Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    杏千リレー

    杏千二人でのんびり京都旅

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 💛 👏 😍
    POIPOI 5

    杏千リレー

    ☆quiet follow

    ④杏千リレー小説・京都編二日目・1

    #杏千
    apricotChien

    ④杏千リレー小説<京都編・二日目・1>「うわぁ、やっぱり高い……!」
     本堂への参拝を終えた二人は、かの有名な清水の舞台へと上がっていた。四階建てビルの高さにも匹敵するその場所から見る風景は圧巻で、千寿郎は欄干に身を預けて、秋の京都に見惚れた。広い空間にはまだ人も疎らで、まるでこの舞台を二人占めしているような気分になる。
    「美しいな。秋の京都が一望できる」
    「ええ」
     紅葉の向こうに見える古都の街並みは、百年、いやもっと古い歳月を残していて、千寿郎の胸に遠い郷愁を誘った。そんな弟の様子を見て、杏寿郎は欄干の上に乗せられた手に自らの手を重ねた。千寿郎はそっと兄の顔を窺い見る。すると杏寿郎は優しく目を細めたが、何も言わなかった。そのまま目を閉じて、穏やかな時間を受け入れる。視界を遮断してしまえば古都の匂いが、秋風の感触が、兄の体温が。より一層濃く感じられた。
     しばらくそうやって清水の舞台を満喫していたが、やがて背後からざわざわと大勢の人の気配がした。早朝のバスツアー客だった。旗を持ったバスガイドを先頭に、国内外のツアー客がぞろぞろとこちらへ向かってくる。
    「さぁ、ここが皆さんご存知、『清水の舞台』です。飛び降りる話ばかりが有名になっていますけれど、本来はご本尊の観音さまに奉納するための能や歌舞伎、相撲などが奉納される場所なんですよ。それは現代でも節目節目に行われています」
     案内に、あちこちで様々な声が上がった。その中の一つに、『何でこんな所から飛び降りたがるのか』というものがあったのを、ガイドが拾い上げる。
    「一つの説ですと、自分の願いを叶えるため、ですね。ここから飛び降りて成功すれば願いが叶い、失敗しても極楽浄土へ行ける、という噂が市井に広まっていました。記録として残っているものでは、江戸時代に飛び降りを図った人数は二百三十四人で、その生還率は八十五パーセントほどだったそうです」
     ガイドの説明に耳をそば立てては感心していた千寿郎に、杏寿郎がこっそりと耳打ちをする。
    「そうか、願いが叶う。……これからもお前と共にいたいという願いが叶うのならば、兄はここから飛び降りることなど少しも厭わない。むろん、生きて戻ってくるがな!」
    「もうっ、兄上ったら!」
     二人のやり取りが聞こえていた訳では無いだろうが、ガイドは一連の説明に、もちろん今は飛び降りることは禁止されていますけどね、と付け足した。

     それから二人は奥の院へと移動した。その途中で千寿郎は一度足を止めてきょろきょろと辺りを見回したが、本来の目的は観光だ。その場所は後で良い、と思い直して兄の後を追った。
     奥の院。清水寺の写真を撮るなら、本堂の全貌が入るこの場所がお勧めだと聞く。すでに何組かの観光客がベストスポットが空くのを待っていたので、千寿郎たちも順番に並んだ。
    「観光雑誌でよく見る写真ですね」
    「本当だな」
     昨日のレクチャーで少しは自撮りに慣れたのか、杏寿郎は小さな画面に二人の姿と清水寺をうまく収めた。
    「すみませーん」
     二人でスマートフォンを覗き込んでいると、背後から高い声を掛けられる。振り向くと女性四人組の観光客が、カメラを片手にこちらを向いていた。
    「あのー、写真撮って欲しいんですけどぉ」
     そう言ってカメラを手渡されたのは、杏寿郎ではなく千寿郎の方だった。
    「えっ? あっ、僕で良いんですか?」
    「はい。お願いします!」
     指示されるまま、合図をして四人をカメラに捉えた。四人の女性は何度かポーズを変えては、その度に千寿郎にシャッターを押すように頼んだ。三ポーズ撮ってようやく満足したのか、四人が千寿郎の側へと戻ってきた。カメラを確認してもらい、無事にオッケーを貰う。めいめいに礼を言われたが、何故か千寿郎の方が深々と頭を下げた。
    「ふふ。観光地って感じですね」
    「そうだな」
     見知らぬ地での突然の声掛けにどきどきしてしまったが、やはり兄の側に戻ると落ち着く。千寿郎は兄の腕が触れるほど近くに寄ると、ほう、と息を吐いた。
    「ねえねえ、あの子可愛かったよね」
    「めっちゃ可愛かった!! 高校生? 大学生かな」
    「連れの男の人もカッコ良かったよー!」
    「歳が離れてそうだったけど。似てたよね。兄弟?」
    「かな」
    「だね!」
    「良いなぁ、イケメン兄とカワイイ弟! あっ、見て見て! すっごい仲良さそう!」
     寄り添う二人の後ろで、先ほどの四人組がはしゃいでいる。声を抑えているつもりかもしれないが、丸聞こえだった。千寿郎は慌てて兄の側から離れようとする。
    「千、段差がある。気をつけなさい」
     杏寿郎はそんな千寿郎の一歩先を歩いて、下段からエスコートするかのように片手を差し出した。途端に背後で黄色い歓声が上がる。驚いて立ち止まった千寿郎に、杏寿郎は悪戯っぽく片目を瞑った。兄のこれは意図的だ、たちが悪い。
    「兄上っ!」
    「すまない。時に、お前は俺だけのものだと全世界にアピールしたくなってしまうんだ」
     うっそりと笑う兄を、千寿郎はきつく嗜めた。だけど兄の言葉が何度も頭の中で繰り返されて、おまけに昨夜のベッドの中での睦みごとまでもが思い出される。涼しいはずの秋の早朝に、顔がとても熱くなるのは止められなかった。

