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    杏千リレー

    杏千二人でのんびり京都旅

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    杏千リレー

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    ①杏千リレー小説の京都編です
    X(旧Twitter)にて掲載していたもののを、再度掲載しています
    続きも今後はこちらにアップします
    気になりましたらフォロー、宜しくお願い致します

    #杏千
    apricotChien

    ①杏千リレー小説<京都編・一日目・1>「……よしっ! できた!」
     大学生になって初めての夏休みも、ついに明日で終わりを迎えるという、まだ残暑厳しい九月の初旬。
     煉獄千寿郎は椅子から立ち上がってカレンダーを一瞥すると、ベッドの上へと盛大に身を投げ出した。外は今日も三十度を超えているというが、高台にある築三十年のこのアパートは、窓という窓を開け放てば風が吹き抜けてずいぶん涼しい。
     ベッドの上で仰向けになっていると、集中して汗ばんだ身体を風がさらっていく。窓から見上げる空は、眩しいくらいの青だ。その青の中を、一匹のツクツクボウシがどこからか飛んできて、窓枠に止まると軽快な鳴き声を上げ始めた。
     千寿郎はしばらく目を閉じて心地良い疲労感に浸っていたが、鳴り出したスマートフォンに、気怠げに腕を伸ばす。
    『ごめーん! 煉獄くん!』
     画面をスライドさせた途端に響いた、スピーカーが割れんばかりの声に、思わずスマートフォンを遠ざける。
    『あのさ、今夜ちょっと急な用事が入っちゃって。シフト替わってもらえないかなぁ』
    「あ、うん。大丈夫」
    『ほんと? やった! 助かる〜! ありがとう!』
    「ううん。僕も今夜は特に用事は無かったし」
     そう言うと、電話先の友人はいつもの調子でごめんねとありがとうを繰り返し、忙しなく通話を切った。
     時計は午後三時四十分を指している。シャワーを浴びる時間はあるが、あまり悠長にはしていられない。千寿郎のバイト先はアパートから自転車で十分ほどの、商店街の隅にある小さな喫茶店だった。
     最初は、大学の近くの求人を探していた。けれど八月のある日、通り雨から逃れるためにふらりと立ち寄ったその店で飲んだコーヒーがびっくりするほど美味しくて、気がつけばその日のうちにバイト生として採用されていた。あの時の自分の行動力と、初老のマスターの驚いた顔は、今でも思い出してはくすりとしてしまう。そんな事を考えながらシャワーを浴びていると、時計はとうに四時を過ぎていた。夜の部は五時からだ。千寿郎は急いで身体を拭くと、クローゼットの中を覗いて最初に目に留まった服を掴んだ。

    「やぁ、急遽すまないね。昨日も入ってくれたのに。悪いけど、今夜もよろしく」
    「大丈夫です。暇していましたから」
    「そうかい? 助かるよ」
     そう言って、マスターは千寿郎に淹れたてのコーヒーを差し出した。この店ではシフトの時間前に来ると、マスターのその日の気分に合ったコーヒーを淹れてくれるのだ。一口飲んですうっと入ってきたフルーティーな味わいが、バイト前の、少しだけ気張った気持ちを優しく解いてくれた。
    「……美味しい」
    「ふふ」
     華奢な銀縁眼鏡の奥で、マスターが目を細めた。働き始めて一カ月にも満たない千寿郎にはまだよく分からないが、コーヒー豆の種類にも淹れ方にも色々あるらしくて、少しずつメモを取って覚えようと努力はしている。
    「じゃあ、それを飲んだらよろしくね。あぁ、そうそう。今夜のバイト生は千寿郎くん一人だから、少し忙しくなるかもね」
     商店街の隅にひっそりと佇む小さな喫茶店ではあるが、マスターの淹れるコーヒーに惚れ込んだ常連客が多く、フレンチトーストの美味しい隠れ家的喫茶店とのことで、時おり新規の若い客も訪れる。マスターの言葉に千寿郎は心の中で『ええっ、聞いてないよ!』と叫びながら、カップ底に残ったコーヒーを一気に飲み干した。

