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    杏千リレー

    杏千二人でのんびり京都旅

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    杏千リレー

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    ③杏千リレー小説・京都篇・一日目・3

    #杏千
    apricotChien

    ③杏千リレー小説<京都編・一日目・3>烏丸口から徒歩で数分ほど歩いただけで、千寿郎は別の時代に来たと思った。
     目の前に佇む、くすんだ色の暖簾。そこに文字は一切なく、ただ、木製の格子戸の脇に小さな名札めいた看板がある。その毛筆は掠れ、古びていて、年代を示さずとも老舗の貫録を醸し出していた。
    「ひ、弘くん……ここ……」
     わなわなと千寿郎が旧友を振り返る。回らない寿司店と聞いていたから、それなりの店だと覚悟はしていたが、次元が違う。すると、その反応が想定内だったのか、弘が悪い笑みを見せた。
    「すごいだろー。でも、こう見えて意外とリーズナブルなんだ。観光客にはあまり知られてないし、地元の人が昔から通っている店だから」
    「そうなのか! だが非常に趣がある! 不死川少年は目が肥えているな!」
     長身を足からてっぺんまで眺めて杏寿郎が感嘆すると、弘は小さな子供みたいに肩を縮こませた。
    「先生、少年って。俺もう大学生ですよ。ほんと兄貴たちもそうだけど、弟をいつまでもガキだと思ってるんだから」
     精悍な頬を赤らめて頭を掻く。その様子は、やっぱり子供っぽくて可愛いと千寿郎は思った。同時に同じ弟同士、共感しか湧かなかった。一方、杏寿郎は全く悪びれず、腕を組んで爽快に笑った。
    「そうか、すまない! だが兄にとって弟は幾つになっても可愛いものだ!」
     そう豪語すると、隣に立つ千寿郎の腰に腕を添わせた。
    「……何年経とうと、姿形が変わろうと同じだ。兄は、弟を想っている」
     半ば伏せられた瞼に甘いとろみがのる。言外に含まれた艶は、さながら焙り穴子の上に塗られる照りのよう。早くも食べる前から熱を滲ませる兄に、千寿郎は慌てて前に進み出た。
    「は、入りましょうかっ! もう予約の六時になりましたし!」
     唐突な必死の剣幕につられて、弘が暖簾を押し上げた。
    「あ、うん、大将には伝えてあるから、二人ともたくさん食べてください!」
     弘に先導されて入った店内は、想像よりもずっと明るく、清潔感に溢れていた。淡い照明が照らし出すL字型のカウンターは、木曾檜の一枚板。その奥に、小柄な初老の大将が立っていた。弘が背筋を伸ばし、垂直に礼をした。
    「大将、俺の友達と、そのお兄さんです」
     木彫りのような硬い表情が、すぐに物柔らかに撓んだ。
    「ようこそお越しくださいました。今日は暑かったでしょう」
     穏やかな声音に、訛りはあまり感じられなかった。弘に促されるまま奥の席に着くと、杏寿郎は当たり前のように千寿郎を真ん中にいざない、さりげなく椅子を引いて座らせた。その様子を見た弘が、三白眼を見開いた。
    「煉獄先生って、絶対モテるよな」
     感嘆する声に、思わず千寿郎が前に倒れそうになる。杏寿郎は笑いながら自分も席に着いた。
    「さあな、分からん! モテたくて学校に行っているわけではないからな!」
    「そういうところだと思うけど……うちの兄貴なんて、バレンタインでもそんなにチョコもらってこないし。先生は毎年、二十個以上もらってるでしょう?」
    「ありがたいことだと思っている!」
    「先生たちは、兄弟で派手だもんな。千寿郎だって結構女子に人気あったし」
    「ひ、弘くん!」
     思わぬ情報をぶっこんでくる親友に、千寿郎は慌てた。案の定、隣から冷たい炎が燃え立つのを感じた。
    「……ほう、千寿郎に想いを寄せる者が?」
    「い、いえ、兄上、僕は全然……」
     しどろもどろになるが、兄の眼圧がすごい。千寿郎は覚悟を決めた。
    「……たとえ誰に想われても、僕がお慕いするのは、この世でたった一人です」