     奥の院から階段を降りたところにある音羽の滝では、三つの願いの成就を選べた。『恋愛成就』に『学業成就』という文字が見られたが、杏寿郎の『延命長寿』を願って、千寿郎も兄と共に右端の水を頂いた。十月の朝、少しひんやりとした水は、色々あって火照った体に有り難かった。すると杏寿郎が腕時計を見て、そろそろ胎内めぐりの時間だと言う。二人は来た道を戻って、随求堂へと向かう。その途中、千寿郎は往路で気にしていたある場所で、今度こそ足を止めて兄を呼んだ。
    「どうした? 千寿郎」
    「あのっ……あの、僕……」
    「ん? 地主神社? ここは工事中のようだが」
    「えっ?」
     兄の言葉に、慌てて神社の方を向く。先ほど通った時には気がつかなかったが、神社の入り口に『社殿修復工事のため閉門』と書かれた紙が貼られていた。千寿郎はがっかりと肩を落とした。
     ――欲張ったからだ。昨日だって恋愛成就の御守りを買ったばかりなのに、あっちもこっちもお願いしようとしたからだ。
     地主神社の前ですっかり萎れてしまった千寿郎を見て、杏寿郎はその肩にポンと手を置いた。そして何かに気がついたのか、受付の方へ向かって、そこに居た巫女と話をし始めた。
     杏寿郎はしばらくして戻ってきた。どうしたのかとその顔を見上げると、少し照れ臭そうに頬を掻く。
    「ここは縁結びの神社なのだな。普段なら恋占いの石というもので願掛けができるらしいが、入り口に書いてあるように今は閉門中だ。だがその代わりに、縁むすび特別祈願を毎日受け付けているそうだ。……それで昨日も千寿郎と揃いの指輪守りを授かったところだが、また今日も祈願を頼んでしまった。兄はとんでもない欲張りだな」
    「……っ! 兄上! そんな、」
     千寿郎はぶんぶんと頭を横に振ると、杏寿郎の胸元にそっと顔を押し当てた。
    「嬉しいです……すごく」
    「千……」
     コソコソと恋愛成就祈願スポットをリストアップしてはしおりに入れ込んだのが、なんだかすごくちっぽけなことに思えた。もう十分に結ばれたはずの赤い糸がうっかり解けてしまわぬよう、幾重にも幾重にも重ねて結びたいのは、自分だけではないのだ。そう思い至ると、こんなところで兄への想いが溢れ出て、どうにも止められなくなってしまいそうだった。
    「昨日の御守りも、ここに」
     千寿郎は兄の胸から身体を離すと、ボディバッグの向きを変えた。すると、さりげなく下げられたピンク色の御守りが姿を現す。野宮神社で授かったペアの指輪御守りは、杏寿郎に水色、千寿郎にピンク色、と分けて持つようにしたのだ。
    「ああ、俺も持っている。まだ、どこに付けようか迷っているのだが」
     杏寿郎もまた、胸ポケットから水色の御守りを取り出した。それから千寿郎の手を取って薬指を伸ばすと、すうっと目を細めた。
    「ここにも……残っている」
     昨夜、生まれたままの姿で行った儀式が思い出された。場所は公衆の大浴場なのに、彫刻のように美しい肉体の兄を前に白い蒸気に包まれた神秘的な状況は、まるで神聖な教会の中にいるかのようで。
    「……で、でね! ここが地主神社なんだけどー」
     甘い余韻に浸っていると聞き覚えのある声が聞こえてきて、千寿郎は慌てて手を引っ込める。
    「こっち! こっちですよね、兄上っ!」
     視界の端に先ほどの四人が入り込む。千寿郎は何でもない振りを装って、早足で随求堂への道を進んだ。

