熱情トランスインファイト「スグリは、僕のこと好き?」
ほとんど脈絡なく問うてきたハルトの声から感情を読み取れなくて、スグリは目線を下向けたまま、とても困った。俯いたままで、垂れた自分の前髪越しにハルトの顔色をうかがってみる。相変わらずまっすぐスグリへ向けられているハルトの眼差しは普段通り優しげで、怒ってはいないみたいだと、ひとまず内心ほっとする。
カジッチュの噂のことを知ってしまって以来、どうにも、ハルトの顔を見て喋りづらい。スグリから送った子のことはともかく、ハルトもスグリにカジッチュをくれた意味を――『大好きだよ!』とわざわざ言い添えてくれたことの意味を、どうしても考えてしまう。
気になる。すごく気になるけど、訊けない。
あれどういう意味? なんて尋ねたら、せっかく修復できた今の関係が崩れて変わってしまう気がして、怖い。怖くてつい、ハルトと二人きりになることを避けてしまって、申し訳ないと思ってはいるけれども。
ハルトの両手がスグリの右手をしっかりと握っているから、今は逃げることもできない。部活のあとに課題があるからと理由をつけてテラリウムドームへ逃げたら、コライドンに乗って文字通り飛んできたハルトにあっけなく捕まってしまい、現在に至る。おまけに、現在地はコーストエリアの洞窟の中。まわりには誰もいない。ふたりっきりだ。
「……す、好きだ、よ。友達……だし」
ハルトの手の感触もあったかさも気になってむずむずどきどきして落ち着かないからそろそろ手を離してほしいけどハルトを傷つけたくなくて、ハルトを傷つけるかもしれないと思ったら振りほどくなんてとてもできなくて、逃げられないと、観念して重たい口を開いた。
友達だと、スグリは思っていた。……だけどハルトは。
「じゃあ、スグリは僕とキスできる?」
「へ?」
ぽかんとして、つい顔を上げてしまった。ハルトはやわらかく微笑んでいる。その笑顔の中に、いつものような悪戯っぽさはない。むしろ幾分か、緊張の色を含んでいるように見えた。
「ポケモン交換のときに、僕が言ったのはね」
つい、ハルトの唇に注目してしまう。スグリは無意識に生唾を呑んだ。
「そういう意味の『好き』、だよ。僕は、スグリの恋人になりたい」
「………………え、」
スグリの心を全部見透かしたようなハルトの言葉が、すぐには頭の中まで入ってこなかった。口までもが、ぽかんと開く。両目もまん丸に見開いて、息をするのも忘れて石になったみたいに静止して、そのままかなりの間が空いて、ぼんっと音がしそうなくらい、スグリは一気に赤面した。
嘘じゃないよと、ハルトが追撃を放つ。全身の皮膚という皮膚が燃えてるんじゃないかと錯覚するくらいスグリは赤くなりながら、あ、とか、わ、とか言葉にならない声を発して落ちつきなく視線をさまよわせて、またかなりの時間をかけて、そんなこと急に言われてもわかんね……、というようなことを、しどろもどろになりながら途切れがちに返した。
いま自分でも何を喋っているのかよく分からないくらい、もう限界値を大幅に超えているのに、ハルトはずっと、スグリの手を捕まえたままで離してくれない。
「なんで、急に、俺なんか」
「急じゃないよ。ずっと前から思ってた」
ずっと前から……? 尚のこと、スグリの思考は大混乱に陥る。
「……気持ち悪い?」
「! そんなことないっ……!」
つい出てしまった大きな声が洞窟内にこだまして、その音に、スグリ自身が怯んでしまった。ハルトに気持ち悪いなんて思うわけないのに、不安そうな声を出したハルトにかけてあげられる言葉を、うまく見つけられない。
「……ありがとう」
ハルトはにっこり笑ったのに、なんだかその笑顔が、泣き出しそうな顔にも見えた。繋がれたままのスグリの右手に視線を落として、ハルトがゆっくり話し始める。
「僕もね、どうしたらいいのか分からないんだ」
――スグリが決めて、やりはじめたことを応援したいし、スグリが大切にしてるものを僕も大切にしたい。……でも、やきもち妬いちゃうんだ。ゼロになったなんて、僕は一度も思ってないけど。いろんなことがあって、スグリだって、まだ気持ちの整理がついてないかもしれないのに。
「スグリは魅力的だし、いろんな人に好かれてるから、焦っちゃった」
魅力的。そんな言葉を向けられたのは生まれて初めてだった。……しかも、ハルトから言ってもらえるなんて。
「困らせてごめん。……僕、君のことが大好きだよ」