     目線を逸らさずに、静かに言い切る。その凛とした眼差しに、杏寿郎が射抜かれたように止まった。と、すぐにその端整な相好が崩れる。心底嬉しそうな甘やかな笑顔に、千寿郎も頬を赤らめる。不思議そうに眺める弘を前にして、大将は穏やかに微笑んだ。
    「それでは、お料理をお出ししてよろしいでしょうか」
    「よろしくお願いします!」
     折り目正しく頭を下げる杏寿郎に、大将も丁寧に礼をした。
    「今日は旬の素材を中心にご用意しました。まずは京湯葉とイクラ、ウニのカクテル仕立てです。白だしのジュレがかかっていますので、そのままでお召し上がりください」
     透明な切子細工が施されたカクテルグラスに、赤と金と白が織り交ぜられている。その鮮やかな色彩と爽やかな味わいに、三人は喉の奥で静かに唸った。
     千寿郎は兄をそっと見やった。
    「兄上、お酒を召し上がりますか?」
    「そうだな、お薦めがあればいただこうか!」
     杏寿郎の目の輝きに合わせて、大将が浅く頷いた。
    「お好みは?」
    「辛口でお願いしたい!」
    「では、『香田』はいかがでしょう。丹後の山田錦から作った特別純米で、大吟醸に負けない豊かな香りがあります」
    「では、そちらを」
     京湯葉を食べ終わらない絶妙なタイミングで、和装の女性が冷酒のセットを運んできた。千寿郎は静かに箸を置くと、流れるような所作で兄のグラスに冷酒を注いだ。すると、給仕の女性が目を瞠って弘に耳打ちした。
    「弘はんのお友達、かいらし(可愛い)方やねぇ。お酌も堂に入ってはるわ」
     無邪気な感嘆は千寿郎の耳にも届いた。自分が酔ったように頬を赤らめて俯く弟を、杏寿郎は愛しげに見つめた。
    「確かに千寿郎は可愛いが過ぎる! 私の自慢の弟です!」
     弟を褒めることには一切の遠慮がない兄に、千寿郎はほかに客がいないことを心から感謝した。
     前菜を一通り堪能すると、お待ちかねの寿司が饗された。江戸前の技が光り、赤酢の醸し出すまろやかな旨味が旬のネタを引き立たせる。平目、かんぱち、赤身、中トロと続き、最旬の鰯の濃厚な脂が舌の上で跳ねた。特に、ウニは珍しいことに軍艦巻きではなく、握りの形で出された。
    「この方が、ウニ本来の味わいがより際立つのです」
    「実に美味い! この食べ方は初めてです!」
     兄の感嘆に、千寿郎も何度もうなずいた。
    「すごい……それに、赤酢のシャリの甘みがずっと舌に残りますね!」
    「そうだろ? ここに初めて来たとき、実兄ぃも珍しく絶賛してたんだ」
    「実兄ぃって……不死川先生とも来たの?」
     うん、と弘は照れくさそうに認めた。
    「大学の入学式にお袋と一緒に来てくれてさ。この店でご馳走してくれたんだ。そしたら兄貴の方が心底気に入っちまって、バイトするならここでしろって言い出して」
     思い出したように笑いながら、大将に頭を下げる。
    「本当に、あの時はすみませんでした」
    「いやいや、こちらもちょうど人手不足でね。弘は力もあって機転も利く子で、こちらとしても大助かりです」
     飾らない賛辞に、弘は面映ゆそうに顔を歪めた。不器用だが素直な親友の喜びように、千寿郎も自分のことみたいに嬉しくなった。にこにこと笑う兄弟にいたたまれないのか、弘は目線を逸らした。
    「それで、今日はどこへ行ってきたんだ?」
    「嵐山をめぐってきたよ。竹林で雨に降られたけど……」
     そこまで言いかけて、千寿郎はつと唇を指で押さえた。無意識に、兄のジャケットの中で交わしたキスが蘇る。せっかく食べた極上の寿司の味が、遠くに霞んでしまいそうだ。慌てて乱暴に首を振ると、千寿郎は少し挑戦的ともいえる強い眼差しで兄を見た。
    「雨の後、虹が出ましたよね? すごく綺麗でした!」
     弟の可愛い強がりの視線を余裕で受け止め、杏寿郎はにやりと笑った。
    「そうだな、忘れられない経験だった!」
     暗に含めるどころか前面に押し出してくる兄に、今度こそ千寿郎は必死で睨みをきかせた。それすらも可愛いとしか映らずに、杏寿郎はカウンターの下で弟の手をぎゅっと握った。
    「そそ、それから、芋栗スイーツの専門店に行って!」
