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    リシの賭けの続き 終わりが見えぬ

     朝は平等に訪れる。たとえここが陽の光などまるで届かない水の下のメロピデ要塞であろうと。リオセスリは横たわっていたソファから身を起こし、壁掛け時計を眺めてため息をつく。
     前日のとんだ大失態から結局一睡も出来ないまま、いつもならば新聞を取りに行く時間となってしまった。湯を沸かす気にすらなれなかったが、どうにか重い腰をあげる。兎も角今日のこの状態では余計な仕事を増やすだけになる。さっさと休暇届を出して彼女に昨日の非礼を詫び、そうして恐らく遠からずやってくるであろう『審判』を待つことにしよう。
     そう彼が回らぬ頭で考えていると、階下で扉の開く音が聞こえた。ノックの音も何もせず。
    「おはよう、公爵」
     扉を開けた者が誰かを彼が悟るのと、ほとんど同時に聞こえた彼女のいつも通りの甘い声は、ぼやけていた彼の意識を完全に叩き起した。つい十数秒前に考えていたことも飛んでいき、ああ……と腑抜けた声を返すことしか出来ない。
    「あら、眠れてないのね、あとでミルクセーキを持ってきてあげるのよ」
     誰のせいでと軽口を叩く気すら起きない。と言うよりも、彼女が昨日のことを何も気にしていないようであることが彼は何よりも気にかかった。
    「公爵様が新聞を受け取りに来ない、って不思議がってたから持ってきたのよ、ここに置いておくわね」
    「ああ、悪い。あと、昨日のことなんだが……」
    「あら、何のこと?」
    「……は」
     全くいつも通りの笑顔で答えられたそれに、彼はもはや何も取り繕えないまま固まる。なにか言葉を継ぎ足さなければ。そう思えば思うほどに喉を空気がすり抜けてゆく。その様子にも、彼女は興味を向けなかった。
    「なんでもないならいいのよ。じゃあ今日もよろしくね、公爵」
     引き止める言葉もないまま、彼女はいつも通りに執務室を後にした。厚い扉が音を立てて閉まる。酷く重い音だった。

     午前のフォンテーヌ邸は気持ちの良い晴天である。その陽射しは地下暮らしの徹夜明けには実に痛い。ともかく執務室から逃げ出したかったリオセスリは休暇届を出し、水の上へと実に重い足取りで繰り出していた。
     この晴天の様子では裁判はないようだ。つまりパレ・メルモニアには近づけない。できる限り顔見知りのメリュジーヌとも、人間の知り合いとも出会うのを避けたい。いっそ誰かに相談してしまいたいと思ったが、悲しいほどにあてが居ないのだ。ならばまずこれを人に知られることが一番の悪手である。しかしながら、そもそも彼の痛む頭に眉をしかめている姿は並の人間であれば声はかけたくないような威圧感であったが――それでも遠慮なく話しかける者はいる。例えば、顔の見えない背後から。
    「お?公爵〜!……ひぃ!!」
    「パイモン、それはさすがに失礼だよ……怖いけど」
     振り向きざま睨みつけた相手は全く遠慮なく悲鳴をあげる。そして彼女の相棒もまた、彼の顔の怖さについては否定しなかった。
    「ああ、悪い。あんたらか」
    「オイラなんかやっちゃったのかと思ったぞ……」
    「久しぶり公爵。水の上で会うなんて珍しいね」
    「俺でも休息くらいはとるさ。まああんたらには確かにこっちであった記憶はないな」
     冷静を装いながら会話を続ける。本当に今日がただの休息で、偶然の出会いであればと思ってもどうしようもない。名声がある旅人と長時間話すのはリスクが高い。
    「あ!でもそういえば……この間、看護師長には会ったよな!」
     パイモンのその言葉に、どうにかうかべていた笑顔が引っ込む。またすぐに笑顔を作り直すが、それと同時に、昨日の『答え』が彼女達の助言によるものであったことを思い出す。この話題を今すぐに切り上げなければ。さもなければ謝るより先に断罪が来てしまう。が、徹夜明けの頭は悲しいほどに回らない。
    「看護師長がお前のことも教えてくれたよな!えーと、たしか……」
    「――あっ!パイモン、今何時!?」
    「わっ、急になんだよ!」
    「ほら、あの人気のケーキ。今日は久々に早い時間に来てるし間に合うんじゃない?ホテルの……公爵も食べたことある?」
     そう言いながら目配せをこちらによこす。ありがたい助け舟だ。小さく頷いて答える。
    「ああ、あれか。確かに今ならその羽?で行けば間に合うんじゃないか。俺たちは厳しいが……」
    「ほんとか!?……た、旅人!お前が言ったからな!」
    「はいはい、お金ね。今回は食べても捕まらないしね」
     そう言いながらケーキよりいくらか多めの金額をパイモンに渡す。
    「確か、野菜が特売日だったからついでに買ってきてくれる?お釣りは好きに使っていいから」
    「お、おお!?今日は太っ腹だな旅人〜!」
    「ちょっと公爵と話してから追いかけるから。ケーキを買えたらゆっくり選んでて」
    「おう!じゃ、行ってくるぜ!」
     そういうが早いか彼女は見たことの無い速さで通りをすっ飛んで行った。法令は大丈夫だっただろうか。
    「慣れてるんだな」
     姿が見えなくなったのを確認してから横に立つ旅人に問いかける。
    「まあね、相棒だから……ところで何かあった?看護師長と」
     やはり先程の反応で勘づかれていたらしい。おそらく内容も何となく察しているのだろう。交友の広さを考えればこの話をするのは悪手だが、しかし――仕事上の付き合いでもない唯一の友人と言っていい旅人ならば、少しくらい話してしまえないだろうか。
    「――彼女の買い物はどれくらいかかる?」
    「話しかけない限りずっと悩んでる時もある」

     
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