香 朝の清涼な空気を優しく彩る豊潤な香気に誘われて、冠星は目を覚ました。枕元の脇机を見やれば、花瓶に活けられた水仙が白く朝日に透けていた。
宵はよく四季折々の花を見つけては寝込む冠星のためにと摘んでくる。以前はそのために池に落ちるわ木からも落ちるわで散々に叱ったものだが、今となってはそんなこともなくなり、肺に障るからと滅多に香を焚かない寝室にも、いつも柔らかな花の香りが漂っていた。
朝晩の花冷えでここのところ芳しくなかった調子も落ち着いたようで、昨夜までの息苦しさは消えており、冠星はひとつ大きく息を吸い込むと寝台から起き上がる。
先に身支度まで終えていた宵がそれに気づき、「おはようございます」と笑顔を向けた。
「顔色もだいぶ良くなりましたね」
今日はお化粧はいいかな、と口をこぼしながら揃いの紅の衣を片手に寄ってくると、宵は笑みを深めた。
「今日の公務はそなたには少々荷が重いだろうからな」
「難しいお話しないといけないのは俺、無理ですから。元気になってくれて本当によかったです」
心底安堵しているというような宵の表情を眺めているうちに、てきぱきと正装を着付けられていく。
衣に焚き染められた香の上品なさらりとしたかおりに包まれれば、眠気は完全に消え失せて気が引き締まる。
身支度を整え、運ばれてきた朝餉を共に済ませた頃、いつも通りの定刻に斉達が部屋を訪れた。
「──本日の御予定は以上です。影は雑務を済ませ、午後は殿下の公務に随行するように」
「わかりました」
掃除に取りかかり始めた宵を置いて、冠星は斉達と共に部屋を後にした。
月に何度かは朝議に出席するように、とはいつかに下された皇帝からの命であり、慣例となっていた。世慈が不在の際には代わって号令をかけることもあり、一部からは『いよいよ代替わりに向けてやらせているのでは』などという声も漏れ聞こえていた。
正殿を埋め尽くすほどの傅く家臣達を一人玉座から見下ろす。そのすべての視線が自身へと向けられる度に、彼らから向けられているのは畏敬や期待だけでは決して無く、王としての器を見定めんと値踏みしており、もしも君主の資格なしと判断すれば彼等の手は礼ではなく剣を取り、その切っ先が向けられるのだろうと感じられた。
とはいえ誰しも表面上は恭しく友好的である。
今日も特に大きな問題もないということで、皇帝不在ながらいつも通り恙無く朝議を終えると、冠星は次の公務へと向かうのだった。
……
ほどなくして、言いつけられた雑務を終えたらしい宵が合流した。
庭の木々も芽吹き始め日中は暖かくなってきたとはいえ、時折強い風が吹き衣の裾をはためかせた。
「今日はちょっと風が強いですね」
宵は胸に抱いていた羽織りを広げると、歩みは止めないままに冠星の後ろへと回り、さっと着付けてしまった。
衣からは抱えていた宵から移ったのだろう微かなぬくもりと共に、ふわりとあの甘い花の香りが感じられた。同時に知らず知らずのうちに張り詰めていた緊張が緩み、ほっと心身が和らぐ。
すん、と衣に鼻を寄せた冠星を見て、宵はぎょっとして声を上げた。
「もしかして臭かったですか!?」
「……花の香りがする」
「ああ、部屋のお花がしおれかけてたので、さっき新しく摘んできたんです」
そう言って冠星と同じようにすんすんと自身の衣を嗅ぐと、「やっぱりそうだ」と笑った。
「冠星さまはこの匂い好きですか?」
「ああ、良い香りだと思う」
「よかった!俺もすごく好きで気に入ってるんです」
宵は一層嬉しそうに笑うと、いつまで咲いていてくれるかな、とぼやいた。思い返してみてもこれまで同じ花ばかりを摘んでくることはあまりなかったため、よほど気に入っているのだろう。
「しかし、皇宮に植えられることはまず無いはずだが」
「そうなんですか?庭のすごく隅の方に咲いてて。お散歩の時にいい匂いがするな~って思って歩いていったら見つけたんですよ」
「そなたは犬か何かか」
「えへへ」
「褒めてないが」
「えっ」
そうこう言い合っているうちに目的地に近づいてきていた。まだ何か言いたげな宵を無視して冠星は次の仕事へと思考を切り替える。そして心なしか先ほどまでよりも軽くなった足取りで歩を進めるのだった。
……
夜。寝支度を整え先に寝台へと腰かけていた冠星は、ふと机の上の水仙へと手を伸ばした。在るだけで豊潤な香りを振り撒いているそれに顔を寄せれば、くらりとめまいでも起こしそうな、攻撃的に感じるほど強烈な香りが鼻を抜けて、思わず顔をしかめた。
「あはは、それ直接嗅ぐとけっこう臭いですよね。俺も一昨日やりました」
ちょうど自身の支度も終えてやってきた宵が笑い声を上げた。
「そなた、この花の名を知っているか」
「知らないです。何て言うんですか?」
「水仙だ」
水に仙と書く、と指で敷布をなぞって教えると、「綺麗な名前ですね」と呑気に返した宵に、「知らぬのなら仕方がないが」と前置いて冠星は笑みを向けた。
「これは皇宮には植えられることはないと言ったな、何故かわかるか?」
「うーん、育てるのが難しいとか?」
「違う」
「じゃあ、皇帝でこれが嫌いな人がいて禁止にしちゃったとか!」
「まあ確かに嫌う者もいたかもしれぬが、そうではない」
「えー?じゃあなんでですか?」
「毒があるからだ」
問答を楽しんでいた宵の笑顔がぴしりと固まり、サーっと血の気が引いていくのが見て取れた。そんな様子に、冠星は笑ったまま水仙を口許に寄せ、言葉を続けた。
「私が寝ている間にこれを口に詰めれば、一切抵抗させずに毒殺できるかもしれぬぞ」
「──っ!ご、ごめんなさい!俺、本当に知らなくて……。今すぐ捨ててきます!」
慌てて冠星から花を奪おうとした宵の手を払いのけ、水仙の花をくるくると弄ぶ。
実のところ最も毒素が強いのは鱗茎であり、花をひとつふたつ食べたところで死ぬこともない。
「何故だ、これの香りが気に入っているのだろう」
「何故って……」
毒なんて危ないし、斉達さんにも怒られるかもしれないし……と口ごもる宵の顔を見つめた。
「そなたに他意が無いことは解っている」
実のところ冠星も、馥郁と漂うこの花の香りを気に入っていた。
そして何より、天地がひっくりかえっても宵が己を裏切ることはないという確信がある。
かつての自分であれば、少しでも危険のあるものは遠ざけていただろう。けれど不思議と、宵が好み、冠星のためにと手ずから差し出したものであれば、たとえそれが毒であろうと好ましくあり、無下にはしたくないと思うようになっていた。
それほどまでに宵は尽くしており、宵の裏表のない忠信と親愛は無二であった。これはいわばそれに対する信頼の、不器用な発露のようなもので。
「せめてもっとはやく教えて貰えれば、今日は違う花にしたのに……」
「うるさい。……先ほど思い出したのだ」
最も今の宵には未だ、到底そのように受け取れはしないのであった。