って来てくれたのだろう。まだ始まらない旅の序盤から、迷惑を掛けてしまった。しょげ返る千寿郎に、杏寿郎は快活な声を掛ける。
    「兄の足の速さは、なかなかだろう?」
    冗談交じりの言葉に、千寿郎は一瞬の間を置いてから声を出して笑った。たった数分の間に店の場所を調べ、足を運んで購入し、千寿郎の元に戻る。幾ら足の速い兄でも、かなり急いだのだろう。それを千寿郎が後ろめたく思わぬよう、笑いに変える兄の気遣いには感謝しかない。
    個室に入った千寿郎は、丁寧にパッケージを開けた。日本全国どこでも手に入るそれだが、千寿郎にとって、大切な一枚となった。

    山陽本線のホームには、既に始発の電車が入っていた。
    「千寿郎、こっちだ」
    開いている扉からは乗らず、杏寿郎はホームの先へと進む。
    「嵐山方面へ行く電車は、他の路線との乗り換えに便利な後ろが混むらしい」
    確かに混雑する後方に比べ、前方車両の乗客は程々の人数だった。そこに乗り込み、並んで吊革を掴んで発車を待つ。しかしその間に次々と人が乗り込み、二人の乗る車両も、あっという間に大勢の乗客で込み合った。
    「連休中は結局、どの車両も人がいっぱいだな」
    当てが外れたと、吊革を軽く揺らして苦笑する杏寿郎だが、千寿郎はそこ迄調べてくれたのが嬉しかった。
    静かに電車が発車すると、千寿郎はスマートフォンで時間を確認した。十二時三十三分に京都駅を発車した電車は、四十九分に嵯峨嵐山駅に到着する。予定通りだと、千寿郎はホッと息を吐いた。
    「順調だな」
    「朝、あんな事がありましたが……」
    「旅にハプニングは付き物だ。多少、スケジュールや時間に変更が出ても構わない。千寿郎と二人で居られるなら」
    電車の揺れに合わせ、杏寿郎の手がそっと腰に添えられた。
    「旅行日和だな」
    車外には水色の空が広がる。雲一つない快晴に、千寿郎の心も晴れ渡った。
    「ええ、たの」
    「楽しみだね!」
    千寿郎の声に女性の声が被さった。見れば、目の前の座席に座るカップルが、スマートフォンを見ながら会話を弾ませている。顔を寄せ、絡む指を揺らす姿は、誰が見ても恋人同士だ。
    他人と比べる事の無い千寿郎だが、杏寿郎と恋人になってからは時々だが、世間一般の「恋人」と自分達を比較する事があった。
    兄はいつでも、千寿郎を大きな愛情で包んでくれる。百年も前から抱いて来た思いが成就し、結ばれた自分達の深い愛と絆は、何が起きても揺るがない。そう自負しながらも、初めての恋にはどうしても、不安や戸惑いが付き纏う。
    腰に感じる杏寿郎の手に力が入った。慈愛に満ちた笑顔に、憂いの気持ちが消えていく。
    「もう少しで着く」
    千寿郎は腰を支える手に少しだけ体重を乗せ、兄に甘えた。