     嚙みながら話題を逸らそうと苦戦する千寿郎に、何も気づかない弘は、ああ、と頷いた。
    「女子に大人気の焼き芋ブリュレがある、あの店か。俺が行った時はすごい行列だったぞ」
    「弘くんも行ったんだ」
     千寿郎は驚いて、思わず視線をあのクマのキーホルダーに向けていた。すると、それに弘も気づいたようだった。
    「うん、あいつと。千寿郎も聞いたんだろ? 別に隠す理由もないし……でも、まだ、分からないんだ」
    「え?」
     カウンターに置かれた水に手を伸ばし、弘は一気に飲み干した。
    「好かれてるとは思う。嬉しいとも思う。でも、それが俺自身も望んでいることなのか、分からない。傷つけたくないから、流されているだけなのかもしれない……そんなの、断るよりひどいって分かってるけど……まだ、この感情に、名前を付けられないんだ」
    「弘くん……」
     千寿郎は瞳を迷わせ、救いを求めるように兄を見た。しかし杏寿郎は、弟の眼差しを真っ直ぐに受け止めながらも、何も言わなかった。千寿郎には兄の気持ちが分かった。恋の惑いは、本人にしか決着できない。他人が何を言っても、迷う岐路を増やすだけだ。千寿郎は黙ったまま、弘の肩に手を添えた。千寿郎よりもずっと体格の良い旧友は、安堵したように微笑んだ。
    「大丈夫だ。そのうち、答えを出せると思う。兄貴にも、こういうのはなるようにしかならない、って言われたし」
    「不死川先生に?」
     思わず千寿郎は聞き返した。あの抜身の刃のような人に、弘が恋の相談をするなんて。だが思えば、二人は兄弟なのだ。誰よりも近しい、信頼する人なのだ。
     千寿郎はもう一度兄を見上げた。同じ虹彩を宿す瞳に、わずかな波立ちが見えた。それは、自分自身の揺らぎなのだと千寿郎には分かっていた。
     その時、ほかの客たちが入ってきた。仕事終わりなのか、スーツの上着を脱ぎ、暑そうにハンカチで顔を拭いている。和装の女性がそっと空調を下げるのを見て、杏寿郎はボディバッグから薄手のカーディガンを出した。
    「千、これを羽織れ」
     ふわりと弟の肩にかける。雨に濡れたジャケットは、ホテルでクリーニングに出していた。オーバーサイズとはいえ半袖の千寿郎を気遣って、持ってきていたのだろう。千寿郎は恥じらいながらも、嬉しそうに兄を見上げた。
    「兄上、ありがとうございます」
     肩に置かれた大きな手に、そっと手を重ねる。その自然で親密な仕草に、弘は思わず視線を吸い寄せられた。
    (本当に仲がいいよな……そりゃ、うちだって仲がいいけど、二人は何かもっと深い繋がりを感じる……離れられない、絆みたいな)
     そう弘がぼんやりと考えた時、寿司下駄に、蒲公英にも似た黄金色が咲いた。大将の静かな声が添えられた。
    「玉子です。寿司は以上になります」
     暖かな、炎みたいな色だ。まるでこの兄弟みたいに。
     胸にわずかに燻るものがある。けれど、この暖かな炎を、ただ見守っていたいと弘は思った。
     杏寿郎がおあいそを告げると、勘定は店のおごりだと言われた。千寿郎は驚いて固辞したが、大将は頬に朗らかな皺を刻んだ。
    「弘がいつも世話になっている礼です。ぶっきらぼうで、マナーの悪い客に掴みかかるような荒くれ者ですが、帰省したらまた仲良くしてやってください」
    まるで父親みたいな言い方に弘が真っ赤になる。千寿郎は恐縮するばかりだったが、杏寿郎は鷹揚に笑った。
    「かたじけない! また、京都に立ち寄った際は必ず来ます!」
    しかし、駅での別れ際、杏寿郎は弘に封筒を手渡した。
    「大将の御厚意は確かに受け取った! これは、君が東京に帰ってくるときの交通費にでもしてくれ! その方が、大将も安心するだろう! 冬休みに我が家を訪ねてくれれば、千寿郎も喜ぶ!」
     弘は呆気にとられながらも、次の瞬間、ははっと笑った。
    「ありがとうございます! 二人と会えて嬉しかった! 千寿郎、煉獄先生と仲良くな!」
     大きく手を振るや、すぐに踵を返して走り去っていく。千寿郎は大きく目を見開き、それから兄を振り仰いだ。杏寿郎は優しく頷き、千寿郎の頭を胸に抱き寄せた。
    「帰ろう……俺たちの部屋へ」
     その声に、自分にしか分からない熱を感じて、千寿郎は何も言わずに頷いた。