    「煉獄くん! 一昨日はごめんね! 助かった!」
     学部をまたいだ共通講義が行われる教室に入るやいなや駆け寄ってきた友人に、千寿郎は慌てて大丈夫だよと笑った。学部は違えど同じ大学に通う彼女は、キメツ学園高等部でもクラスメイトだった子だ。成り行きで、何度か恋愛相談に乗ったこともある。
    「だってね。夏休み最後だったんだもん……バイト代も貯まったし、思い立って行ってきちゃった!」
    「行ってきた?」
    「そう! 京都!」
     にっこりと笑って八ツ橋の箱を差し出した彼女に、千寿郎は目をぱちくりとさせた。
    「し、な、ず、が、わくん! 会ってきたの!」
    「ええっ⁉︎」
     相変わらず、彼女の行動力には驚かされる。押しの強い彼女に親友が押され気味なのは気づいていたが、二人が付き合うことになったのかどうか、千寿郎ははっきりとした答えを聞かされずに学園を卒業した。しかしこれはやはり、二人は付き合っているのだろうか。誘導されるまま彼女の横に腰を下ろした千寿郎は、講義が始まるまで長い惚気話を聞かされることとなった。

     夏休み明けの最初の一日は、午後三時にはその日の講義を全て終えた。久々の大学に少しだけ疲れたなと思いながら、ペダルを漕ぐ。都内にある大学は、千寿郎のアパートから自転車で三十分。一時間に数本出ているバスもあったが、大抵は自転車で通っていた。学園通りを過ぎて、商店街を抜ける。そこからアパートのある団地までは、長い坂道だ。気合いを入れて足を踏み込めば、背中からどっと汗が吹き出した。
    『行ってきちゃった』
    『会ってきたの』
     ペダルが回るのに合わせて、友人の言葉が頭の中でリフレインする。

     思い立った気持ちのままに、会いに行きたくなる。

     千寿郎にも、そういう人がいた。獅子の鬣を彷彿とさせる、美しい金糸の髪。そうっと包み込んでくれるような、あたたかい眼差し。触れられればそこから一気に身体が熱くなって、幸せな気持ちになる。そんな、大好きでたまらない相手が。
    「……兄上」
     四月に大学生となってから、兄の杏寿郎にはあまり会えていなかった。
     千寿郎には日々の講義に部活、バイトに同級生との付き合いが。母校の教師をしている杏寿郎も平日には授業があり、土日は部活道の引率がある。大学には長い夏休みもあったが、それもまた、千寿郎は自動車学校に通ったり友人と親睦を深めるのに忙しく、杏寿郎の方も、十数年ぶりのキメツ学園野球部の甲子園出場や顧問を務める剣道部の大会と合宿が続いた。そうやって互いの生活を送っていると、月日が流れるのはあっという間だった。
     同じ都内に住んでいるのだから、行き来しようと思えばできたのだろうけど。当たり前のように学び舎で顔を合わせ、実家で食事を共にしていた日々がずいぶんと昔のことのようで、懐かしかった。
    『まず、千寿郎自身の生活を優先しなさい』
     大学に入る前に、兄に言われたことだった。たくさんの人に出会って、たくさんのことを経験して、まだ知らない新しい世界を広げていく。それが、今の自分には何より大事なことなのだと。
     会えない日々が続いていても、やり取りは頻繁にしていた。週に何度かは通話アプリを通して顔を見ながら話していたし、互いの食べたものや行った場所の写真を送り合うこともあった。それでもやはり、会いたいと思う夜は、少なくなかった。
     いつの間にか坂を登りきって、アパートの前にいた。今日もここには涼しい風が吹いている。自転車を置いて、鉄骨階段を登る。少し休んだら、今夜もバイトだ。

     片付けを終えて喫茶店を出たのは、夜十時を回った頃だった。商店街のほとんどの店はシャッターを下ろしている。人気の少ない通りに冷たい風が吹いて、千寿郎は思わず身震いした。昼間はまだ暑いが、夜になると肌寒さを感じることが多くなった。季節は着実に、夏から秋へと移り変わっている。
     同じシフトに入ったバイト仲間と別れて何気なく、鞄に入れたままだったスマートフォンを取り出した。画面にはメッセージが数件と着信が一件入っており、そこに表示された着信元に、胸が高鳴った。着信の入った時間は、八時十分。そのまますぐに折り返したかったが、スマートフォンは鞄に戻して、自転車に跨った。