    駅舎を出た大通りにも、観光客が溢れていた。向かう場所は皆同じだろうと、二人も列に続く。地図アプリを見ていた千寿郎だが、それを使わずともスムーズに目的地まで進んだ。川路の前方には、ガイドブックで見た物と同じ風景が見える。
    「兄上、あれです!」
    大川に掛かる橋の向こうの連山は、緑の中を黄色、橙、赤と様々な色に染められていた。まさに野山の錦と言える、織物のような豪華な彩。陽の光の当たる明色と、翳る暗色のコントラストの美しさ。雄大な自然は、大きなキャンバスに描かれた絵画にも見えた。
    「千寿郎、一緒に写真を撮ろう」
    山々をバッグに寄り添う自分達に、杏寿郎はスマートフォンのカメラを向けた。
    「兄上、橋も山も入っていませんよ」
    確認した画像に写るのは自分達の顔だけ。折角の風景が入っていないと、千寿郎はコロコロと笑いを零す。
    「すまない。自撮りには慣れてないんだ」
    教師仲間と撮る事は有っても、杏寿郎が写す事は無いらしい。そう言えば、兄が出先で撮ったものは風景か食べ物が殆どで、インカメラで写した兄の写真は見た事が無い。
    「千寿郎と撮りたかったが、格好がつかないな」
    兄の新たな一面を知る嬉しさを感じる一方で、杏寿郎の住む世界には、まだ自分の知らない兄が居る現実に胸がチクリと痛んだ。
    「こうやって…」
    それを隠し、千寿郎は杏寿郎のスマートフォンを上下左右に動かしながら、場所を探る。
    「光の当たり方も、調整しないといけないんですよ」
    「千寿郎は詳しんだな」
    「友人と撮るので」
    ふふっと笑いを零し、定めた場所で千寿郎はシャッターを押した。何枚か続けて撮っていると、突如画面に、杏寿郎に頬をキスをされる自分が写った。
    「あ、兄上!」
    千寿郎は落としそうになったスマートフォンを、慌てて拾い上げる。
    「兄のつまらないヤキモチだ」
    「やきもち‥‥?」
    予想外な行動と理由に驚く余り、千寿郎は杏寿郎の言葉を反覆する。
    「千寿郎が友人達と仲良く写真を撮っているかと思うと、焼けてしまう。しかしキスはしないだろう? 恋人の特権を味わわせてくれ」
    「兄上がヤキモチ…」
    その言葉に千寿郎の顔が、紅葉と同じ赤に染まった。知らない世界に住む兄に感じていた、一抹の不安。
    兄も自分と同じ思いを抱いていたなんて。
    「嬉しい……」
    本音が口を衝く。その真意が分かるのか、杏寿郎は優しい瞳で千寿郎を見つめていた。

    水平を保つ渡月橋の下には、淀みなく流れる桂川が見えた。
    アーチを描く木製の欄干の滑らかな手触りは、多くの人々が壮麗な景色を眺めている内に、ここを撫でたからだろう。緩流は所々で白い飛沫を上げ、ヒドリガモは、対になって川面に流線を描いた。
    徒歩なら二分で渡れる橋を、二人は四方を囲む自然を満喫し、倍以上の時間を掛けて歩いた。渡り終えてから歩く道には、大きな店構えの飲食店が幾つも並ぶ。
    「兄上、お腹は大丈夫ですか?」
    車内で駅弁を食べてから一時間は経っている。そろそろ兄の小腹も空いた頃だろう。
    杏寿郎は、引き締まった腹部を撫でた。
    「あの駅弁はなかなかのボリュームだったから、まだ大丈夫だ。千寿郎はどうだ?」
    「僕もまだ大丈夫です。ランチではありませんが、桂川に美味しそうな、さつま芋のお店があるので、後で行きませんか?」
    「さつま芋か! そういえば、しおりに書いてあったな!」
    「ええ。種類が沢山あるみたいなので、楽しみです」
    大学芋か? それともスイートポテトか?
    杏寿郎が思い付くメニューを上げれば、SNSで情報を得ている千寿郎は「どうでしょう?」と楽しそうにはぐらかした。
    芋談義をしている内に、二人は狭い道に入った。左右にひしめき合う、背の高い竹に囲まれた遊歩道には静けさが漂う。その雰囲気に呑まれ、道行く人も小声になっていた。二人も会話を止め、数百メートル続く、緑の小径を静かに進む。

    「ここが野宮神社です」
    足を止めた先には、荘厳な黒い鳥居が建っていた。
    「素晴らしい。写真で見る以上だ」
    「え、ええ……」
    「この鳥居はクヌギの樹皮を付けたまま作られたので、日本最古のものと言われている。皮の特徴を活かした凹凸が素晴らしいな」
    杏寿郎の目は、鳥居とそれを囲む暖色の葉を楽しんでいる。ここまで来たらバレる覚悟していた千寿郎だが、杏寿郎には鳥居の横にある赤い文字が目に入らないらしい。しおりを見せた時に、その文字を見た事を忘れているのかもしれない。千寿郎はほっと胸を撫でおろした。
    「素敵ですよね。兄上、中に行きましょう」
    写真をと言う杏寿郎に、参拝を済ませてからにしましょうと、千寿郎は先へ急いだ。それに大きな疑問を持たない杏寿郎と、鳥居の前で一拝をし中に入る。厳かな境内に居る参拝者の殆どが、女性だった。自分も彼女達と同じ思いでここに居る。千寿郎の胸が高鳴った。
    手水で手を清めてから参拝した本殿でも、撫でた亀石にも、千寿郎が願った事はただ一つだった。

