【シュレディンガーの恋】〇
聖騎士たちの手当てを終え、疲れはてた様子のネフテロスを仮眠室まで送り届けたシャスティルは、一人執務室へと舞い戻る。
扉を開けば、無人の室内は墨を流したような闇に沈んでいた。
深夜。
灯した明かりに白々と浮かび上がる床には、一面の血痕も、ソファの残骸も既にない。
すべて元どおり。
襲撃の名残りを感じさせないその様子に、先刻の出来事は、悪い夢だったのではないかと、一瞬馬鹿な錯覚が湧くが、そんな筈もない。
馴染んだ部屋は、今はどこかしらシャスティルによそよそしかった。
理由はわかっている。
まだヒヤリと腹の底にわだかまる、冷えた鉛のような感情の正体は恐怖だ。
侵入者は跡形もなく姿を消し、その後の足取りはつかめていない。
撤退したということは、敵も多少の手傷を負ったのだろうか。
ネフテロスの治療を受け意識を取り戻した後、すぐに影へともぐってしまったバルバロスとは、ろくに会話も出来ずじまいだ。
――お礼を言わなければ……
そんな義務感が、ふと浮かぶ。
体を休める為に影に戻ったのだとしたら、下手に呼びかけて起こしたりするのは邪魔かもしれない。
けれど彼とは一度きちんと話をしておく必要があるだろう。
大事な話だ。
「バルバロス、起きているだろうか?」
心の中に、ほんの少しの躊躇いがあった。
それでも俯き呼びかければ、シャスティルの足元にある影は不自然にゆらめいた。
「あん?」
どこか不機嫌そうに短く答える声に、シャスティルは細く息を吐く。
「もし体が辛くないなら、少しだけいいだろうか?」
一瞬の沈黙のあと、足元の影がザブリと大きく波打って、一人の青年をはきだした。
「なんか用かよ?」
漆黒のローブと、ぼさぼさの髪にアミュレット。
ここ数ヵ月ですっかり見慣れた魔術師は、治癒魔法の名残か、いつもより少しだけ顔色が良く、なんだか普通の人間のように見えた。
「すまない、休んでいたか?」
「いや? 普通に起きてたけど?」
気遣いをもって声をかけると、常と変わらぬ様子で答える男は、今日、自分が死にかけたという意識も無さそうだ。
「そこは休んでいたといってくれるほうが安心できるのだが…まあいい」
つい、いつものように軽口をたたきかけ、シャスティルは、緩みかけた気を引き締める。
「バルバロス」
「なんだよ」
「今日は本当にすまなかった、ありがとう」
他人行儀にそう言って、深い謝意を示せば、目の前の男は鼻白んだようだった。
もとより、お礼の言葉など、素直に受け取めてはくれない相手だ。
気にすることはせず、シャスティルは話を続ける。
「どう感謝するべきなのかわからない、あなたがいなければ、きっと私は最初の一太刀で命を落としていただろう」
あの時のシャスティルは、完全に無防備だった。
尋問の為、一思いには殺さず、生かされた可能性もあるが、それでも、バルバロスが割って入らなければ、かなりの手傷を負わされていただろう。
少なくとも、剣を握り反撃する芽は完全に摘まれていたに違いない。
目の前に飛び散ったおびただしい量の鮮血。
切り離された腕。
あまりの驚きに、一瞬何が起きたのか、理解すらできなかったが、あれは本来、自分が流す筈の血だった。
真っ白になった頭の片隅で、状況を分析し、戦闘に移ることができたのは、ひとえに積み重ねた経験故で。
けれど、だからこそシャスティルには解っていた。
どれぐらいの手傷を負い、どれほど血を流せば、人は死ぬのか。
自分を庇い、幾度となく腹を刺された男を目にした時に覚えた絶望は計り知れず。
敵を撃退し、倒れたバルバロスに駆け寄り、抱き起した時には、シャスティルの中の冷静な部分は、的確に答えを出していた。
損傷部位、出血量、冷えた体と、土気色の頬。
これはきっと助からない。と。
いつも、その判断を下す時は心臓が凍り付く。
けれど受け入れられなかったことはない。
受け入れざるを得なかったともいう。
死者への固執は、生き残った者たちを更なる危険にさらすと、長たる彼女は理解していた。