     胎内めぐりとは、“随求堂のご本尊である大随求菩薩のお腹の中を巡ること”だ。母の胎内に戻ってもう一度この世に生まれ変わることで、世界に感謝し新しい自分になる。その時ひとつだけ、願いを叶えてくれるという。胎内めぐりはとても人気があり、二人が到着した時にはまだ受付が始まったばかりだというのにすでに十人ほどの列ができていた。それでも胎内めぐり自体は時間が掛かるものではなく、最初に入った組も五分ほどで出てきて、千寿郎たちにもすぐに順番が回ってきた。
    「真っ暗だな」
     足を踏み入れるや否や、杏寿郎が囁いた。足元は覚束ないが壁沿いに数珠が巡らされているから、それを辿って前へ進めば良い。二人の前には付き合いたてと見られる初々しいカップルが入って行ったが、暗闇の中で甘い雰囲気になることもなく、黙って静かに進んでいった。それに倣ったわけではないが、杏寿郎も千寿郎も、言葉を発することなく暗闇の中を進んだ。
     二人がこの世に再び生を受ける前の、母の胎内。同じ胎内から生まれ出た二人は、あの頃と同じように互いを求め合ってしまった。前世では胸の内に燻る想いを抱いただけであったものが、今世ではそれ以上を求め、今や身も心もひとつになろうとしている。それは、神仏に背く破戒的な行為だろうか。それでも――。
     やがて二人の前に、ほのかな光が現れた。それは太陽や人工灯の光ほどは明るくない、もっと原始的な灯りに近い。あたたかくて優しい、母の胎内から見る光のようだった。
     光の下には、何か文字のようなものが刻まれた石が置かれていた。そう言えば、入り口に貼り紙があったことを思い出す。石に刻まれた文字は大随求菩薩の梵字である、と。
    「……兄上」
    「うむ」
     二人はそれ以上言葉を交わさず、黙って石を拝んだ。

     胎内めぐりを終えて外界に戻ると、空はとても高く、眩しかった。たった五分ほどの暗闇は、千寿郎に色んなことを考えさせた。前世で分たれた兄との繋がり、今世でも続いた兄との縁、血の繋がった兄弟で愛し合うこと。罪深く、後ろ暗いことだとはもう、嫌になるほど承知していた。それでも二人で選んだ道だった。
     母の胎内を何度巡ろうが、きっとこの想いが変わることは無い。
    「兄上」
     つ、と、先に手を触れたのは千寿郎だった。大きさの違う手が、指先を遊ばせて少しずつ絡み合って、固く結ばれる。
     ――千。愛している。
     兄に向けられる眼差しは、言葉にされるより雄弁だった。胎内めぐりをすることでたったひとつ、互いに願ったものが聞かずとも同じであろうことも。

     清水寺の次の観光スポットは、南禅寺だ。
     朝食バイキングで腹ごしらえをしたとは言え、広い境内を歩き回って二人とも腹ぺこだった。時刻は午前十時を過ぎている。バス停まで続く清水坂の両端に並ぶ店々も、賑わい始めた頃だった。
    「うわぁ、美味しそう!」
     とある店の前で、千寿郎は思わず立ち止まった。今年に入ってオープンしたばかりの店は、開店時間には少し早いようだった。しかしすでに店前に並んだ客も多く、店員は店を開ける準備に入っていた。
    「ほう、抹茶か! 良いな」
    「本場ですもんね。兄上、ちょっとお腹に入れませんか?」
     自他共に食いしん坊と認める兄よりも先にそう言ってしまった自分に気がついて、千寿郎ははっと頬を染めた。そんな千寿郎に杏寿郎は小さく笑うと、さっそくメニュー表を手に取って確認し始める。
    「……ふむ。俺は抹茶ラテと抹茶アイスにしよう。千寿郎はどうする?」
    「僕は抹茶ラテと……抹茶アイスもなかにします」
     恋人同士としての甘い時間も大切だが、美味しいものを食べる時間も大切だ。食べ歩きなど母が見たら眉を顰めるかもしれないが、この旅行くらいは見逃して欲しい。二人はそれぞれ手に持った甘味にぱくりと食らいつくと、顔を見合わせて笑った。