    「兄上、お守りを見たいのですが……」
    「ああ、行ってみよう」
    意識してぎこちなくなった事に、杏寿郎は気が付いていない。千寿郎は破裂しそうな心臓を必死で押さえて、授与所に向かう。先に来ていた女性たちの波が引き、そこは二人だけになった。
    「交通安全に夫婦守りか。父上達に良いな」
    色とりどりの御守がある中、杏寿郎の目は千寿郎と違う方を向いていた。
    「千寿郎はどれにする? ここに学業は無さそうだが」
    高校生の時、初詣で兄から受け取ったのは「学業成就」の御守。兄からしたら、学生の千寿郎の願いは今でも学問向上なのだろう。
    「いいえ。…これにします」
    そっと手にしたのは、水色とピンクの指輪が赤い糸で結ばれた御守。そこには「縁結び指輪御守」と書かれていた。
    「縁結び…?」
    杏寿郎の眉が微かに上がる。
    「もっと深く縁を、愛を結びたくて……、その」
    黙って聞く杏寿郎の表情は変わらない。千寿郎は続く言葉を飲み込んだ。
    兄は自分を好きだと、愛していると言葉にも態度にも表してくれる。それなのに今更縁結びなんて、兄を信頼していないのと同じだ。
    「あ、す、すみません……。やっぱりおかしいですよね」
    震えながらそれを戻そうとする手を、大きな手が掴む。
    「おかしい事などあるものか。千寿郎……、やはりお前には敵わない」
    「え……?」
    「更なる愛の進展を御守に託すなんて、可愛らしい事を言われたら、益々愛おしくなる」
    「い、今になって縁結びの御守なんて、呆れていませんか?」
    「呆れる訳が無い。千寿郎は俺を思い、ここへ来る計画を綿密に立て、内緒にしていたのだろう? 恋人のサプライズには、心底驚いている!」
    杏寿郎の瞳に、温かな炎が灯る。
    「嬉しいよ」
    喜びを噛み締め、杏寿郎は千寿郎の頬を撫でた。ゆっくり滑る手からは、杏寿郎の鼓動までもが伝わる。
    「千寿郎、俺は連綿と続くお前への愛をこの指輪に誓う。その思いも込めを込めて、兄から愛しい恋人にこれを贈りたい。そして千寿郎からも受け取りたい。互いに交換してくれないだろうか?」
    「……、兄上。も、勿論です……」
    指輪という愛のモチーフを互いに贈り合うのは、千寿郎が密かに願っていた事だった。もしそうならなくても自分で二つの御守を頂いてから、兄に一つを贈ろうと考えていた。
    「兄上、有難うございます」
    渡された御守を、千寿郎は胸の中で抱き締めた。
    「大切にします。ずっとずっと……」

    この神社で願ったのは、兄との愛の進展。強欲だと神様に叱られるかと思ったが、こんなにも嬉しい展開が待っていたなんて。感謝の意を示し、深く頭を下げて神社を後にした千寿郎は、ボディバッグの上からその指輪を撫でた。
    帰り道の竹林を見上げれば、晴れ渡る空が目に入る。爽やかな秋晴れさえも自分達を祝福しているようで、千寿郎の足取りは軽かった。