なのに、今日は不思議な程、心の奥底で、そんなわけがない、そんなわけがないと足掻く声が聞こえた。
――だって彼は魔術師だ
――バルバロスだ
――殺しても死ぬようなタイプじゃない
――いつもあんなにザガンに殴られているのにピンピンしているじゃないか
諦めたくないと駄々をこねる心に、さした希望は透明な水晶の色をしていたが。
「別に、お前に礼を言われる筋合いはねぇよ、仕事だ仕事、咄嗟に体が動いちまっただけだ」
今、こうして、不機嫌にそんなことを嘯く男は、やはり殺しても死なないような顔をしている。
けれど、彼もまた、命あるものである以上、絶対などはないのだ。
今日助かったのは、たまたまあの場に稀有な魔法の使い手がいたからで。
「いくら報酬の為とはいえ、こんな仕事、あなたにとっては割に合わないものではないのか?」
「はぁ? まぁお前の手のかかりっぷりを考えりゃ、もっと貰ってもいいぐらいだとは思うけどよ」
「そういう話ではない」
守られている事は知っていた。
いつだって感謝もしていたし、危ない事をしているのではないかと心配もしていた。
けれど、それがどういう事なのか、本当の意味で自分は理解していただろうか。
共生派筆頭。
本来この身に降りかかるはずの数多の憎しみ、殺意、謀略、悪意。
それらを全てシャスティルに届かぬように、その前でせき止めるということは、彼がその厄災の全てを肩代わりしていたという話に過ぎないのではないか。
目の前で見て、はじめてそれがどれほどの事であったのかを思い知った気がした。
――どうして気付かなかったんだ
バルバロスがいつも憎らしいぐらいにふてぶてしいから。
そんな苦難など想像もできないほど飄々としているから。
側にいてくれることも、守られることもまるで当たり前のように慣れきってしまって。
最近はそんなことも無くなった、なんて、呑気な事を口にして。
本当はただ、自分の目からはその厄災が見えなくなっていただけだったのに。
「ザガンがどれほどの報酬を支払っているのだとしても、命と引き換えにするほどのものではないだろう。もし、あなたが今回の件で、私の護衛から手を引きたいと思ったとしても、それは当然の事だ」
そうだ、さすがにもう『いい加減うんざりだ』と言われても無理のない話。
本来この男は、他者の為に命を投げ出すようなタイプの人間ではない。
「あなたから断りにくい事情でもあるのなら、ザガンには私から交渉しよう」
負い目や弱みを握られていて、拒めないのだとしても、シャスティルの側が拒否をするなら、さすがにザガンもこれ以上の継続を強いたりはしない筈だ。
代わりにほかの護衛をつけてくれるという話になるかもしれないが、なったらなったで、それも断るべきだろう。
元より自らに降りかかる火の粉なら、自分で払うのが筋というものだ。
だから、この提案に、当然彼は頷くものだとシャスティルは思っていた。
『じゃあ頼むわ』『ようやくポンコツのおもりから解放されて清々する』と。
けれど目の前の魔術師はなにやら呆けた顔をする。
「え? なんでお前人のこと勝手に解雇しようとしてんの?」
まるで微塵もそんなことは考えてもいなかったというように。
「だってあなた、私のせいで死にかけたじゃないか」
襲撃者は逃げただけだ。
ならば再び襲われないとも限らないのに。
「はぁぁ? 俺があんなナマクラ刀で死ぬわけねぇだろ」
憮然としてそんな事を言う男は、現実を理解していないのだろうか。
あるいはこれが、喉元過ぎれば熱さを忘れるという事だろうか。
客観的認識能力の欠如。
意地っ張りもここまでくればいっそすごい。
身の程を知らぬ魔術師の言いぐさに、シャスティルは唖然とした。
「いや現にネフテロスがいなければ、今頃あなた」
「んなもん気のせいだ気のせい、お前の目の錯覚だ、まぁ腕がくっついたのは助かったけどよ。魔法ってのはずいぶん便利なもんだな」
そう言って、ヒラヒラと手を振ってみせる男は、どうあっても自分の劣勢を無かったことにしたいようだ。
――そうだ……手……腕……!