      *

    「南禅寺の紅葉は、まだ先でしょうか」
     清水道から東山三条へ。バスを乗り継ぎ、最後部座席に腰を落ち着けたところで、千寿郎が兄の手に触れながら尋ねた。さっき食べた、抹茶甘味の深く引き込まれるような味わいが、まだ二人の舌に残っている。兄弟の距離は自然と近くなっていた。後ろに誰もいないという密やかな安心感が、いつになく千寿郎を甘えたにしていた。
     そんな弟に瞳を和ませながら、杏寿郎はその手を握り返した。優しく引き寄せ、頭を胸にもたれさせる。これにはさすがに千寿郎も頬を赤らめた。
    「あ、兄上、あの」
    「……そうだな、まだ色づいてはいないだろう。だがその分、観光客も少ない。だからゆっくり楽しめる」
     二人きりで、と髪に口づけながら兄がささやいた。風に煽られる柳のように、千寿郎は震えた。頬は紅葉を追い越して色づいてしまった。その早染めの紅に、杏寿郎は目を細めて魅入った。

     バスを降り、木漏れ日の白と緑に埋め尽くされたインクライン(傾斜鉄道)をそぞろ歩いた。紅葉シーズン前だからか、人影はなかった。杏寿郎は千寿郎の手を取り、線路伝いに歩いていく。兄の確かな温もりに包まれながら、昼の白い光を浴びる背中を、千寿郎は眩しそうに見つめた。不意に、その背が振り返ると、優しく千寿郎の手を引いた。
    「千、隣を歩いてくれ」
     千寿郎は目を見開き、小さく頷いた。引き寄せられるまま、兄の横に寄り添う。まだ身長差はあるけれど、見上げる位置は昔とは変わっていた。
     そうだ。いつだって、兄の背中ばかりを追いかけていた。遠い昔からずっと。でも今は、こうして並び立ち、共に歩むことができる。それを許してくれる時間が二人にはある。そんな当たり前の、それでいてかけがえのない奇跡が痛いほど嬉しくて、千寿郎はぎゅっと兄の手を握り返した。杏寿郎の眼差しが、陽の光に溶けて注がれた。

     南禅寺の三門の前に立つと、千寿郎は音なく溜息をついた。その巨大さと壮麗さは、千寿郎の目前に迫り無言で沈黙を命じていた。静かに朽ちていく宿命すらも漂わせて。これは人の手が造ったもの。だが、その大きさが放つ厳かな重圧は、人がどれほどちっぽけなものかを知らしめているようだった。  
     言葉を奪われた千寿郎の隣で、兄が深い音を立てて息を吸った。
    「さすがは、日本三大門の一つだな! 『天下龍門』とも呼ばれているが、一番有名なのは、歌舞伎の『楼門五三桐』だろう!」
     重苦しい空気を爽やかに吹き飛ばすその口調に、根こそぎ救われた気がして、千寿郎は兄を見上げた。
    「石川五右衛門が、『絶景かな、絶景かな』と詠った三門ですね!」
    「うむ! だが史実によれば、この三門は室町時代に焼失し、江戸時代に再建されている。つまり、安土桃山時代に実在したといわれる石川五右衛門には、登るどころか見ることすら不可能だったということだな!」
     いかにも歴史教師らしい注釈に、千寿郎は鼻の頭に可愛い皺を寄せて笑った。
    「確か、あの物語も矛盾だらけなんですよね。五右衛門とその宿敵の秀吉が幼馴染だったり、実の父親が明王朝の将軍だったり。だから、歌舞伎ではこの『南禅寺山門の場』の場面だけを演じるようになったと、兄上が……」
     言いかけて、千寿郎は小さく息を飲んだ。これは前世の記憶だ。兄弟で過ごす僅かな時。兄から歌舞伎の話を聞くのは、千寿郎の数少ない幸せな時間だった。
     その時、陽光を浴びて、三門の黒い木壁が金色に輝いた。眩しそうに見上げる千寿郎を、杏寿郎が思い深げに見つめた。
    「全部、覚えていてくれたのか……俺の話を」
     どこか痛みを含んだ声音に、千寿郎が傷ついたように息を吸った。
    「兄上」
    「いつか一緒に観に行こうと言ったな。母上が好きだった能や歌舞伎を。だが優しいお前は、俺に約束すらさせなかった……守れないと、分かっていたから」
     杏寿郎は、握っていた弟の手を口元に引き寄せた。ささやきながら、薬指の約束の場所に口づける。その唇にかすかな震えを感じるや、千寿郎は爪先が白くなるほど強く握り返した。
    「違います、兄上……約束など、いらなかったのです。あの頃の僕は、どんなに離れていても、ずっと会えなくても、兄上がご無事ならそれでよかった。それだけが、千寿郎のただ一つの願いでした」
     知らず口調は前世に戻っていた。杏寿郎の虹彩の色が深まった。同じ焔を目に宿して、千寿郎は真っ直ぐに兄を見上げた。
    「だけど今、こうして兄上のそばにいられる。隣で手を握ってもらえる。それがどんなに幸せか、分かりますか?」
    「千……」
     にこやかに微笑みながらも、握り返す弟の手指は冷たい。千寿郎の切ないほど必死な笑顔を食い入るように見つめたのち、杏寿郎はふっと破顔した。
    「そうだな、俺も、この上なく幸せだ! だが今は、約束させてほしい。一緒に歌舞伎を観に行こう! 『楼門五三桐』も、母上が好きだった能の『羽衣』も。お前の願いは、全てこの兄が叶える……約束する、千寿郎」
     揺るぎない誓いの言葉に、千寿郎は睫毛を震わせて頷いた。
    「……はい、兄上」
     本当の願いは、もう叶っているけれど。こうしてただそばにいられたら、もうそれだけで、この上ない幸福なのだから。
     溢れる想いを瞳に閉じ込め、千寿郎は兄を見つめた。そして、握られたままの手を子供っぽい我儘な強さで引っ張った。
    「じゃあ、まずはこの三門に登りたいです! 南禅寺境内が一望できるんですって!」
    「よし! 行こう!」
     陽光が色褪せるほど眩しく微笑み合い、兄弟は手を繋いだまま走り出した。

