魔女のつがい とある西方の国の森の中、橙の髪の魔女が住んでいた。魔女と呼ばれてはいるが、不思議な術の類は使えない。ただ森で薬草を採り、薬を作る事を生業としていた。月に数度村へ下りて薬を卸し、食料と交換し森へ戻る。そんな生活に特に不自由もしていなかった。ただ一つ悩みがあるとすれば……。
「寂しいな……」
魔女は一人の家でそう呟いた。魔女の名前はリツカ、先祖代々の魔女の家系だ。父は物心つく前に、母は数年前狼に襲われて亡くしている。それからはずっと広い森にポツンと建ったこの家で一人暮らしだ。彼女はもそもそと朝食のパンを食べると日課の薬草採取に出た。小鳥が囀る中バスケットを片手に朝の森を歩き、朝露に濡れた植物を採る。朝だというのに背の高い木々がうっそうと生い茂った森の中は少し薄暗い。木々の隙間から漏れる陽の光を頼りに歩いているとふと足が止まった。草の上に転々と血の跡が続いている。手負いの獣か、怪我人であったなら大変だ。血の跡を辿って歩いていくと、背の低い茂みの中に白い手足が見えた。慌てて引っ張り出すと、まだ十かそこらの幼い男の子のようだ。左右で白黒に分かれた髪の毛、長い爪、何故か服を着ておらず腹部から出血していた。すぐに手当てしなくては傷口から化膿してしまう。その少年を抱え上げ、急いで家へと走った。
傷を布巾で消毒し、調合した薬を塗り込む。そうして包帯を巻くとリツカは不安げにベッド脇で様子を見ていた。この少年にいったい何があったのだろう。すり傷だらけの体は何かから逃げて来たようにも思える。珍しい髪の毛といい、端正な顔立ちといい、どこかの好事家に買われて逃げ出した奴隷か何かだろうか。少年の顔は思わず見惚れてしまう程美しかった。そんな事を考えていると少年の瞼が震えた。黒曜石のように真っ黒な瞳が現れ、起き上がろうとするのを慌てて静止する。
「ダメだよ怪我してるんだから!」
しかしリツカに気付いた少年はその手を払い除け唸り声を上げる。状況がよく分かっていないのだろう。
「わたしはリツカ。貴方は森で倒れてたの。名前は?」
ゆっくり確認するように聞くが返事は無い。牙を剥き出しにして背中を丸めベッドの隅で威嚇する。酷く動物的な動作。ひょっとしたら人間として育てられてないのかもしれない。
「安心して、危害を加えるつもりはないから」
リツカは笑顔で両手を挙げてにじり寄るが警戒は解かれない。困った、言葉も通じているか怪しい。どうにか落ち着いてもらえないだろうか。
「そうだ、お腹空いてない? パンの残りがあるから……」
そう言って差し出した手も容赦なく引っ掻かれる。
「痛っ」
鋭い爪に引き裂かれ、リツカの腕からは血が流れた。それでも笑顔でいるよう努め、優しく語りかける。
「びっくりしただけだよね。このぐらいすぐ治るから大丈夫」
そうしてリツカは自分の腕にも包帯を巻く。少年がふと自分の腹を見ると同じような処置がされていた。
「大丈夫、大丈夫だからね。きっと今まで怖い思いをしたんだね」
リツカの態度に少年の警戒はやがて困惑に変わっていた。目の前の謎の魔女の接近を許し、大人しく頭を撫でられるぐらいには。全身から少しずつ力が抜け、そのままベッドに座り込む。そんな少年にリツカはもう一度パンを差し出した。
「怪我が治るまでは安静にしててね」
少年は渡されたパンをしげしげと眺めている。その様子に気付いたリツカは一口千切って自分の口に入れる。同じように一口千切って少年の口に入れると、大人しくそれを口に含み飲み下した。その後は少年も自分でパンを食べ始めた。どうやら文化的な生活は送ってこなかったらしい。よもや齢十八にして子育てすることになろうとは。しかしリツカはどうしてもこの少年を放って置く気にはなれなかった。
***
それからリツカは甲斐甲斐しく少年の世話をした。食事を与え、怪我の手当てをし、自分の服を手直しして着る物を与えた。初めはリツカの教える文化的な生活を嫌がっていた少年だが、それでも懸命に服を着る事やスプーンの握り方を教えられる内、ご褒美の味を覚え少しずつ従順になっていった。