     ホテルの部屋につくなり、杏寿郎は弟を抱え上げた。
    「さぁ、大浴場に行くぞ、千!」
    「ふぇっ? あ、兄上?」
    「今ならまだ空いているだろう! 大きな風呂に一緒に入るのは久しぶりだ!」
     いつになくはしゃぐ兄に、千寿郎も嬉しくなって、その鮮やかな額髪に優しいキスを落とした。
     大浴場は最上階にあった。タオルも全て備え付けられているため、着替えだけを持って二人はエレベーターに乗った。フォン、という軽やかな音を連れてドアが開くと、湯気の柔らかい匂いが取り巻いてくる。旅を感じさせる、わくわくする匂いに、千寿郎の瞳がきらきらと輝いた。
     兄の予想どおり、脱衣所には誰もいなかった。落ち着いたアースカラーの畳敷に懐かしい感触を思い起こす。隣で潔く服を脱ぐ兄の逞しい脇腹を、千寿郎はちらと盗み見た。もう、どうしてこういちいちカッコイイんだろう。理不尽な怒りさえ感じる。ふくれっ面でシャツをたくし上げると、そっと手を添えられて脱がされた。
    「あっ、兄上……」
     真っ赤になって見上げれば、どこか痛みに耐えるような兄の瞳があった。そのままゆっくりとジーンズも脱がされる。徐々に生まれたままの姿にされていくのは、最初から裸を見られるよりもずっと恥ずかしかった。
    「兄上、僕」
    「すまない、千寿郎、待てない」
     初めて聞くほど切羽詰まった声に、千寿郎は呼吸を止めた。そのまま、熱い腕に再び抱き上げられる。その瞬間、唐突に悟った。兄は、自分を手離すことを、恐れている。
     なかば攫われるように浴室へと連れていかれた。最後の砦のように体をバスタオルで覆っていた千寿郎は、そっと床に降ろされた。中は昼間のように明るい。それなのに湯気は朝靄みたいに澄んだ白濁を吐き出している。濃厚な湯の匂いに酔いそうだった。その時初めて、兄の手が離れた。一歩後ずさり、千寿郎を見つめる。兄は全裸だった。刻み出された彫刻のようなその裸体を、千寿郎は陶然と見つめた。すると、兄がゆっくりと顔を背けた。端整な貌が苦悶で歪んだ。
    「……千、俺は、強引だっただろうか。お前の気持ちを置き去りにして、無理矢理俺を愛させていたのか? 優しいお前に愛していると呪詛を注いで、肌を暴いて、兄弟の愛を恋人の愛へと塗り替えていたのか」
    「兄上」
     凛とした声が、モーゼの十戒のように湯気を薙ぎ払った。杏寿郎は瞳を見開いた。目の前に、全てを取り去って素肌を晒した弟がいた。
    「兄上にとって、僕はまだ『可哀想な千寿郎』なんですか? 僕は自分で兄上を選びました。罪だと知っていても、父上や母上を悲しませても、兄上への想いを止められなかったのは僕の方です。たとえ兄上が僕を想って、この感情の名前を書き換えようとしても、もう手遅れです」
     千寿郎は、声に反して震える手を兄に差し伸べた。
    「……僕は自分で名付けました。この感情は、紛れもない恋慕だと」
     杏寿郎は、初めて見るように弟を見つめた。そしてゆっくりと跪くと、震える手を取り、瞳を閉じてその甲に口づけた。