その左手は、確かに三刻ほど前にシャスティルの目の前で切り落とされた腕だ。
「そ、そういえば、あなた、その腕、大丈夫なのか? くっついただけじゃなくて、まともに動くのか?」
本当に、あの時は心臓がとまるかと思うほど、こちらは驚いたというのに。
「動くけど?」
シャスティルの目の前で、手のひらをグーパーさせるバルバロスは、ケロリとした顔をしているが、本当になんともない等と言う事があるのだろうか。
つい先刻、ネフテロスの魔法で瀕死の聖騎士たちが救われるところを目にしたばかりではあるが、医療魔術すらごく最近取り入れたばかりの教会にとって、腕を負傷した騎士が二度と剣を持てなくなるという事例は珍しくもない。
ましてや完全に切り落とされたものが数時間でもとどおりにくっついて、何事も無かったように動くなど、どうにも信じがたい話だった。
「ちょっと見せてもらってもかまわないか?」
彼の事だ、また意地をはって、平気な顔をしているだけという可能性も無くはない。
不信感とともに手を出せば、バルバロスは少しだけ戸惑いを浮かべ、けれどおとなしくシャスティルの手の上に自らの手をのせてきた。
「ほらよ、ちゃんとくっ付いてんだろ」
「確かに……そう……だな?」
預けられた腕は、意外にも人としての温もりを有していた。
見える範囲に問題も無い。
見慣れたハーフグローブと、少し短い黒いインナーの袖口。
その間から覗く手首を押さえると、確かな脈動も感じられる。
――斬られたのは、確かこの辺りか……?
ちょうど肘の辺り。
「うおっ、おま、何すんの!?」
傷口の有無を確かめようと袖をめくれば、手にした腕が強ばった。
やはり怪我を隠しているのかとも思ったが、その肌は継ぎ目ひとつ無く、きれいなものだ。
細身でも、やはり男性の腕。
シャスティルの腕よりずいぶん太く筋ばったそれを、一刀両断した敵の太刀筋の鋭さは確かなものと言えるだろう。
けれど。
「すごいな……どこを斬られたのかすら分からない」
「いやおまえ……魔術師の服勝手にめくるなんざ、何隠してるか知れたもんじゃねえのに、何してくれてんの?」
何かぼやくような苦情が聞こえたが、目の前の光景に気を取られていたシャスティルは半分も聞いてはいなかった。
本当に傷跡も何もない、見慣れた腕だ。
この数か月、何度となく、転んだシャスティルを引き起こし、摘まみ上げ、受け止めた腕。
泥だらけになったスカートの汚れを払い、諦めかけたサンドイッチを受け取って、こぼした紅茶を戻すため、幾度となく小さな魔法陣を紡いでくれた手だ。
熱の塊が胸の奥からせり上がってきて、シャスティルはそれをグッと喉元でせき止める。
「なんなら腹の傷も見せてやろうか?」
「いいい、イヤ、それはイイ!!」
じっと見ているこちらの様子がよほど変だったのだろうか。
真顔でそんな事を言ってくる男の手をパッと離し、シャスティルは慌てて距離を取った。
「たく、大げさなんだよ」
「大げさではないぞ、だって、あなた、いくら魔術師でも、本当に……死んでしまうと思ったんだからな」
覚悟をしたのだ。
失う覚悟を。
見送る覚悟を。
数多の同胞をそうやって見送ってきたのと同じように。
この人もまた、居なくなってしまうのだと。
それでもまだ、剣を握り、自分は立たなければいけないと。
戦いの場で、怪我をした部下を看取った事は、これまでに何度となくある。
現に今日もシャスティルは二名の部下を失った。
真に市民の事を思う気のいい騎士たちだった。
聖剣所持者でありながら、年端もいかぬ少女でしかないシャスティルを、それでも敬い気遣ってくれた。
シャスティルにとっての兄のように、誰かにとっての、たった一人のかけがえのない家族であっただろう、彼ら。
もしも自分がもっと早く、あの場に駆けつけていたら、救うことができただろうか。
考えてもせんなきことだ。
悼むことはしても、うつむき立ち止まってはいけない。
彼らの命に報いるためにも、自分は顔を上げ次の一手を打たなければならないのだ。
いつか、自分の番が回ってくるその日まで。
だってずっとそうしてきた。味方の屍を乗り越えて、ずっとそうしてきたのだから。
「こんぐらいで俺が死ぬわけねぇし、ワリのいい仕事をやめる気もねぇ、お前が嫌だっつっても、俺を雇ってるのはザガンなわけよ、追っ払おうったってそうはいかねえの」
煩わしげにガシガシと自らの髪をかき回すバルバロスは、どうやら本当に、何一つ懲りてなどいないようだ。
「じゃあ、あなた、まだ私の傍にいる気なのか……?」