泣きたいのを必死にこらえて隠そうとしている笑いかただった。直感的に、スグリにはそう理解できた。スグリの手を握っているハルトの手に、ほんの少し、力が込められる。
「君が僕のこと、僕と同じように好きじゃなくても、同じ意味で好きになってもらえるように頑張るね」
それは、ハルトからスグリへの、宣戦布告だった。
◇
かわいい! かわいいー! と、なんだかすごく興奮気味なタロ先輩の声が、部室の外の廊下にまで聞こえてきた。スグリが中を覗いてみると、だいたいいつも通りの顔ぶれに混じって、見慣れない私服を着た女の子が一人いる。なんだか遠巻きに様子を見ている他の部員たちをよそにタロ先輩と並んで写真を撮っていたらしいその子は、ドアの開く音に気がついて、こっちを振り向いた。とたん、ぱっと輝くような笑顔になる。
「あっ! スグリー!」
スグリはぎょっとして固まった。手を振りながら駆け寄られて、えっ誰だっけ、とにわかに焦り出す。でもなんだかすごく、聞き覚えのある声のような。
「…………えっ? ……ぇ、え!? ハルト!?」
「そうだよ! 僕!」
筆記テストがあるとかで、パルデアの学校に一時戻っていたはずでは。
言われてみれば、顔は確かにハルトだ。けど、髪が長い。というかスカートを穿いている。
「え、ハル……えっ? え、それ、なんで……?」
「これ? ウィッグだよ。タロちゃんに手伝ってもらって、少しだけメイクもしてみたんだ」
「そうなんです! 我ながらとってもかわいくできたと思いませんか!? 今のハルトさん、かわいすぎですよねっ!?」
著しくテンションの上がっている可愛いもの好きな先輩の勢いに気圧されて、つい、スグリは頷いてしまった。助けを求めて、ついハルトのほうを見る。にっこりしてみせるハルトはどう見てもわやめんこい女の子で、でもハルトで。
「……わやじゃ……」
「あっそうだ、スグリにお土産があるんだ! ちょっと部屋まで来てもらってもいい?」
「わ、わぁっ!? わやっ、ハルト、待って……!」
タロちゃんありがとう、またねー! ……と。あれよあれよという間にスグリは手を引っ張られて、ハルトの部屋まで連行されてしまった。
◇
「これ、すごく美味しいんだよ。オレンジ味とグレープ味の二種類あって、スグリはどっちのほうが……スグリ?」
顔が熱い。心臓がずっとうるさい。ハルトがいる方向をまともに見ることさえできない。ただいつもと違う服を着ているだけだと、分かっているのに動けない。ハルトに座らされた位置から逃げることもできずに、ベッドの隅っこで殻に篭もるみたいに体を丸めて膝を抱えていると、ハルトは無遠慮にスグリのそばまで歩み寄ってきた。スカートの裾から覗く白い脚を隠そうともせず、膝立ちでベッドの上に乗りあげてくる。
「わ、わぁっ足っ見えてるっ!」
「スグリ、顔赤いね。……ドキドキしてくれてる?」
「ちがっ……わ、ないけど、うわっわああまって、こんなの……!」
「男なのに、変かな」
スグリの手の甲に指先で触れながら、ハルトが微笑む。いつもより長くなっている茶色い髪の毛先が一房、細い肩から落ちて、ほのかに甘い花の香りがした。お人形みたいにきれいなハルトの顔がこんなに近くにあって、そんな熱っぽい目をされたら、こっちの頭がなんだか変になりそうだ。
「僕はけっこう楽しいよ。それに……スグリに意識してもらえるなら、僕、どんな手だって使うから」
「ひぇっ……! ハルトっ、ほんとに待っ……!」
後ずさりして壁に背中をぶつけた拍子に、スグリの胸のあたりに、何か落ちてきた。――血だ。鼻腔にどろりとした熱い感触があって、慌てて鼻を押さえる。押さえた手の隙間から、血がどんどん漏れてくる。
「う、あ、」
「スグリ、これ」
ハルトがさっと動いて、目の前に白いものが差し出された。ティッシュの箱を取ってきて、何枚か引き抜いて差し出してくれたらしい。
「大丈夫? 血が止まるまで鼻をつまんで、下を向いてたほうがいいよ」
ティッシュで鼻を覆っている間もハルトがそっと背中をさすってくれて、自分で自分が情けなくなってくる。どっと疲れた気分で、スグリは肩を落とした。
「うぅ……俺には、刺激強すぎだべ……」
「そうみたいだね」
応じた声に、かすかに笑う気配が混じっていた。横目でハルトをうかがうと、バカにするような感じはなくて、むしろ愛おしいものを見るような、蕩けた微笑を浮かべて見つめられている。……逆にすごく、心臓に悪い。