     三門から降りて、地上に戻った後も、二人の視界はまだ空の上にあるようだった。ふわふわとした視線をめぐらせる弟を、杏寿郎は優しく見つめた。
    「千、今度は兄の願いを叶えてくれまいか?」
     たちまち、千寿郎の目が兄に戻って輝いた。
    「もちろんです!」
     手を伸ばせば、すぐに指先ごと絡め取られる。
    「こっちにおいで」
     甘い声音とは裏腹に、杏寿郎の手には攫うような力が込められていた。眩暈を覚えつつも、千寿郎は兄に従った。南禅寺の奥を抜け、煉瓦造りの優美なアーチを描く水路閣を見上げながら歩く。山道を少し登った先に、整然と並んだひし形の敷石が見えた。一直線に敷かれた参道が導くのは、まだ緑を残した紅葉に隠れた塔頭、駒ヶ滝最勝院。その厳かな佇まいを見た瞬間、千寿郎はハッと息を止めた。そのまま兄を見上げる。端整な貌は、どこか少年めいたはにかみが仄見えた。
    「どうしても、ここにお前と来たかったんだ。二人で見たいものがあってな」
     温かい手に導かれるまま、境内に入る。すると、千寿郎も画像で見知っていたものがあった。
    「縁結びの松……」
     伸びやかな曲線を描いて天に向かう松。その根元には百日紅が根付いている。
     杏寿郎は弟の手を握ったまま、豊かに枝葉を広げる樹を見上げた。
    「この松は、百日紅の木の股に松の種が落ちて根を張ったものだという。二本の異なる樹が一本の樹となり、長きにわたり共に生き続けている……まるで」
    「連理の、枝みたいに……」
     兄の言葉を引き継ぎ、千寿郎が呟いた。ゆっくりと二人の視線が重なる。あたかも吸い寄せられるように、いや、元から一つであったものが戻ろうとするかのように、二人は寄り添った。
    「兄上……僕、この樹をずっと前から知っていたような気がして……不思議ですね、前世でも、ここを訪れたことはないはずなのに」
     微かにうろたえながら見上げてくる弟を、杏寿郎もじっと見下ろした。
    「千、俺もそうだ。もしかしたら、俺たちは前世だけでなく、そのずっと前の世も、こうして共に在ったのかもしれないな」
     まるで、地球の傍に永遠に月が在るように。そう呟いて、杏寿郎は弟の頬を引き寄せた。人影のない木漏れ日の影の下、兄弟だけが時を止めていた。最も生を感じさせてくれる触れ合いが口づけなら、これ以上のものなんてあるのだろうか。ようやく慣れてきた息継ぎを繰り返しながら、千寿郎は陶然と考えていた。
     すると、熱を持った逞しい腕が、千寿郎の腰を強く抱き寄せた。熱い舌が唇をこじあけて割り込んでくる。あっ、とたじろぐ呼吸すら吸い取って、兄の頬骨が自分の頬に押し付けられるのを感じた。長い睫毛がふわと開き、奥から燃える金緋が千寿郎を捉えている。その虎のような眼。ぞわりと背を這う震えは畏れであると同時に痺れだった。左手は弟の腰を捕らえ、右手はTシャツの胸元をなぞる。ねっとりと心臓の位置を確かめるように触れてくる。確かな欲望を刻むその指先に、千寿郎は捕らえられた獲物のように震えた。逃れようと背けた頬を、顎ごと掴まれ引き戻される。不埒な指先は、ついに千寿郎が恐れていた頂にたどり着くと、優しくあやすように突起を転がし始めた。
    「……んっ、あ、あに、う……」
     頭を揺すって抵抗しても、兄の手はびくとも動かない。また唇を奪われて、口腔深くに侵襲される。その意識まで全てを逃がさないと言われているようだった。
     ……なぜ? さっきまであんなに穏やかで、いつもの兄だったのに。
