宝の在り処ザアザアと雨が降り注ぐ昼下がり。
ヌヴィレットはエピクレシス歌劇場横の人があまり訪れない場所で、雨に打たれながらぼんやり遠くを眺めていた。
あまり物思いにふける性格では無いのだが、フリーナが水神を降りてからこうして考えることが多くなった。
古龍の大権。それが自らに還ってきたのはいいが、約四百年もの月日を共にしてきた彼女が側にいない日々はなんとも味気ない。
フォンテーヌが一度水の下に沈み多少の月日は流れたものの、未だ内政は落ち着つかず書類の山が積み重なっていくばかり。セドナの計らいにより息抜きの為こうして人気のない場所で佇んでいるが、自身の胸にぽっかりと穴が空いたような感覚は無くならない。
(せめてリオセスリ殿に会えたら)
そう脳裏に浮かぶが、ゆったりと目を閉じて考えなかったことにする。
あの日、大きな船で民間人の救助に携わっていた彼もここ最近仕事に追われ忙しいのだと報告があった。
彼は人間であり、龍たる自分とは違って疲労に強くない。自身の一目会いたいという我儘で余計な負担をかけたくないのだ。
ヌヴィレットは深く吸い込んだ息を静かに吐き出す。もう休息は十分だろう。フォンテーヌ廷からそう遠くない場所だが、早く戻るに越したことはない。一歩踏み出しその場を後にしようとした時、背中に熱を感じた。その熱は腹部にも周り、久しく嗅いでいなかった重く甘い香りが鼻をくすぐる。視界の端に映った白が混ざる特徴的な黒髪に、なぜ…。と驚きを隠せず目を見開いた。
「…リオセスリ殿、どうしてここに?」
「たまたま、息抜きの為に水の上まで来たんだ。エレベーターに乗って、エピクレシス歌劇場裏に。ここならアンタがいるフォンテーヌ廷が見えるから」
そういってリオセスリは二人の隙間を無くすかのように、胴に回した腕に力を込める。
首筋に顔を埋め「そういうアンタこそ、どうしてここにいるんだ」と問う彼の声は少し震えている。
…なぜ震えているのだろうか?未だ感情の機敏を察知することが苦手で、この短いやり取りではリオセスリの考えを読むことが出来ない。
せめて少しでも心が穏やかになれば、と。ヌヴィレットはきつく抱き締めてくる腕に優しく触れ、手の甲を包み込むように自身の手を重ねた。
「…人目につかず、水の下に一番近い故ここにいたのだ」
「ははっ。なんだい、そりゃ。まるで俺に会いたかった、って言ってるように聞こえるな」
「うむ。その解釈で間違いない」
「は、」
驚き腕の力が緩んだ所でその拘束を解き、逆に自身の腕の中に閉じ込める。
リオセスリはまさか拘束を解いて逆に抱き締めてくるとは思っていなかったのか、ヌヴィレットの腕の中で呆然と立ち尽くしていた。
驚き固まっている彼を他所に、触り心地のいい髪に頬を寄せ、スリ。と頬擦りする。雨に濡れ少し身体が冷えているが、愛するリオセスリの温もり。その温かさが胸に空いた穴をじわじわと埋めてくれるようだった。
「私は、君に会いたかった。無論、君が忙しいのは把握している。…しているのだが…、遠くからでもいい、一目、君の姿をこの目に収められたらと…。そう思い、メロピデ要塞の入口を眺めていたのだ」
「…冗談、ではなさそうだな。アンタ、俺と暫く会わないうちに何処でこんな殺し文句を覚えてきたんだ?」
「旅人に、思った事は例え上手く言葉に出来なくとも。拙いながらに口にしなければ相手に伝わらないのだと…。そう助言をされた」
「…そうかい。それをアンタに教えたのがあの旅人だと思うと些かくるものがあるが…。今回ばかりは感謝しないといけないな」
もぞもぞと腕の中で身じろぎして、リオセスリは自身を包み込む身体に腕を回して抱き着いた。顔は見せぬように肩口に額を押し当て「俺も、ヌヴィレットさんに会いたかった」と口にする。
この状況に、清廉な雑味のない水を飲んだ時のように身体がふるり。と震えた。
確か、この感情の名前は〝歓喜〟。
リオセスリも、自身と同じ気持ちを抱いてくれていた。会いたかったのは自分一人ではなかった。ああ、ああ…、なんと喜ばしい。
あれ程強く降り注いでいた雨がピタリ。と止み、雲の隙間から陽の光が差し込む。
「…?雨、止んだのか?」
「ああ、止んだようだ。しかし…、このままでは君が風邪をひいてしまうな」
「失礼」と一声かけ、リオセスリに纏わりついた水を消す。力を行使した際にほわりと光る青い毛束を肩越しに見ていたリオセスリは「…アンタ、ほんとに綺麗だよな」と思わず呟いた。
それを聞いた本人は「そうか。君がそう思ってくれるなら、この見た目で生まれてきたことに感謝しなければならないな」と嬉しさに上擦った声でテンポ良く返す。
「あーー、何だかアレコレ考えてたのが馬鹿らしくなってきたな…」
「ん…?何を考えていたと…?」
「アンタには…、いや。次会う時に話そう。長めに時間を取ってな」
「…あぁ、その時が訪れるのを心待ちにしている」
いつも肝心な部分を隠してしまう彼から本心を聞けるまたとない機会。ヌヴィレットは穏やかな声で返事をしながら、早くその日が訪れないだろうかと考えた。互いに多忙を極めているのは百も承知だが、それでも逸る気持ちを抑えきれない。リオセスリはそんな様子の彼を見て、ふにゃっと力の抜けた顔で「ヌヴィレットさんのそんな顔、初めて見たな」と小さく笑った。
「私も、君のそのような顔を初めて見た」
「ん?ちょっと待ってくれ、どんな顔をしてたって?」
「…それは秘密だ」
「ヌヴィレットさんがわざわざ秘密にする程の顔…?」
先程と違って少し焦ったように考え込む彼が酷く愛おしい。うんうん考え込む彼に「さて、どのような顔をしていたのだろうな」と返せば「…アンタ、もしかして楽しんでないか?」とジト目で睨まれた。この些細なやり取りですら心がじんわりと温まるほど幸せに感じるのだから、人の感情の機敏に疎い自分をここまで変えたリオセスリという男は実に罪深い存在だ。
だからこそ、時々考えてしまう。
龍たる己と、人たる彼。時の流れが違う自分達だが、果たして彼が人として生を終えたいと言ったとして自身はそれを受け入れられるのかと。
愛を、温もりを、触れ合うことで得られる幸福を覚えてしまった己に、彼のその願いを聞き届け受け入れることは出来ないだろう。この暖かな海のような存在を手放せる訳が無い。
もし、この先〝人として死にたい〟と言われた時は彼の好むこの顔で泣き落としとやらでもしてみようか。と、未だ腕の中に大人しく収まっているリオセスリに頬擦りし考えた。
龍の寵愛を受ける者、それは正しく龍の宝。
水龍の領域たる水の下。
そこに大事にしまい込まれていると獄守犬は気づいているのか、いないのか。それを知るのは公爵ただ一人である。