    「雨‥‥」
    そんな夢現は呆気なく崩れた。千寿郎の腕に水の珠が当たる。小さな雨粒はやがて幾つもの線を描いて、二人を濡らした。
    「千寿郎、これを」
    杏寿郎は手にしていたダークグレーのジャケットを、千寿郎の頭から被せた。
    「兄上が濡れてしまいます。僕も持っていますから」
    「お前のジャケットが濡れてしまう。俺は大丈夫だから」
    雨を避ける千寿郎の横で、杏寿郎は頭から水の粒を受けていた。いくら暑さが残る季節とはいえ、全身を雨で濡らせば、風邪をひき兼ねない。
    常に千寿郎を第一に思う兄。今世では、護られてばかりの弟から恋人になれたのだ。千寿郎は掛けられていた兄のジャケットを杏寿郎の頭にも掛け、二人でその中に籠った。
    「一緒です……」
    「それではお前が濡れてしまう」
    「一人はイヤです」
    「千寿郎……」
    衣類では、男性二人を雨から完全に防ぐ事は出来ない。ジャケットからはみ出した、互いの腕に細雨が流れ落ちる。
    「千寿郎、もっとこっちへ」
    気持ちを汲んだ杏寿郎は、出来るだけ濡らさないようにと、千寿郎の両手を自分の胸の中で抱いた。
    突然の雨に走る人々は、小径の端で頼りないジャケットの中で雨宿りをする二人を誰も気に留めなかった。
    「千寿郎」
    杏寿郎はジャケットを引き、二人の顔を竹林から遮断した。葉を優しく叩く雨の音が、遥か遠くで聞こえる。
    「千寿郎、好きだ」
    誰の目にも触れない、二人だけの空間で杏寿郎は千寿郎に唇を重ねた。今日、何回目のキスだろう。何度しても未だ慣れず、息を止めそうになる。
    「誰よりも愛している」
    杏寿郎の優しい愛の音に、雨の調べが消された。
    「僕も……。僕も誰よりも、兄上を愛しています」
    離れた唇を追い、千寿郎からも口付ける。離れては触れ、何度も繰り返されるキスが公の道で行なわれているなんて、誰も知らない。

    「あれ? 雨止んだ?」
    遠くから聞こえる声で、現実世界に引き戻された二人は、ゆっくりとジャケットを剥がした。秋の霧時雨は数分で止み、空には再び太陽が顔を出す。
    「すみません。ジャケットが濡れてしまいましたね……」
    「こうすれば大丈夫だ」
    雨を吸ったジャケットは秋空の下、バサバサと勢いよく振られ、水飛沫を飛ばした。それでもまだ濡れている。心配する千寿郎に、杏寿郎はいざとなったらコインランドリーを探すからと笑ったが、乾燥機にかけて大丈夫なのかと、別の心配が頭に浮かんだ。
    「千寿郎も濡れただろう?大丈夫か?」
    「はい。兄上のおかげで殆ど濡れていません。ありがとうございます」
    ホラッ!と両手を広げて全身を見せると、杏寿郎の目がまたあの場所に向かった。嫌な予感がした千寿郎は、自分の胸を見る。白いTシャツは雨に濡れ、ピタリと肌に張り付いていた。そこから透けるのは、兄が買ってくれたインナー。おかげで、今度は肌が見えていないが、何故か互いに気恥ずかしさを感じていた。
    「あ、あの……。兄上が買ってくれて良かったです」
    「あ、ああ。役に立てて良かった」
    あれ程情熱的な言葉を交わし、キスをしても、透ける衣類にすら動揺を隠せない。こんな調子で大丈夫だろうか。千寿郎は二日目の訪れる寺院で今度はどう願おうか、真剣に考えた。

    「千寿郎、腹が減ったな」
    「そ、そうですね。そろそろ桂川の方へ行きましょうか?」
    インナーの透けるTシャツの前面をはたきながら、千寿郎は笑顔で答えた。

      *  

    通り雨の後には、大きな虹が出た。
     竹林を抜け、虹のたもとに向かう形で歩みを進めると、道は川沿いの土手へと繋がっていた。青みの冴えた明るい緑色の空間から一転。視野いっぱいに広がる爽やかな水色の秋空と、雨に濡れて艶やかさを増した紅葉。改めて目にする美しい秋の景色に、千寿郎は感嘆のため息を漏らした。土手の先には、先刻渡ってきた渡月橋がある。往路時には賑わっていた橋の上も、雨が降った直後となれば人は疎だ。偶然現れた写真で見る渡月橋そのものの風景に、二人はしばし息も忘れて魅入った。
    「お店、たぶんこの辺……だと思うんですけど」
     兄の腹が小さく鳴ったのに、千寿郎はスマートフォンの地図アプリを開いてきょろきょろと辺りを見回した。すると杏寿郎がすん、と鼻を吸う。そして何かに気がついて、そのまま千寿郎の手を掴むと躊躇いなく左手へと折れた。
    「兄上?」
    「千寿郎、こっちだ!」
     手を引かれるままに兄について行くと、すぐにお目当ての看板が現れた。