     はやる気持ちでシャワーを浴びて、ベッドに潜り込んだ。気持ちを落ち着けてスマートフォンを手に取る。相手が呼び出しに応じたのは、二度目のコールの後だった。思っていたより早い反応に驚きながらも、兄もまた自分を待っていたのかと甘酸っぱい気持ちになる。
    「……もしもし」
     電話をする時は、いつも何と言えば良いのか分からない。兄と恋人同士となって、素肌を触れ合って。兄に選ばれたと知ってその後に気がついたのは、再び千寿郎の心を底から揺るがす、容赦無い現実だった。
     千寿郎が兄に背中を押されて新しい世界に足を踏み出したと同時に気がついたこと。それは、兄もまた、千寿郎の知らない、広い世界に住んでいるということだった。
     兄はそうしたいと願えば、千寿郎の知らない場所で知らない人に出会い、新しい経験をして、どこまでも続く世界に生きることができる。
     子どもとして守られていた時分には分からなかったこの社会の事実に、千寿郎はいつしか、互いの気持ちを知らなかったあの頃とはまた違う、漠然とした不安を抱くようになってしまった。
    「今日もバイトだったのか? 遅くまで、お疲れさま」
    「兄上こそ。いつもお仕事お疲れさまです」
     胸の内に小さな燻りを抱きながら、慣れた手つきで画面を操作して、カメラをオンにする。するとすぐ間近に兄の顔が現れて、思わず口元が緩んだ。
    「少し、疲れているな? 大学も後期の講義が始まったばかりだろうに。あまり、根を詰めすぎるな」
     杏寿郎はすっと立ち上がった眉毛を少しだけ下げて、千寿郎に慈しむような眼差しを向けた。
    「でも、僕だって」
     千寿郎は枕元に置いてあった冊子を手に取ると、全体が映り込むよう、画面に向かわせた。
    「兄上との京都旅行、楽しみたいんです」
     そう。千寿郎がシフトを詰めている一つの理由は、兄との旅行のお金を貯めるためだった。いつだったか、二人で約束した、秋の京都旅行。千寿郎自身はたわいもない世間話かと思っていたが、兄の方はそうではなかったようだ。久々に訪れた兄のアパートで、行きたいところは無いかと、京都のガイドブック数冊を手渡された。ガイドブックをめくるとすでに、何枚もの付箋が貼られていた。
     紅葉の盛りには少し早いが、互いの休みを合わせるならば、日程としては十月の上旬がベストだった。
    「旅のしおりか! 作ろうかとは言っていたが、本当に作ってしまうとは! 中も見せてくれるか」
     兄の言葉に従って、表紙をめくった。三泊四日の行程に組み込まれているのは、これまで画面越しに話し合ってきた、互いの行きたい場所だ。改めて見ると盛りだくさんな内容だとは思ったが、どこも魅力的で外すことができなかった。
    「素晴らしいな! こうやって形にしてもらうと、ますます旅行気分が高まってくる!」
    「ふふ。僕の夏休みの、最後の課題だったんです」
     千寿郎はしおりの横から顔を出して、兄に満足気な笑みを返した。大学進学祝いに父に買ってもらった真新しいノートパソコンで、四苦八苦しながら作ったものだった。拙いものだとは思ったけれど、やはり喜んでもらえるのは、それも大好きな人が相手であれば、とても嬉しかった。
    「でも兄上。宿泊先は? 僕もバイト代を貯めて、ちゃんとお金を出しますから」
    「あぁ、それは気にしなくて良いんだ。兄に任せておきなさい」
     しおりの中には、三日間の宿泊先も記載する予定だった。千寿郎はできるだけコストパフォーマンスの良いビジネスホテルを探そうとしたが、杏寿郎がそれを阻んだ。でも、と戸惑う弟に、杏寿郎は大丈夫だからと笑って、宿泊先の大まかな情報だけを与えたのだった。
    「もう……」
    「それより千寿郎。その、上の項目は何だ? 恋愛……」
    「わぁ!」
     兄がそこに書かれた文字を読み上げ始めたのに、千寿郎は慌ててしおりを閉じた。
    「これは良いんです! ただの覚え書きですから、気にしないでください!」
    「そうなのか?」
     怪訝そうに首を傾げた兄に、千寿郎は早鐘を打つ胸をそっと押さえた。
    「あ……。もう、こんな時間」
     ふと気がつけば、時計の短針は正中を超えていた。まだ今週も始まったばかりだ。夜更かしをするには早過ぎる。
    「もっとお前と話していたかったが、仕方ないな。布団はちゃんと被ったか? 夜は寒くなってきたから、身体を冷やさないように」
    「はい」
    「……それから。千寿郎、兄はお前を愛している」
    「僕も……兄上を、愛しています」
     おやすみの前にいつも兄の口から紡がれるのは、ホットチョコレートのように甘くてあたたかくて蕩けてしまう、優しい愛の囁きだった。それだけで千寿郎は、ふわふわとした夢心地になって、幸せな眠りにつけるのだ。
    (だけど、できればやっぱり少しだけ)
     ――兄上に触れたい。
     まだ目の前に残る兄の顔に微笑みを返しながら、千寿郎はゆっくりと画面をスライドさせた。