       *

    左手の甲を滑り落ちた唇が、薬指の付根で止まった。じわりと熱を持つそこに、ほんの少しだけ痺れが走る。
    「あの指輪守りよりも、いつかここを彩る誓いの環よりも先に、一番に愛の印をつけたい」
    「誓いの環…」
     その言葉に千寿郎は、母の指に光る控えめな指輪を思い出した。
    「あの? 兄上‥‥、それって…」
     問い掛けを遮るように、軽く触れていた唇が押し付けられる。チュウッと軽やかな音を立て、僅かな皮膚が杏寿郎の口内に吸い込まれた。
     礼節を重んじる紳士のように。忠誠心を表す騎士のように。片膝をついて落とされる薬指へのキス。
     無色透明な湯気の水滴が、キラキラと輝く。それはまるで、永遠の愛を誓う儀式に舞うフラワーシャワーに見えた。

     痕が付きにくい場所に残ったのは、微かな赤みだけ。しかしそれは紛れもない、愛の証。千寿郎は立ち上がった杏寿郎の左手を取ると、同じように薬指の付根に唇を寄せた。
     他の誰にも見えない、二人だけの愛の環。
    「千寿郎、誓いのキスを…」
     近付く唇に応え、千寿郎が目を閉じた瞬間、ガラリと大きな音を立てて扉が開いた。

    「ああああ、兄上! お背中を流しますね!」
     杏寿郎の手を引き、洗い場へ急ぐ。バスチェアに並んで座ると、後ろから強い視線を感じた。恐る恐る振り返れば、少し離れた場所で座る、海外からの観光客であろう二人の男性と目が合った。
    (…見られた)
     あの瞬間を。口付けの一歩手前を。しかも全裸でなんて、恥かしいでは済まされない。千寿郎は大量のシャンプーで立てた泡で、乱雑に髪を洗い始め、羞恥を打ち消そうとした。しかし背中には、まだ痛い程の視線を感じる。
    「千寿郎、ちょっと行ってくる」
    「兄上?」
     一糸纏わぬ姿のまま、杏寿郎は男性達の元へ近付いた。相手は兄以上に筋肉のついた、逞しい体をしている。険しい顔をした相手の視線に、杏寿郎も気が付いたのだろう。懸命に何かを伝える兄の英語に、男性達の眉間の皺が深くなっていく。トラブルになってはいけない。千寿郎は泡の付いた髪のまま立ち上がり、止めに入ろうとした。

    「thank you!」
    「え…?」
     男性達の明るい声に、千寿郎の足が止まる。その様子に気が付いた二人が笑顔を浮かべると、杏寿郎は千寿郎の肩を抱き、浴室内に大きな声を響かせた。
    「my fair brother!」
    「あ、兄上!」
     ここでも杏寿郎は、千寿郎を誉めた。しかも裸で。寿司屋以上の羞恥を感じ、急いで洗い場に戻る千寿郎の背中に、可愛いと男性達の陽気な英語が注がれた。
    「千寿郎の愛らしさは万国共通だ」
     満足そうに髪を洗う杏寿郎の横で、千寿郎は泡を流していく。
    「あ、あんな事を言いに、あの人たちの所へ行ったのですか?」
     体を洗い始めた杏寿郎のタオルを取り、千寿郎は広い背中を洗う。少し力を込めるのは、先程の辱しめへの仕返しだ。
    「大浴場の使い方の戸惑っていたので、伝えに行ったんだ。千寿郎の事を誰だと聞かれたから、可愛い弟だと正直に答えたまでだ」
    「か、可愛いは言わなくても…」
    「しかし、言いたくなる。俺の弟はこんなにも、可愛らしいんだと。お前は俺の自慢の弟なんだ」
     杏寿郎は千寿郎のタオルでモコモコの泡を作り、背中を優しく撫でた。
    「あ、兄上だって自慢の兄です…」
     自分は男性達が困っている事を、察する事が出来なかった。周囲の状況を瞬時に判断し、さり気無い配慮を行動で示せる兄を、千寿郎は誇りに思った。そして、新たな一面にはときめきを感じる。
    「英語も堪能で…。初めて見ましたが、とても格好良かったです…」
    「通じるだろうと押し通しただけだ。こういうのは、間違えても堂々としていた方が良い」
     自分だったら文法や単語を探して、会話が先に進まないだろう。恥じる事など考えず、人の為に動く姿はあの時と変わらない。だから好きなんだ。
     強く優しい兄が。

     ラジウムを多く含む放射能泉は、重くなった足の疲れを取っていく。詰め込んだスケジュールも楽しいが、広々とした湯の中で体を寄せ合い、のんびりとつかる時間も楽しく、心地良いものだった。
     額にじわりと汗をかき始めた頃、先程の男性達がタオルを手にしたまま浴槽内に入ろうとするのが目に入った。杏寿郎は流暢な英語でそれを止める。自分の頭の上のタオルを指さし、同じようにするか、お湯の掛からない浴槽の縁に置く事とその理由を、途切れない英語で伝えていた。
    「凄い…」
     兄は何をしても様になる。自分には出来ない事を淡々と熟す姿には、ただ見惚れるばかりだ。
    「兄上、やっぱり格好良い」
     天然の温泉の中で、伸ばした二人の足。千寿郎は爪先を動かし、杏寿郎の足の爪に触れた。
    「惚れ直しただろう?」
     おどける杏寿郎もそれに応え、千寿郎の足の指を軽く突っついた。
     湯の中での秘密の戯れ。少しの波だけを起こし、男性達には気付かれないように、互いの足の指を絡めた。