    「あっ! ここです!」
     兄の方へと勢い良く顔を上げて、千寿郎は目をぱちくりと瞬かせた。
     杏寿郎の顔が、キラキラと輝いていた。主にその瞳が、そこから幾つもの星が次々と溢れ落ちるのではないかと錯覚するくらいに眩く煌めいている。
    「あ……兄上?」
    「千寿郎! この店はすごいな! どれも美味そうで、何から選べば良いのか分かない!」
     そう言って兄が指し示した先のショーウィンドウの中には、多様な芋菓子と栗菓子が所狭しと並べられていた。ふっくら艶々とした大学芋に、さつま芋を丸ごと使ったスイートポテト。和栗クリームたっぷりのモンブランに、パリパリのカラメルが涎を誘う焼き芋ブリュレ。その他にも、さつま芋ソフトクリームやシェイクなどの多くのメニューが掲示されている。千寿郎は事前にSNSで情報は得ていたものの、こうやって目の前にすると、兄の言うことは最もだと会心する。
    「ふふ。兄上の大好きなさつま芋だらけです。本当に、何を食べようか迷っちゃいますね」
     すでに商品に目が釘付けになっている兄の背中にそっと手を添えて、千寿郎もショーウィンドウの中を覗き込んだ。

    「うまい! うまい! うまい!」
     本日二度目の兄のうまい! だ。
     旅の醍醐味は観光にあり、食にある。
     両手にそれぞれ焼き芋ブリュレとさつま芋ソフトクリームを持った杏寿郎の隣で、千寿郎は嬉しそうに兄を見つめた。そんな千寿郎の両手にも、スイートポテトとさつま芋シェイクが握られている。
    「うーん! このスイートポテト、とっても美味しいです。口に入れた瞬間はほくほくなんですけど、ふわっと溶けて、優しい甘みが残ります!」
    「この焼き芋ブリュレもうまいぞ! カラメルのパリパリした食感と、さつま芋自体のとろみとのコントラストが絶妙にマッチングしている!」
     二人は桂川を望むベンチに腰掛けていた。道行く人々がしきりに食レポを繰り返す二人を二度見、三度見するのにも構わず、杏寿郎と千寿郎は景色を眺めながらおやつを堪能する。
    「千寿郎。この焼き芋ブリュレ、お前なら再現できるのではないか?」
    「うーん。どうでしょう? 帰ったら作ってみようと思いますが、その時は兄上が試食してくださいね」
    「あぁ。もちろんだ!」
     川面を浚って吹き抜ける風が心地良い。
     竹林で見舞われた雨にしとどに濡れてしまった衣服も、日差しの戻った空とカラリとした風のおかげで、すっかり乾ききっていた。
     京都・嵐山と言えば桂川に渡月橋だが、その桂川は、川の場所によって呼称が複雑に分けられている。諸説あるが、渡月橋の掛かる付近は大堰川と呼ばれ、そこから上流は川下りの有名な保津川、渡月橋から下流は桂川と呼ばれていた。そして今、千寿郎たちの眼前に流れる川は、渡月橋より上流に位置するから保津川にあたる。渡月橋付近に比べて少し流れが早いせいか、往路で見かけたヒドリガモはここにはいなかった。
    「あっ。兄上」
     水面から顔を覗かせるのは、大きさの不揃いな岩だ。それにぶつかってあちこちで飛び散る飛沫から兄の横顔へと視線を移した千寿郎は、その口の端にソフトクリームがついているのに気がついた。並んで座っていたベンチから腰を上げると、兄の前に立って身を屈める。
    「……千寿郎?」
     舌先でぺろりと舐め取ったベージュ色のクリームは、甘いかと思えばそれよりもずっと、さつま芋の風味の方が強かった。
    「……っ!」
     驚きに目を瞠った杏寿郎に、千寿郎も少し間を置いて自分のしたことに気がついた。
    「えっ! わ、ごめんなさい! だって兄上も僕も、両手が塞がってるって思ったから……」
     どうしたことだろう。ついさっきまで、気恥ずかしいなんて思っていたのに。まるで吸い寄せられるようにして身体が勝手に動いてしまった。
     慌てふためく千寿郎に、杏寿郎はすかさず上体を傾けてその唇を捉えた。ほんの束の間押し当てるだけの、ライトキス。それでも伝わる深い熱量に、千寿郎はくらくらと目眩を感じた。
     今日はもうずっと、兄との距離感がおかしかった。いつもより近くに体温を感じて、何度もキスをして。蕩けるような愛の言葉を囁き合っている。
     長い間強く望んで夢にまで見てきた、普通の恋人同士の戯れのようだった。兄との縁結びを願って買い求めたお守りが、早速その御神力を発揮しているのだろうか。
    「……千寿郎は時に、兄も驚くような大胆なことをしてくれるな」
     そう囁いた杏寿郎に、千寿郎は目元を朱く染めて俯いた。
     旅行の醍醐味は観光にあり、食にある。そして、非日常性にもある。
     