ある夜いつものように包帯を替えて部屋を出て行こうとすると、少年の腕がリツカを掴む。リツカが振り返っても未だその腕は離されない。いつも少年を亡き父のベッドに寝かせリツカは自分の部屋で寝ていたのだが、一緒にいて欲しいという意思表示だろうか。子供らしく可愛い態度にリツカは微笑み、少年と同じベッドに潜り込んだ。この年で母親になった気分だ。少年はリツカの腕を掴んだまま眠りにつき、リツカもまたそれを愛おしげに眺めて眠りについた。少年は一度も口を開く事は無かったが、献身的なリツカに懐くようになっていた。
翌朝目を覚ましたリツカが起き上がろうとすると、まだ腕を掴まれたままだった。一晩中掴まっていたのかしらと思いつつ、少年の頭を撫でて起こしてあげる。
「おはよう、朝ご飯にしようか」
少年は目を開いてリツカの顔を見つけると、にっこりと笑った。最近では彼も笑う事が増えていた。リツカがスープを煮ている間、少年は行儀良く椅子に座って待っている。最初は落ち着かず部屋中動き回っていたのでリツカのしつけの賜物だ。言う事を聞けた後はご褒美に飴をあげるのがお決まりになっていた。
「怪我も治ってきたね」
食事を終えて包帯を替えていると傷はもうほとんど塞がっていた。まだ一週間ぐらいしか経っていないのに治りが早い。結局この少年がどこから来たのかも分からないが、帰るところはあるのだろうか。彼が来てからと言うもの、一人きりで寂しかったリツカの生活はすっかり賑やかなものになっていた。
「貴方は、どこか行くところがあるの?」
少年はただ首を傾げるだけだ。行くところが無いのならずっとここに……そう言いかけた言葉をリツカはぐっと飲み込んだ。彼はまだ何も分からないんだ。もっといろんな事を知ってからじゃないと、彼の気持ちを誘導するべきじゃない。
「そろそろ食料が尽きるな……」
前回村へ降りてからまだ十日と経っていない。しかし二人分の食事を作っていた為、当然倍のペースで食料は無くなる。いつもより早いがまた村へ降りるしかない。最近は少年につきっきりだったので、彼が来てから初めて家を空けることになるが一人で大丈夫だろうか?
「これから出掛けるけど夕方には帰って来るからね」
分かっているのかいないのか少年はまた首を傾げる。そのまま家を出ようとすると慌てて追いかけて来た。嫌々と首を振り必死に引き止めて来るのを困った顔で言い聞かせる。
「このままじゃ食べる物が無くなっちゃうの、わかる?」
悲しそうな少年の顔に後ろ髪引かれるのを振り切りリツカは家を後にした。
***
リツカが家に帰ったのは完全に陽が落ちる頃だった。
「ただいま〜、ごめんね遅くなって」
そう言いながら扉を開けると玄関には血まみれの少年が立っていた。その傍には同じく血まみれのウサギが何羽か横たわっている。
「きゃあ! どうしたのこれ⁉️」
慌てて少年に駆け寄り血を拭くがどこにも新しい怪我はない。どうやらウサギの血のようだ。
「あ、貴方がこれをやったの?」
震える指でウサギを指さすと少年は誇らしげに胸を張った。食べ物が無いと言ったから獲って来たとでも言いたげだ。
「危ない事しちゃダメでしょ! また怪我したらどうするの! 狼や魔獣にでも襲われたら……!」
突然大声を上げられて少年は驚いて目を丸くする。まさか叱られるとは思っていなかったようだ。そんな彼をリツカは強く抱きしめた。
「勝手に外に出ちゃダメ! ……どこにも行かないで!」
リツカにとって少年はすでに家族のようなもので一緒にいるのが当たり前になっていた。それが両親のようにある日突然いなくなるなんて耐えられない。もう一人ぼっちで寂しいのは嫌だ。せめて大人になるまではここにいて欲しい。リツカは少年の存在を必要としていた。少年はそんなリツカをじっと見つめると同じように抱きしめ返した。