     ミネラルウォーターが、心地良く喉を潤す。
     ベッドに座り、バッグから取り出したしおりに目を通していると、荷物を詰め直した杏寿郎が隣に座った。
    「明日の予定は盛沢山だな」
    「ええ。清水寺に銀閣寺と金閣寺。折角の旅行だから、欲張っちゃいました」
     ふふ、と笑いを零すと、そのしおりを杏寿郎に奪われる。
    「兄上、ダメ!」
     今日一番の声を上げて奪い返し、胸の前で抱えた。
    「何故だ? 行き先を確認しても良いだろう」
    「いいけど、ダメなんです」
     クシャリと軽い音を立て、しおりに皺が刻まれた。各日程は見られても良い。しかし二ページ目に載せた【祈願スポット】の四社は、見られたくない。
     今はまだ。

    「そうか。何かサプライズがあるなら、期待していよう」
     それ以上は詮索しない兄に、心の中で謝罪しながら、千寿郎はしおりの皺を伸ばしてバッグにしまった。
     ベッドサイドに置いた千寿郎の飲みかけのペットボトルを手にした杏寿郎は、喉を鳴らして水分を摂り込む。上下する喉仏。体のパーツ一つにも漂う色気に、千寿郎は思わず顔を赤らめた。
    「明日の朝は早い。八時前にはタクシーに乗るから、目覚ましは七時で良いだろうか?」
     明日の起床時間を聞かれ、千寿郎は館内案内に目を通す。
    「朝食バイキングは六時半からです。連休で混むかもしれないから、早めに行きませんか?」
    「そうだな。では六時にセットしておこう。今日は移動も多かった。早めに寝て、疲れをとってくれ」
    「え? あ、はい」
     何か言いたげな千寿郎を残し、杏寿郎は室内の灯を落とした。ベッドサイドライトが作る杏寿郎の影は、静かに隣のベッドに吸い込まれる。
    「千寿郎、おやすみ」
    「は、はい…。おやすみなさい」
     千寿郎は慌ててベッドに潜り込み、頭から掛布団を被る。全ての灯が消された部屋は、闇に包まれた。
    (は、恥ずかしい‥‥)
     期待をしていた。二人きりの旅行で、初めて迎える夜。覚悟も決めていた。しかし兄は一人、ベッドに入った。明日は今日以上に、沢山の観光地を巡る。千寿郎の体を思いやり、無理はさせない兄の気遣いを無駄にしてはいけない。目を瞑り、早く寝なくてはと思うが、眠りはなかなかやって来なかった。

     静寂の中、外を走る車の音だけが耳に響く。
     明日。明後日。二人きりの時間は、まだある。
     兄にも負担は掛けられない。それがどれだけ体力を消耗するかは、想像がつかないけれども。