「んだよ? 悪ィかよ? わりと助けてやってんだろ?」
わりと、どころの話ではない。
――助けてやってる…なんて恩着せがましい言い方をするくせに……
感謝される事を期待するどころか、追い払いたがっている、などと言う誤解を、どうしたら抱けるのだろう。
いつもと変わらぬ不機嫌そうな顔をした魔術師は、まだ、しばらくはシャスティルの傍にいるらしい。
――そうか……
瞳の奥がやけに熱い。
助けることができなかった命と、懲りもせずここにいてくれる人と。
こみ上げるものを、今度はせき止める事ができなかった。
襲撃からずっと、腹の底にわだかまっていた、重苦しい恐怖が、一気に溶けて流れ出してしまったかのように。
「げぇ!? おま!?」
泣きたくなどなかった。
けれどボダボタと大粒の涙が溢れて、落ちて、己の不甲斐なさにシャスティルはうつむいた。
「なんっ!? はぁ? ちょ、おま、えええ?」
こんな時どうすればいいのか、きっとわからないのだろう。
バルバロスがオロオロと手を上げたり下げたりしているのが見える。
非常に申し訳ない。
申し訳ないとは思うがどうにもならない。
さすがに呆れて立ち去ってしまうかとも思ったが、そんな気配もなく。
悪の魔術師は困り果てたように体を揺らしている。
そういえば、昔近所に住んでいた大きな飼い犬も、転んで泣きじゃくるシャスティルに困り果て、意味もなくグルグルと自分の周りを回っていた。
言えばきっと怒るだろうが、目の前のこれは、あの光景にどこか似ている。
なんだかそれがおかしくて、シャスティルは泣き笑いのまま顔を上げた。
「あなた、こんな時、泣いている女の子に差し出すべきハンカチのひとつも、持っていないのか?」
「んなもん俺が持ってると思うわけ?」
憮然として答えたバルバロスは、意趣返しのように自らのローブをつまみ、そんなものでシャスティルの顔面をぐいぐいと拭ってくる。
「わぷ、思わない……思わないが、乙女に対してこの扱いはどうなんだ?」
そもそも、魔術師にとってのローブという物は、こんな雑な扱いをしていいものなのだろうか。
――魔術装甲とか、術式を仕込んだ……とか、何かそういう大事な物じゃなかったのか?
けれど本人がいいならいいのだろう。
シャスティルは押し付けられたローブを掴むと、そのまま顔を埋め、深く息を吐く。
視界いっぱいに広がる漆黒は、不思議な安堵を連れてきた。
あの時、自分を庇う背に抱いた感情は、安堵と絶望と驚きと、どれが一番大きかっただろう。
しばらくそうしていると、喉の奥から涙の気配も引いていく。
もう大丈夫そうだと思ったが、どうにも醜態をさらしてしまった気がする。
顔を上げるタイミングを見失い、一人赤面していると、頭上に無神経な声が降ってきた。
「お前、そこで鼻とかかむなよ」
「かまないもん!!……うう、 でもすまない、涙はついてしまった」
「あん? 別にそんぐらい、どうとでもなるけど?」
反射で顔を上げ、反論すれば、軽く首を傾ける男は相変わらず優しいのか酷いのか分からない。
――そういえばこの人、一瞬で汚れた服を真っ白に戻したりするしな……
それならば鼻もどうとでもなるのではないか。
しかし言えば『かみたいわけ?』と混ぜ返されそうなのでシャスティルは口をつぐんだ。
「すまない。取り乱した」
代わりに謝罪を口にすれば、バルバロスはプイとそっぽを向く。
「別に、いいんじゃねえの? 人に頼れとかいってんのお前だろ、まず自分で実行しろよなぁ」
これは、もしかして慰めてくれているつもりなのだろうか。
頼ってもいいと、そう言いたいのなら、どうにも不器用すぎる。
けれど、不器用なのは、あるいは自分も同じなのかもしれない。
「それがなかなか難しくてな」
頭に手を当て、照れ笑いを浮かべて見せれば、バルバロスは苦々しげに顔をしかめる。
本当は、頼る事を覚えたら、もう戦えなくなりそうで、それが少しだけ怖いのだ。
「だいたいこんな夜中まで起きて働いてっから泣きたくなんだよ、早く寝ろ」
母親のような苦言を呈してくる男は、今こそ人並みの顔色をしているが、いつもは寝不足の見本品。
「あなたにだけは言われたくないぞ、あなたこそ寝た方がいいんじゃないのか?」
「俺はいいんだよ。いつも寝てねぇだろ」
「自慢できるような事ではないぞ?」
せめてしばらくはそのまともな顔色を維持する努力でもすればいいのにと、今日は妙に男前に見える青年に、シャスティルは首をかしげた。
――隈が無いせいか? いや……この人こんな顔してたか?