      *

    千寿郎は思い切り部屋の窓を開けた。すると待ちかねたように、秋の朝風が入ってくる。一面に広がるのは深い色をした青空。爽やかな期待を胸いっぱいに吸い込んでから、千寿郎は後ろを振り返った。
     何日も前から仕度していた荷物がそこにあった。普段は剣道の道着を入れているスポーツバッグ。それから、夏に兄が買ってくれた黒のボディバッグの二つ。三泊四日の旅行にしては、荷物は意外と少ない。だがこれは、千寿郎の悪戦苦闘の結果だった。元々荷造りは得意だけれど、とにかく持っていくものが多いのだ。十月上旬の京都は一日の寒暖差が激しい。最高気温は約二十五度。それにひきかえ、夜は十度くらいまで下がることもある。昼間に着る半袖や、夜に羽織る上着も必要だ。
     千寿郎は姿見の前に立った。白地にシンプルなロゴのTシャツに、黒のスキニージーンズ。そして、兄からは意味深なプレゼントももらっていた。
    『このジャケットを旅行に着てくるといい!』
     千寿郎はまだハンガーにかけたままの、ネイビーアッシュのジャケットを見上げた。大学生の人気ブランドのそのジャケットは、ラインがすっきりと美しく、細身の千寿郎の体にぴったりと添った。
     ハンガーからそっとジャケットを外し、千寿郎は滑らかな生地に触れた。
    「ジャケットが必要ってことは、そういうドレスコードがある場所に行くってことなのかな…?」
     兄に旅のしおりは見せたけれど、肝心の宿泊先については知らないままだった。「兄に任せておきなさい」と爽やかに、だが少しいたずらめいて目を細める、眩しい笑顔。それを思い出すたび、千寿郎の鼓動は夏の最後の蝉並みにうるさくなる。何かサプライズを用意してくれているのだろうか。何と言っても、二人きりの旅行はこれが初めてなのだ。疑問は甘い期待に色を染めていく。まるで紅葉の始まりみたいに。
     急に熱くなった頬を冷まそうと、勢いよく頭を振る。すると、それに呼応するかのようにスマートフォンが震えた。
    『着いたぞ』
     画面に兄からのメッセージが輝いた。千寿郎は慌ててジャケットを羽織った。いまにも兄が階段を昇ってくる足音が聞こえてきそうだ。と思った瞬間、玄関のチャイムが軽やかに鳴った。