    「千…」
     ふいに名前を呼ばれ、肩が跳ねた。
    「千…」
    「兄上…」
    「一緒に寝て良いか?」
     体を起こそうとすれば、そっと肩を押される。
    「は、はい…」
    「ありがとう」
     おずおずと体をずらし、空けた場所に杏寿郎の体が入った。ふわりと香る同じシャンプーの匂いは、先程大浴場で見た美しい肉体を思い出させる。
    「寝ていたのに、すまない」
    「い、いいえ…。なかなか眠れなくれて」
    「俺もだ…」
     向き合い、苦笑いをする杏寿郎の瞳に仄かな赤が見えた。
    「浮かれる兄に、千寿郎の熱を少しだけくれないか…」
    「は、はい…」
     ドキリと鳴る胸をそのままに頷けば、前髪が少しだけ顔を覆った。杏寿郎はそれを指で横に流す。
    「恋人と二人で出掛けたり、見知らぬ土地で迎える夜が、こんなにも胸を高鳴らせるなんて知らなかった」
     杏寿郎は千寿郎の手を取り、自分の胸に当てた。ドクドクと流れる血の音が掌に伝わり、千寿郎の全身へと駆け巡った。
     二人の鼓動がシンクロする。奏でる甘いリズムに引き寄せられ、重なる唇。互いに柔らかな感触を堪能してから、杏寿郎は軽く唇を挟んで、甘噛みをする。
     上唇と下唇を交互に噛まれ、擦られる。千寿郎は杏寿郎のルームウエァを掴み、互いの唇の感触と体温を感じられるキスに酔った。
     唇が離れ、千寿郎は吐息を漏らす。同じタイミングで杏寿郎も息を吐いた。自分に対して興奮しているのが分かり、千寿郎の体がゾクゾクと震える。
    「僕の熱も、もらってください…」
     千寿郎は喉仏の上に唇を滑らせて、その形を確かめた。艶めかしい千寿郎の動きに、杏寿郎が生唾を飲み込めば大きな骨が上下する。千寿郎はそれを口で追い、自分がされたように、唇で杏寿郎の皮膚を甘噛みをした。
    「熱いな…」
     吐息混じりの低い声に応え、千寿郎は頬、耳朶、瞼をハムハムと優しく唇で挟み込む。
    「千寿郎の熱に溶けそうだ…」
     杏寿郎は千寿郎の腰を抱き寄せ、唇から顔、首筋へとキスを落とす。
     竹林で降られたものよりも、優しく甘い雨。止まないで欲しい。ずっと続いて欲しい。杏寿郎のキスの雨に溶かされながら、千寿郎は眠りに就いた。

    「おはよう」
    「おはようございます…」
     昨夜の甘い余韻を残す顔が間近にあった。カーテンの隙間から、朝日が少しだけ入る。外は快晴だ。明るい陽を思えば、夜の闇に任せた自分の言動の大胆さを思い出し、恥ずかしさに襲われた。
    「先に顔を洗って来ますね!」
     掛布団をくしゃくしゃに捲り上げ、ベッドから出れば、体が宙に浮く。
    「兄上!」
    「一緒に行こう」
    「ん…」
     ほんの少し距離でも傍に居たいと、杏寿郎を千寿郎を横抱きにし、キスをしながらバスルームへ向かった。

     一階のレストランで朝食バイキングを済ませ、タクシーで向かった二日目の宿に荷物を預けた。一緒に行こうとすると、車内で待つように言われた。窓から見える宿は、古民家のように見える。昨夜とは違う趣向の宿を探してくれたのだろう。自分を驚かせたい兄の気持ちを汲み、千寿郎はそれ以上は見ないようにした。

     八時前の清水寺には、既に数十人の観光客の姿が見られた。もう少しすれば、もっと大勢の人が押し寄せるだろう。混雑する前に、来られて良かった。
    「胎内めぐりは九時からだ。その前に参拝しよう」
     十年前に始められた新しい事業は、良いクチコミが多い。感染症の流行で中止されていたものが再開されたとなれば、これを目的に来る人は多いだろう。二人も同じで、朝一番は空いているとの情報に懸けていた。

     朝の澄んだ空気を吸いながら、手水に向かう。誰もいないそこで龍の口から流れる、冷たい水で手を清めた。
    「ここは、梟の手水鉢と言われているんだ」
    「梟…は居ませんね」
     見渡しても、龍以外の生物は見られない。
    「ここだ」
     しゃがみ込んだ杏寿郎は、手水鉢の四つの足台に目線を向けた。その間には菩薩の彫刻があった。
    「菩薩の両隣に居るのが梟らしい」
     丸いフォルムの彫刻は、見ようによっては梟に見える。
    「夜目を光らせて、この清水寺を護っているらしい。諸説だが、フクロウをニ・九・六で数字に表して掛け合わせると、百八になる。つまり人間の煩悩を、この手水で清めて払う意味もあるそうだ」
    「煩悩ですか…」
    千寿郎は頭に浮かんだ目的を急いで振り払う。
    「まあ、千寿郎とは掛け離れた言葉だが」
    「はは…」
     乾いた笑いしか出ない。純粋に兄との旅行を楽しみたいが、その心の内は煩悩だらけだ。この清水寺に来た目的でさえ、煩悩達成の為でもある。
    (穢れた心ですみません…。でも長年抱えた思いが成就したんです。その先へと願う事を、お許しください…)
     己の煩悩を消す事は出来ない。千寿郎は菩薩と梟に手を合わせ、心の中で謝罪した。
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