していたかもしれない。
ベースは変わらない。
それはわかるが、なんだか知らない人と話しているようで落ち着かないから、はやく元の顔色に戻ってほしい。
しかしその為に不眠を推奨するのはどうなのだろうか、きっと体に良くはないだろうに。
つらつらと、そんな事を考えている間にも、バルバロスは珍しく真面目な顔で話を続けている。
「また襲撃される可能性があんなら、相手が立て直す前に、お前も立て直せっつってんの。あの短剣ちょっと変だぜ? 結界も身体強化も貫通してきやがる。ザガンみてぇに喰ってるわけじゃねぇけど、ありゃ魔術を斬ってんのか? 回復も効果が薄くて何度もかけ直したせいで、俺もまだ魔力が戻ってねぇ、どうにもやりづれぇ相手なんだよ」
「え?」
――魔術を斬るって……?
彼は今、サラリととんでもない事を言わなかっただろうか。
それではまるで、聖剣に等しい。
――アザゼル……
ネフテロスが教会の暗部だと言い、ザガンが十三番目の聖剣と呼んだそれ。
たしかに、そんないわくつきの組織が扱う暗器になら、そんな効力があっても不思議はない。
ネフテロスによる『魔法』での防御が有効だったことも、それならば納得がいく。
――というか……
「そ、それのどこがナマクラなんだっ!????」
たいした事ない、などと嘯いていたが、やはりどう考えてもたいした事ではないか。
どうりで、らしくもない、泥臭い戦い方をすると思ったら。
腕を切り落とされて、ペースを乱されたせいではなく、単に初太刀で魔術による防御が効かない事に、気づいていたというのなら。
――だから、体を盾になどしていたのか?
けれど、だとしたら、あまりにもおかしい。
それではまるで、斬られると解っていて、それでも尚、彼は自分と襲撃者の間に割り込んできたようだ。
「まぁ、寝てる間の見張りぐらいはしてやる、体力戻してせいぜい無茶しねえことだ」
それ以上突っ込まれることを嫌ったのか、叫ぶシャスティルに、ヒラリとひとつ手を振って、素っ気なく告げた男が瞬く間に影へと沈む。
「ちょ、バルバロス!?」
慌てて呼び掛けるが、波打つことをやめたシャスティルの足元から、それ以上の返事はない。
咄嗟に体が動いただけだと彼は言った。
一度はそうであっても、二度目以降は必然だ。
彼は今日だけで何度となく、自身の身をもってシャスティルを守ったのに、まるでそれすらなんでもない事のように。
「どうしてそこまでしてくれるんだ。……バルバロス」
問う声に、答えぬ影は影のまま。
倒した食器を救うのも、撒いた書類を集める事も、腹に穴を開けてまで庇うのも。
まったく彼らしくもない。
初めて出会った頃の悪の魔術師の印象にまるでそぐわない。
あきらかに業務を超える行為の数々。
その理由に、まったく思い至らぬわけでもなかったが。
けれど今、その感情に名前を与えてしまえば、自分はきっと変わらずにはいられないから……。
無垢なる友が、それに名前をつけてしまうまで、あと数日。
まだ受け入れがたい想いにそっと蓋をして、しばしの安息をむさぼるべく、シャスティルは執務室の灯りを落とした。
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2024.02.22