「……リツカ」
耳元で聞こえた声に驚いてリツカは顔を上げた。その言葉は間違い無く少年の口から発せられたようだった。
「貴方喋れたの……?」
少年は薄らと微笑んだ。
「ええ、儂の事はドウマンとお呼び下され」
「ドウマン?」
「はい、リツカ」
突然少年が喋り出した衝撃はリツカにとって育ててた犬猫が喋り出したような感覚に近かったが、本人も言いたく無い事があるから黙っていたのだろうと過去の事は詳しく詮索しなかった。
それからの少年改めドウマンの態度は随分と積極的なものになっていった。昨夜から二人は共に寝るのが当たり前になり、ドウマンは言う事を聞くどころかリツカを手伝おうとする。
「リツカ、リツカ、何でもして差し上げます」
小さい体と声変わり前の高い声で上目遣いしながら言われた日にはリツカはもうメロメロだった。
「そんなに言うならお願いしようかな」
背伸びして必死に家事を手伝うドウマンの姿は大変可愛らしく、リツカは微笑ましくその様子を見ていた。
「リツカ、儂が大きくなったらつがいになって下さいますか」
どこで覚えたのかそんな事まで言って来る始末。大きくなったらお母さんと結婚すると言う子供のようで何て可愛いんだろうとリツカは笑った。
「大きくなったらね」
果たしてそれまで何年かかるだろうか、などと考えるリツカを他所にドウマンは飛び跳ねて喜んでいた。
「ええ、必ずですよ?」
大人っぽい口調だがまだまだ子供だ。大きくなったらきっと忘れてる。その時にはもうここにはいないかもしれない。なんて考えると少し寂しい気もするけれど……。いつものように夜一緒に寝ようとしていると不意にドウマンが話しかけてきた。
「儂は良い子にしていると思いませぬか?」
遠回しという程でもないがご褒美の催促をされているのだろう。
「もう夜だから飴は明日ね」
「ンンン、飴などと……そろそろ違う褒美を賜りたく」
違うご褒美と言われても困ってしまう。リツカが考え込んでいるとドウマンがそわそわと体を揺らす。
「その、人間は口付けというものをするのでしょう?」
「え?」
予想外の発言に聞き返してしまった。ご褒美にキスして欲しいなんてませた子だ。
「そんなのでいいならご褒美じゃなくてもいつでもしてあげるよ」
「本当ですか」
目を輝かせるドウマンの頭を撫でると頬に唇を落とす。ドウマンは黙って瞬きするとリツカをじっと見つめた。そんなドウマンに背中をむけリツカは眠りにつく。
「おやすみドウマン」
「……はい、おやすみなさいリツカ」
そんなやりとりをしたのがつい昨日の事。昨夜はドウマンと一緒のベッドで寝たはずだ。しかし……。
「おはようございますリツカ」
目を覚ましたリツカの視界に入ったのは裸の見知らぬ大男だった。リツカが悲鳴を上げると男は目を丸くして慌て始めた。
「嗚呼、驚かせてしまい申し訳ございませぬ。儂です。ドウマンにございます」
その名を聞きリツカは暴れるのを止めた。男は筋骨隆々の肉体に黒曜石の瞳、白黒に分かれた髪の毛を持っている。よくよく見ればその目と髪には確かに見覚えがあった。
「嘘……だってまだ十歳ぐらいで……」
「今までは怪我で弱っておりましたが、リツカの献身的な治療のおかげでこれこの通り。すっかり本調子にございますれば。これが儂本来の姿にて」
男の説明はリツカの頭にはさっぱり入って来ない。人間はそう易々とサイズが変わるものでは無いのだから。
「……貴方人間じゃないの?」
「ええ勿論! 儂はこの森に住まう魔獣にて」
何という事だろう。今まで魔獣の世話をしていたのか。震えるリツカにドウマンは微笑みかけるとかつてリツカがそうしたように頭を撫でる。
「ご心配召されるな。他の人間は嫌いですが貴方は別。リツカを喰らったりしませぬ」
そう言ってリツカを抱きしめた。
「愛しいリツカ、こうして大きくなりましたので——約束通りつがいになって下さいますね」