    「荷物はこれだけか?」
     スポーツバッグを軽々と肩から下げ、杏寿郎が先に階段を降りながら聞いた。千寿郎はまだ赤い頬を見られないように、深く頷いた。アパートの駐車場には兄のSUVが止まっていた。杏寿郎は素早くバックドアを開け、ラゲッジに千寿郎の荷物を置いた。その横には、兄のキャリーケースがある。意外にも兄の荷物の方が大きいことに、千寿郎は驚いた。
    「兄上、荷物が多いんですね」
    「ん?……ああ、まあ、三泊もするからな」
     兄には珍しく、歯切れの悪い言い方に首を傾げていると、その背に優しく腕を回された。
    「さあ、乗りなさい。土曜日だから渋滞はないが、早めに着くようにしよう」
    「あ、そうですね」
     行きの新幹線は自由席にしてあった。空席状況が〇だったのは確認してあるが、早いに越したことはない。促されるまま助手席に乗ると、兄が腕を伸ばしてシートベルトを締めてくれた。千寿郎は再び真っ赤になった。
    「兄上、僕、子供じゃないですよ」
    「ああ、すまん! だが心配でつい手が出てしまうのだ」
     お前は、幾つになっても俺の可愛い弟だから。
     そう言って笑う兄を、千寿郎はちょっと睨んだ。想いが通じ合ってから、キスだって、いやそれ以上の触れ合いだってしている。なのに、兄は時折こんな風に千寿郎を子供扱いする。もちろん嬉しいのだけれど、千寿郎だってもう大学生なのだ。そろそろ「可愛い弟」から、「大人の恋人」にレベルアップしたかった。
    (やっぱり、この旅行で、兄上と一つ先に進みたい…!)
     千寿郎は抱えていたボディバックを強く握った。旅のしおりの感触を指に滲み込ませる。その中には、まだ兄に見せていないページがあった。
    『恋愛成就祈願スポット』
     京都には、恋愛成就を司る神社や仏閣が多い。それらを巡ることで、何とか兄との縁を、絆を一層深めたかった。
    (神頼みなんて、消極的かもしれないけど……でも、兄上をどうやって誘えばいいかなんて、全然分からないもの……)
     以前、向学のためにと買ったBL本も、結局役に立てられずに終わった。今回の旅行に着ていく服だって、できるだけ大人っぽく見えるように厳選に厳選を重ねたものだ。それでも、一回りの年齢差はどうしたって縮められない。兄にとって自分はやっぱり子供で、恋人である前に、弟なのだ。
     少しだけしゅんとしてしまった弟に気づいたのか、温かな指が千寿郎の頬に触れた。ハッと見上げると、運転席に座った兄が、面映ゆそうに千寿郎を見ていた。
    「久しぶりに会うと、一段と眩しいな……そのジャケットも、よく似合ってる」
     甘やかな口調。だがもっと甘いのはその眼差し。付き合う前には決して見せなかった兄の、「恋人」の貌。あっと目を逸らして、無意識に逃げようとした頭を結髪ごと優しく引き寄せられた。吐息を微かに感じた刹那、千寿郎の視界と唇は、兄によって塞がれた。