     とうとう涙目になって逞しい肩に縋り付くだけになっていた時、兄の上着から軽い着信音が響いた。
    「!」
     弾かれたように唇を離すや、荒い息で肩を揺らしたまま、二人は見つめ合った。珍しく杏寿郎も頬を紅潮させている。まるで自分が信じられないような驚きを眼に滲ませて。静けさが取り巻く松の下で、現実の音がやけに幻想的に感じられた。
    「……あの、兄上」
     ようやく千寿郎が声を出すと、杏寿郎は慌てて胸ポケットからスマートフォンを取り出した。画面に浮かぶ表示を見て、その貌に一気にばつが悪そうな表情が浮かぶ。どこか父に似たその様子だけで、千寿郎は着信の相手が分かった。
    「母上」
     努めて平静な声で兄が応えた。
    『もしもし、杏寿郎? 突然かけてしまってごめんなさいね。千寿郎は隣にいますか? 二人で、無事に楽しく過ごせていますか?』
     隣どころか限りなく至近距離にいるおかげで、母の声は千寿郎にもよく聞こえた。まるで見えているのじゃないかと焦る千寿郎を見ながら、杏寿郎が深呼吸をした。
    「はい! 千も元気で、楽しく過ごしています!」
    『それならよかったです。母もそうだと思ったのですが、槇寿郎さんが心配していましてね。二人とも成人とはいえ、兄弟だけでの初めての旅行ですから』
     いかにも父らしい心配性だ。自然と苦笑いを浮かべ、杏寿郎は弟の手を握った。
    「父上に、ご安心をとお伝えください。今日は南禅寺に来ています。これから銀閣寺、金閣寺を巡り、二条城へ向かう予定です!」
    『まぁ、盛沢山ですね。二条城は何と言っても、大きく歴史が動いた舞台にもなったところ。歴史教師のあなたには感慨深いでしょう。それでは、千寿郎に代わってもらえますか?』
     杏寿郎は弟にスマートフォンを手渡した。
    「母上、お土産をいっぱい買っていきますね。こちらには筆の専門店もありますから。父上には、京都の地酒が良いでしょうか」
    『一番のお土産は、あなたたちが無事に帰ってくることですよ。できれば、たくさん写真を撮ってきてください。二人の目を通しての景色が見たいので』
     母らしい注文に、思わず兄弟が微笑む。通話を終え、スマートフォンをポケットにしまいながら、珍しく兄がそっぽを向いた。
    「……すまない、千。旅先で大人げないことをしたな。まるで母上が牽制してくれたようだ」
    「いえ、そんな、僕だって」
     千寿郎はもじもじと膝を擦り合わせた。
    「普段、外であんなふうに触れてもらうことはないから……びっくりしたけど、嬉しくて」
     すると、杏寿郎は大きく目を見開き、すぐに片手で顔を覆った。
    「……まったく、どうしてそんなに可愛いんだ。千は俺の心臓を潰す気か」
    「えっ? ご、ごめんなさい、兄上。胸が苦しいのですか?」
     必死に手を伸ばし、兄の胸を撫で摩る。その可哀想なほどの慌てぶりに、たまらず杏寿郎がははっと笑った。
    「大丈夫だ、千! これはお前が生まれた時から兄が患った病なのだ! 恐らくどんな名医でも治すことはできまいな」
     兄の告知に、ますます千寿郎が顔を青ざめさせる。そんな弟を、胸に添えられた両手ごと掻き寄せて、杏寿郎は優しく抱き込んだ。
    「この病を癒せるのは、世界でお前だけだ……だから、離れずに兄のそばにいておくれ、千寿郎」
     耳元に静かにささやく声。それは甘やかでありながら、どこか切ない懇談のようにも聞こえた。千寿郎は髪を撫でてくる兄の手の感触に溺れながら、目を閉じて頷いた。