「今すぐキスしたいけど、血が止まるまではやめておこうか」
「と、止まってもダメ!」
「……だめ?」
「うううぅ……!」
そんな風にしゅんとした顔するの、ずるい。
「……うん。分かった。びっくりさせちゃってごめんね」
眉を下げて謝られる。ハルトは笑顔なのに、今度は鋭い棘で胸をぐさっと刺されたみたいな感覚がした。
◇
ハルトから貰ったお土産のチョコレートの箱を抱えて、廊下を歩く。足元がまだふわふわしていて、まるで、柔らかい綿を踏みながら歩いているみたいだ。
カジッチュを交換したときに『スグリのこと大好き』って言ったのはそういう意味だよと、少し前に改めて二度目の告白をしてくれてから、ハルトはときどき、こんな風にスグリに迫ってくるようになった。ハルトとポケモン交換をしたあの日、スグリはガラルのカジッチュの噂なんてちっとも知らないまま『カジッチュさ出す!』なんて言ってしまって、ハルトもそれは分かっていて、……全部分かったうえでの行動だと、スグリが気づくのが遅すぎたために今、スグリはすべて後手に回らざるを得ない状況になってしまっている。
とっくに攻め入る覚悟を決めてしまったハルトに対して、防戦さえままならず、勢いに押し流されてしまわないようになんとか踏みとどまるだけで精一杯の状態だ。それでもどうにか食らいついて話をして、今はハルトの告白の返事を、ひとまず保留にしてもらっている。
「あの……な。ハルトのこと嫌いなわけじゃなくて……ほんとに、それは絶対! ……ただ、その……今は勝負のこととか、周りのことに集中したいから……」
それは本心からの言葉ではあったものの、ハルトから逃げていると、スグリ自身もそう思った。
だけどハルトは、怒ったりはしなかった。
「僕だって、スグリとの勝負すごく楽しみにしてるけど。何もしないままじゃいられないんだ。……だってスグリ、モテるから!」
「……や、そんなことねえべ……」
「そんなことある!」
珍しく、というかその時はじめて、ハルトはムキになって言った。
「スグリはかっこいいよ。……ぜんぜん自覚ないから、焦っちゃうよ」
かっこよくてわや強くてファンだっていっぱいいるハルトがそれ言うのかあ……と思いはしたものの、そのときのハルトの目を見たら、スグリは何も言えなくなってしまった。
ハルトがあんなに切なそうな、やさしい顔して見てるのが、なんで俺なんだろ。……不思議だ。
――好き。
ハルトがスグリにそう言ってくれたときの顔を、その声をひとつひとつ思い出すだけで、胸の真ん中のあたりがきゅうっと苦しくなったかと思えば、ひどくふわふわした気持ちが体の内側をいっぱいに満たして落ち着かなくなる。ちょうど今みたいに、自分が風船にでもなってしまったんじゃないかと錯覚するくらいに。
(……俺だって、)
好きは、好きだ。スグリの中で、ハルトの存在は『この上なく大好き』の領域に置かれている。それも、一番目立つ真ん中のあたりに。そこはもう、疑いようもない。でも。
恋人とか、そういうの、今までちゃんと考えたことがなかった。どうしたらいいのか分からない。ハルトの『好き』と自分の『好き』はどう違うんだろう。……〝恋人〟。ハルトとそうなるなんて、想像したこともなかった。
ハルトは男で、自分も男で。ハルトだって女の子に、いろんな人にモテるのに、ほんとに俺なんかで、……俺のことなんか好きになって、いいのかな。
「……うぅ」
いつも、そこで悩んでしまう。
最近こんなことばかり考えてぼーっとしてしまって、勉強にも身が入らない。こんなにふわふわした気持ちのままで、またハルトに挑めるくらい強くなれるんだろうか。
――背中はまかせた!
キタカミの騒動のとき、ハルトにそう言って頼ってもらえたことが嬉しかったから。本当に本当に嬉しかったから、もっと、しっかりしたかった。
一度は暴走してしまった自分のことも、自分を取り巻く周りの世界のことも、もう一度しっかり見つめなおして、ハルトと一緒にいて恥ずかしくない自分に変わりたい。胸を張ってハルトの隣に立っていられるようになりたい。
そのためにはいろんな意味で、今よりももっと強くならないと……と、そう思った。だから……、
――スグリ。
今日見たハルトのいろんな表情が、頭の中を再度通り過ぎていく。
「……うぅぅ。わやじゃあ……」
休む暇さえ与えてくれない強敵の猛攻に、スグリは今日もふわふわと揺れ動く。