    「ついたくさん食べちゃったけど、」
     嵐山を発した電車の中で、千寿郎は戸惑いを言葉にした。車内は行きと変わらず人に溢れていたが、幸い、今度は一人分のシートを確保することができた。一度は兄に譲ろうとしたのを優しく断られ、今は千寿郎が座ってその前に杏寿郎が吊り革を持つ形になっている。
    「大丈夫かな……」
     千寿郎の持つスマートフォンには、先ほど弘から届いたメッセージが表示されていた。
    『場所が分かりづらいから、待ち合わせしよ。京都駅に五時五十分集合な』
     今夜は京都の大学に進学した不死川弘と三人で、食事をする予定になっている。店は弘のバイト先の寿司屋だ。以前、弘とオンライン通話で交わした会話で、バイト先は回らない寿司屋だと言っていた覚えがあった。どうせ高級なお寿司を食べるなら、お腹の空いた状態で美味しく食べたい。
    「大丈夫だ。まだ、三時過ぎだろう?」
     下がり眉をさらに下げてスマートフォンの画面を見つめる千寿郎の頭に、大きな掌がぽんと添えられた。
    「夕食までには、また腹も空く」
     兄の断定的な物言いに千寿郎は小さく微笑んで、そう言えば、と思う。
    「一度ホテルに戻ることになりますけど、今夜はどんなお部屋なんですか?」
     深い紺色の、落ち着いた空間が脳裏に蘇る。まだ荷物を預けに入っただけだが、もうそのフロントの様子からして、近代的で洗練されたデザインの、いわゆる高級ホテルではないかと思われた。
    「ん? そうだな。今日は普通の部屋にしてある。あまり期待してくれるな」
     頭に置かれたままの手が、千寿郎の髪を優しく梳いた。
    「焦らなくて良い。まだ……なんだ」
     独り言だろうか、空耳だろうか。自分からそっと視線を逸らして雑踏の中に兄がぽつりと放った言葉に、千寿郎は不安げに瞳を揺らした。

     兄にエスコートされて足を踏み入れたのは、落ち着いた配色の和モダンな部屋だった。二十五平米ほどのゆったりとした空間に、磨りガラス調の窓を通して柔らかな夕陽が差し込んでいる。セパレートタイプのバストイレを通り過ぎると、セミダブルサイズのベッドが二つ並んでいた。その奥には二人がけのソファとローテーブルが備えられており、片隅には先に預けておいたキャリーケースとスポーツバックが置かれていた。
     今日はここで、兄と一晩を過ごすのだ。兄と二人きりの外泊は初めてだった。生家や兄のアパートとは全く異なる雰囲気に、千寿郎はどぎまぎと落ち着かない気持ちになる。部屋をぐるりと見回して、かろうじてベッドがツインであることに深い安堵と、ひとつまみの落胆を抱いた。
    「一日中歩き通しで疲れただろう。少し、休むと良い」
     杏寿郎は千寿郎の肩に手を置くと、ベッドに腰を掛けるよう促した。
    「はい……」
     観光中は気にならなかったが、確かに朝から重ねた移動で足がパンパンだった。兄の言葉に素直に従って腰を落とす。するとセミダブルのベッドは千寿郎の体重を均等に分散させて、適度な重みをもって沈み込んだ。柔らかすぎず、硬すぎず。まだ横になってもいないのに、慣れない寝具でも今夜はぐっすり眠れそうだと嬉しく思う。
    「千」
     身体の底に低く落とし込むような囁きに、どきんと心臓が跳ね上がった。弟が顔を上げるのも待たずに、声の主は千寿郎の顎をそうっと掬い上げる。
    「……二人きりだな」
     杏寿郎はそう言うと、とても自然な動きで千寿郎の唇を吸った。一回り小さな唇を自分の唇で優しく包み込むように喰んで、呼吸を求めて開いたところに熱い舌先を滑り込ませる。
    「ん……」
     兄の口づけを甘んじて受け入れた千寿郎だったが、杏寿郎はそのまま舌を絡め取ってくれれば良いものを、ちろちろと誘うように動かすだけに留めた。
     もどかしかった。ここは日中の車内でも、公道でもない。二人しかいない二人だけの空間なのだ。大好きな兄ともっと深いキスがしたい。だけど、一体どうしたら良いのだろう――
     千寿郎は兄の真意を探ろうと、閉じていた瞼を薄く持ち上げた。するとその瞬間に、心臓を射抜くような強い眼差しに捉えられる。
    「あっ、あに……んんっ!」
     ほんの僅か兄の唇が離れたのに言葉を発しようとしたが、すぐさま厚い舌が奥まで侵入してきて、それを封じ込めた。