     南禅寺を後にして、二人は銀閣寺へと向かった。室町幕府第八代将軍の足利義政が建立した銀閣寺は、その祖父義満が立てた金閣寺を模したものである。金閣寺のような華美さはないものの、その落ち着いた佇まいは金閣寺よりも愛好家が多いともいわれている。
     千寿郎が楽しみにしていたのは、慈照寺などの建物ももちろんだが、何と言ってもその庭園だった。波のような白砂が織りなす「銀沙灘」が静の美しさなら、富士山の形を模した「向月台」は雄々しい動の美しさだった。
    「不思議ですね、兄上……ここでは、まるで時間が止まっているみたいです」
     知らず溜息をつく千寿郎の隣で、杏寿郎も静かに息を吐いた。
    「…そうだな。ここにいると、昼間なのにまるで音のない月夜の下にいるようだ」
     その声音にかすかな翳を感じて、千寿郎はそっと兄の肩に寄り添った。夜は、前世の兄にとって戦いの世界だった。だがこうして今は、穏やかな夜を語ることができる。それだけで、なんて幸福な奇跡なんだろう。千寿郎は、さっき自分が発した言葉を思い出していた。
    『こうして、兄上のそばにいられる。それだけで、どんなに……』
     千寿郎も知っている。どんなに平和な世になろうとも、永遠などどこにもない。それでも、この一瞬がかけがえのない、確かな刻なのは真実だ。この一瞬一瞬を、二人で重ねていくこと。あの頃は決して許されなかった、二人で時を刻んで、年を重ねていくこと。このありふれた日常という奇跡を、これからも千寿郎は折に触れ、実感していくのだろう。
     知らず涙が湧き上がってきそうで、千寿郎は風に髪を乱れさせた。すると、武骨な指先がそれを優しく払った。見上げれば、兄が深い眼差しで見つめている。その瞳を見つめ返し、千寿郎は微笑んだ。
    「……兄上、お腹がすきませんか? そろそろお昼御飯にしましょう」
    「千はすごいな、俺も同じことを考えていた!」
     微笑み返す兄の笑顔は、降り注ぐ昼間の月光よりもまばゆかった。