     新幹線のホームは、連休の最初に相応しく混雑していた。二人分の荷物を軽々と持ち、兄がゆっくりと前を歩くのを、千寿郎は慌てて追いかけた。
    「兄上、荷物は僕も持ちますから」
    「大丈夫だ、千寿郎はチケットを持っていてくれ!」
     そう言って笑う兄の背中を、千寿郎はようやくじっと見つめた。車中では不意打ちのキスのせいで、まともに目を見ることもできなかった。改めて、すらりとした兄の後姿を見る。ダークグレーのジャケットに、黒のVネックのインナー。ボトムスはジャケットと同色のデニム。煉獄家男子の証である金と赤の髪に、潔いモノトーンは恐ろしいほど映えた。すれ違う人が必ず兄に目を留めるのを、千寿郎は甘い棘を飲んだように見つめた。千寿郎の胸にふと、前に感じた、兄の住む千寿郎の知らない世界への不安がよぎった。すると、兄が不意に振り向いた。
    「千寿郎、おいで、手を繋ごう」
    「えっ?」
     伸ばされた大きな手と兄を交互に見つめる。ふ、と杏寿郎が微笑み、千寿郎の耳元へ顔を近づけた。
    「周りの人たちがお前ばかり見ている。手を繋いでいないと連れ去られそうだ」
     千寿郎が一気に耳から真っ赤になった。まだ笑っている兄は、返事も待たずに千寿郎の手を取った。そのまま彼を列車まで連れ去ったのは、ほかでもない兄だった。
     発車時刻は九時ちょうどだった。のぞみ二一三号新大阪行き。京都到着予定は十一時十五分。早めに来たおかげで、ほどよい席が取れ、ようやく腰を落ち着けた二人は千寿郎の旅のしおりを覗いた。
    「ホテルに荷物を預けたら、早速向かいましょうか」
    「うむ! 最初は嵐山だったな! 昼飯もそこで食べよう!」
    「はい! 昼食の場所は、僕に任せてくださいね。それにしても、今日のホテルはどこなんですか? そろそろ教えてくれても……」
     拗ねたように唇を尖らせる弟を、杏寿郎は魅せられたように見つめた。ようやくにこっと笑うと、スマートフォンの画面を見せた。
    「ここだ! 前に千寿郎が、コスパの良いホテルを選んでくれていただろう? 最初の宿はその中から選んだんだ。京都駅から徒歩三分でとても近い上に、大浴場がある!」
    「あっ! ここ、素敵だなって思ってたんです! 客室のお風呂もユニットバスじゃなくて独立しているし、お部屋も広いんですよね」
     自分の案を兄が採用してくれていて、千寿郎は嬉しかった。まるで子供みたいなはしゃぎように、杏寿郎は思わず弟の頭を優しく撫でた。
    「二人の旅行だからな。それに、こうして旅のしおりまで作ってくれて、ありがとう。お前も、部活やバイトで忙しかっただろうに」
    「いえ、僕なんて。でもバイトは美味しいコーヒーも飲めるから、一石二鳥なんです。今度淹れ方を教わるので、兄上にコーヒーを淹れて差し上げますね」
    「それは楽しみだ! 剣道の方はどうだ?」
     千寿郎は大学で初めて剣道部に入った。それまでは、父や兄から直接指導を受けていたのだが、大学進学で一人暮らしを始めたのを機に、入部したのだった。
    「秋季大会は補欠だったけど、来年の春季大会では団体戦の次鋒で出ます」
    「そうか! すごいな!」
    「兄上の方がずっとすごいです! 全日本学生選手権の個人戦で全国優勝してるじゃないですか。でも僕は、個人戦ではなかなか勝てなくて……」
     心なしかうなだれる千寿郎の顎を、優しい指が掬い上げた。
    「千寿郎、剣道において団体戦は非常に重要だ。剣道自体は個人の戦いでも、団体戦では味方の力を信じ、戦局によって己の役割を変えていく。特に次鋒は、先鋒の勝敗を受け、流れを決める大事な役割だ。体はまだ小柄だが、スピードがあり機転が利くお前だからこそ、次鋒としての責務を全うできる。俺も、団体戦では次鋒を務めることが多かった」
    「兄上も?」
     千寿郎は驚いた。兄はその傑出した強さから、主に個人戦に特化していたのだ。杏寿郎は懐かしそうに弟を見つめて微笑んだ。
    「中学生の頃だ。千寿郎はまだ小さかったから覚えていないのだろう。団体戦は好きだったぞ。共に相手に全力で挑む中で、前世で同胞たちと戦ったことを思い出したものだ」
     穏やかな口調の中に、わずかな寂しさが確かにあった。千寿郎は兄をじっと見つめ、そっとその胸に寄り添った。人目など気にならなかった。恐らく兄は、失った仲間たちを思い浮かべているのだろう。鬼のいない今世でも、悲しみの記憶は消えない。そんな兄を、少しでも癒したかった。互いに記憶を持っていると知った今は、余計に。そんな千寿郎の想いに気づいたのか、杏寿郎も腕を伸ばして弟を優しく抱き締める。古都に向かう車窓に重なる影を映しながら、兄弟はただ、互いの心音に聴き入っていた。
     すると唐突に、ぐぅうう、と兄の腹の虫が鳴った。二人は目を見合わせ、弾けたように笑った。
    「すまん! 朝飯はきちんと食べたのだが、もう腹が減った!」
     千寿郎がスマートフォンを見た。
    「十時半かぁ……まだお昼まで時間がありますし、駅弁でも食べますか?」
    「よもや! ここで食べられるのか?」
    「確か車内販売があったと思います。あっ! 兄上、ちょうど来ましたよ」
     タイミングよく、カートを押した女性販売員が入ってきた。そこに山と積まれた駅弁の箱を見て、杏寿郎の目が輝いた。
    「和牛牛鍋弁当か! これがいい! 販売員さん、こちらを二人分で十五個ください!」
     販売員が目を丸くするのを、千寿郎はすまなそうに見上げた。
    「兄上、嵐山でも食べますから、もう少し控えては? それに、お弁当が売り切れてしまいますよ」
    「うむ! 確かにそうだな! では俺は五個にしよう! 千寿郎は?」
    「じゃあ、僕は三個で」
    「よし! では八個もらおう!」
     販売員が後ろにのけぞりそうになる。周囲の乗客たちの視線が集まる中、颯爽と兄が財布を出すのを、慌てて千寿郎が止めた。
    「兄上、お弁当代は僕に出させてください!」
    「気にするな、千寿郎。これは社会人である兄の役目だ」
    「でも、交通費も宿泊代も、みんな兄上が払ってくださったんですよ? 僕だって旅行のためにバイトしてお金を貯めたんです! だから、ね? 兄上」
     必死ながらも可愛いおねだりに、杏寿郎が歯を食いしばって天井を仰いだ。
    「むぅ……俺はお前のおねだりに滅法弱いのだ。仕方がない、ここだけはご馳走になろう!」
    「よかった! 兄上、ありがとうございます!」
     幸運にも、駅弁は秋の行楽キャンペーンで大特価だった。テーブルに積み上げた駅弁の一つを取って蓋を開けると、途端に牛鍋の甘い匂いが鼻腔をくすぐった。手を合わせ、いただきます!と声を合わせるや、早速箸を動かす。ひと口を口に含んだ瞬間、千寿郎の目が輝いた。
    「美味しいです! お肉も柔らかくて、玉ねぎがつゆを吸ってすごく甘い!」
     千寿郎が嬉しそうに笑うのを、杏寿郎は深い眼差しで見つめた。
    「……あの時も、こんな風にお前に食べさせたいと、そればかりを考えていた。夢が一つ、叶ったよ」
     千寿郎の金緋の眼が見開かれた。弟の口元に珍しくついた飯粒を、武骨な指がそっと取った。そのまま口に運んで優しく微笑む。そんな兄を見て、千寿郎は頬を真っ赤に染めながらも瞳を潤ませた。
    「……本当に、美味しいです。兄上と一緒に食べられて、幸せです」
    「俺も幸せだ! お前といるからな」
     満面の笑みで笑い、杏寿郎は弟を眺めた。
     ……そうだ、お前がいたから、ずっと幸せだった。
    「え? 何か言いました? 兄上」
    「……ああ、うまいな! 千寿郎!」
    「はい! うまい!です‼」
     それから、二人の楽しげな「うまい!」が車内に響くと、我先にと牛鍋弁当の注文が重なり、あっという間に完売御礼となった。そして八個目の駅弁が空になった頃、京都駅到着を知らせるアナウンスが聞こえてきた。