     長い口づけの終わりを告げたのは、スマートフォンに入った軽やかな通知の音だった。
    『ちなみに、烏丸口な!』
     千寿郎が通知に気づいて画面に目を遣ったのに、杏寿郎は徐に身体を起こした。
    「約束の時間まで、まだ一時間以上ある。雨にも濡れてしまったことだし、シャワーを浴びておいで。服は……そうだな、明日の分を着ると良い。下の階にコインランドリーがあったから、千寿郎がシャワーを浴びている間に兄が洗っておこう」
     千寿郎はこくりと頷いたが、まだ頭はぼうっとして、幸せな夢うつつの最中を彷徨っていた。
    「大丈夫か?」
    「あ……。はい」
     少しずつ現実が戻ってきたところで、千寿郎はスマートフォンに手を伸ばした。弘からの連絡にスタンプで返信をすると、ベッドから立ち上がる。
    「でも兄上。洗濯するのでしたら、兄上の分も一緒に」
    「俺は良いんだ。シャワーだってお前の後で良い。ほら、見ての通り荷物が多いだろう。着替えも多めに持ってきているからな」
    「そうなのですか?」
     まだ千寿郎の前では一度も開かれていないキャリーケースに視線を向ける。本当に、兄にしては意外だった。中には一体何が入っているのだろう。
    「兄に遠慮せず行っておいで。なんなら時間もあるから、大浴場でも良いぞ?」
     大浴場。そうだ。チェックインの際にカウンターで案内されたが、このホテルには大浴場がある。温泉ではないものの、広い湯船にゆっくり浸かれるというのはとても魅力的だった。
    「あっ、でも……大浴場は、後で一緒に入りませんか? 久しぶりに兄上と一緒にお風呂に入りたいです」
     無邪気な提案に杏寿郎は一瞬言葉を詰まらせたが、そうだな、と朗らかに笑った。

     週末夕方の京都駅は、東京駅と同じくらいに混雑していた。足早に通り過ぎる人の群を縫って歩くことには慣れていたが、駅構内での移動に思ったより時間が掛かった。五分遅れて烏丸口に着いた時には不死川弘はすでに到着して、二人を待っていた。
    「よぉ! 久しぶり! 元気にしてたか?」
     人混みをうまくすり抜けて早足で向かってきた弘に、千寿郎も小走りに駆け寄った。
    「うん! 元気だったよ! 弘くんも変わらず?」
    「あぁ」
     弘は千寿郎の肩をポンと叩くと、隣にいた杏寿郎にも軽く頭を下げた。
    「煉獄先生も。お久しぶりです」
    「うむ。しばらく見ない間にずいぶんと大人っぽくなったな」
     元々クールで大人びたところのある弘だったが、半年ぶりに会う弘には穏やかな落ち着きが加わっていた。
    「ホント。なんだかまた一段と、かっこよくなったね」
     千寿郎が兄の言葉に同意して頷くと、弘は照れくさそうに頬を掻いた。
    「なんだよ二人して……気のせいだろ。ほら、六時で予約してるんだ。さっさと行くぞ」
     そう言って弘は二人に背を向けた。その肩に掛けたトートバッグに可愛らしいクマのキーホルダーがぶら下げられているのに気がついて、親友もまた恋をしているのだと千寿郎は微笑ましく思った。
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