     昼食は、兄が調べてきた中華料理店へと足を運んだ。京町家をリノベーションした落ち着いた店内。兄弟は人気の鶏白湯ラーメンと麻婆豆腐を注文した。三種類のチャーシューは麺を覆い隠してしまうほどのボリューム。麻婆豆腐は辛さが調整でき、絹ごし豆腐の舌触りの良さが癖になる味わいだった。
    「兄上、いかがです? 鶏白湯って濃厚だけど、後味はすっきりしてますよね」
    「うむ! 麻婆豆腐も食べてみるといい! 餡がたっぷりで、辛味よりも旨味が引き立っている!」
     そう言って、仲良く箸と匙を向けて食べさせ合う。兄弟にとっては日常茶飯事だが、仕草はどう見てもラブラブの恋人同士である。店内の視線が料理そっちのけで二人に集中するが、当の本人たちだけが気づいていない。昼食にはやや早い時間のためかまだ空いていた店内が、いつの間にか女性客で満席になっていた。

     いささかジャンクに腹を満たした二人は、その足で金閣寺を堪能し、二条城へと移動した。ここまで来ると、さすがに紅葉シーズン前とはいえかなりの混雑ぶりだった。狩野探幽の障壁画を見ている間も、兄の腕は千寿郎を観光客から護るようにその肩を抱き寄せていた。まるで、『この子は俺のものだ』と言っているようなその仕草に、千寿郎は嬉しくて眩暈がした。
    「どうした? 千寿郎、顔色が悪いぞ」
     二の丸御殿を出てすぐに弟の異変を察知し、杏寿郎が心配そうに覗き込んだ。そう問われて、初めて千寿郎は奇妙に指先が痺れるような寒気を感じた。
    「ごめんなさい、兄上……少し人酔いしたみたいです。でも、大丈夫」
     明るく笑って見せるも、杏寿郎の判断は早かった。弟を横抱きにするや、素早く人ごみを突っ切り、木陰の石造りのベンチに座らせた。
    「しばらくここで休んでいなさい。飲み物を買ってくる」
    「兄上」
    「案ずるな……必ず戻る」
     房髪を手に取り、そっと離す。その途端、千寿郎の頬が切なく歪んだ。その仕草は、前世での兄が別れ際に必ずしたもの。けれどその言葉は、兄が決して口にしない約束だった。弟の瞳の波立ちに気づいたのか、杏寿郎は冷たい手をぎゅっと強く握ってから踵を返した。そのまま人ごみをものともせずに颯爽と駆けていく。見えなくなった背中を追い求めて、千寿郎は彼方を見つめた。どくどくと心音が肋骨を震わせる。兄が見えなくなっただけで、この心臓は引き裂かれたように痛みだす。兄が自分に対して病を抱えているというのなら、これは千寿郎が生まれた時から罹った病だ。
    (早く、どうかご無事で戻って)
     知らず胸の前で両手を握り合わせる。恐れを封じたくて、きつく瞳を閉ざした時だった。
    「ねー、キミ観光客? どこ住み? 一人なら俺たちと一緒にカンコーしない?」
     軽薄な早口を浴びせられ、千寿郎は咄嗟に瞳を開けた。すると、目の前にいた二人連れの青年が一瞬息を飲んだ。
    「うっわ、かーわいー。キミもしかしてハーフ?」
    「……すみませんが、僕は男なので」
    「げっ! マジかよ」
     まるで耳に砂が入ったみたいに悪態をつく。しかし、後ろにいたもう一人がにやにやと薄笑いを浮かべた。
    「いーじゃん、こんなに可愛いかったら男だってさ。ねぇ、一緒に来なよ」
     言うなり、強引に千寿郎の腕を掴んだ。
    「離してください!」
     慌てて振りほどこうとすると、ますます強く腕を引かれて肩を抱き込まれた。
    「どーせ暇してたんだろ? 美味しいスイーツご馳走するからさぁ」
     にやついていた男の表情が、次の瞬間凍り付いたみたいに固まった。千寿郎を抱き込んでいた手を、背後から掴む手があった。慌てて振り向くと、そこには冷めた眼差しに赤々と炎を燃え立たせた杏寿郎が立っていた。
    「この子に、触るな」
    「だ、誰……?」
    「兄上!」
     すぐさま男の手から逃れた千寿郎を、兄は素早く背の後ろに庇った。連れの男がホッとした貌で肩をすくめて見せた。
    「なーんだ、兄弟? おにーさん、ちょっと弟クン借りてもいいかな。なんならレンタル料払うからさあ」
     ギン、と音を立て、杏寿郎の目が刃の煌めきを見せた。
    「弟は物ではない、侮辱するな。いかなる理由があろうとも、俺がこの子を手離すことなど未来永劫ない。怪我をしたくなければ失せろ!」
     殺気に近い覇気を真正面から浴びせられ、男たちが反論もなく逃げ去っていく。明らかに怒りを漲らせているその背中を千寿郎は呆然と見上げた。すると、不意に兄が振り向いた。
    「……すまない、千寿郎。お前を一人にしてしまった。大丈夫か?」
     声には痛みと悔恨が満ちていた。千寿郎は千切れそうなほど首を振った。
    「謝らないで、兄上。僕が不注意だったんです」
    「何を言う。だが、本当にお前は……可愛すぎるのも困ったものだ。一刻も早く、俺だけのものにしなければな……」
    「え?」
     聞き取れず、兄の目を覗き込んだ弟を見て、杏寿郎は苦笑いを浮かべた。
    「……いや、なんでもない。二条城はちょっと人が多すぎるな! 少し早いが、今夜の宿へ向かうとしよう」
     宿までは徒歩で五分ほどだった。爽やかな秋風に似た笑みを浮かべ、杏寿郎が歩き出す。その手は千寿郎の手を握ったままだが、そこには何か言い知れぬ拘束力が漲っていた。道すがら、杏寿郎は無言だった。ただ、弟の手を離さずにいた。恐る恐る千寿郎が目を向ければ、優しい眼差しだけが返される。それにようやく安堵して、千寿郎は兄の手の温もりに浸った。
     兄がヤキモチをやくなんて。そう思った瞬間、千寿郎は自分を小突きたくなった。(いったい何を喜んでいるんだ。兄上にあんなに心配をかけたのに……でもさっき、聞き取れなかった言葉はいったい何と言っていたんだろう……)
     申し訳なさと疑問符とでいっぱいになった思考を、千寿郎は街並みに逃がした。やがて、黒曜めいた格子壁と銀杏色の暖簾が見えてきた。その時不意に、横から腰を強く引き寄せられた。え?と振り返ろうとした千寿郎の首筋に、熱い息がかかる。同時に、焼き付くような熱と痛みを感じた。視界に、ゆっくりと離れていく兄の白い歯が映った。その瞬間、兄の所有であることを示す、甘い烙印を押されたのだと千寿郎は気づいた。
    Tap to full screen .Repost is prohibited

    related works