    「うっわ、暑い!」
     京都駅に降り立つなり、千寿郎が言った。関西特有のカラッとした日差しが眩しい。今日の京都は快晴。気温は異例の二十九度となっていた。
     ホテルまでは徒歩で三分。なんていうことはない距離なのに、千寿郎はすでに汗だくだった。
     ホテルに到着するや、千寿郎はその外観に陶然と魅入った。まるでスタイリッシュな外資系オフィスビルの趣。だが、一歩エントランスに入れば、長い二本のエスカレーターが伸び、まるで空港のコンコースのようだった。ところが、フロントのあるフロアに着いた途端、また雰囲気が一変した。深海さながらの、深い紺色のファブリックで統一されている。心地良いランダムさで配置されたテーブルとソファ。壁の一隅には本が置かれたシェルフがあり、ゆったりと本のページを繰る客の姿は、時間の流れが止まった印象を与えている。
     実際のチェックインは午後三時からのため、杏寿郎はフロントに荷物を預けると、千寿郎のところへ戻ってきた。
    「千寿郎、すまない、外は暑かったな」
     そう言いながら、自分もジャケットを脱いだ。黒のVネックのTシャツは、兄の逞しい体躯をいつになくシャープに見せていた。思わず千寿郎がぼぉっと見惚れていると、兄は苦笑して腕を差し伸べた。
    「千寿郎、お前も脱ぎなさい。さすがに暑いだろう」
     と言って、慣れた仕草で弟のジャケットを肩口からするりと脱がせる。不意打ちをくらい、されるがままになっていた千寿郎は、急に兄の手が止まったことに気づいて見上げた。すると、兄が口に手を当て、珍しく赤面している。不思議に思って、千寿郎は自分の胸を見下ろした。その瞬間、あっと慌てて手で胸を隠した。汗で濡れたせいで、Tシャツからうっすらと乳首のピンク色が透けていたのだ。急いでボディバックからタオルを出し、千寿郎は「ごめんなさい!」と叫びながらラバトリーへと走った。
     藍色の空間に入るなり、鏡の前で慌ててタオルでシャツを拭う。換気がよいラバトリー内なら、すぐに乾くだろう。それでも、羞恥は簡単には消えそうになかった。日中の京都は暑いと聞いていたから、アンダーシャツを着てこなかったのが失敗だった。見られた。兄はきっと見たはずだ。もちろん、裸なんてさんざん兄に見られている。兄弟だし、ここ最近は時折だが体にも触れられている。胸だって、兄に吸われたことさえある。でもそれはいつも暗い室内でのことで、こんなにも明るい場所で、至近から見られたのは初めてだった。
    「どうしよう……こんなことで恥ずかしがってて、本当に一歩先に進めるの?」
     鏡に映った、真っ赤な顔をした自分は、まるで生まれたての初心な生き物みたいに頼りなかった。
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