白日「えぇ、俺ですか」
「何だ、不満かね。彼の事は知っているだろう」
「そりゃモト隣ですからね、知ってますけど……」
けど、の先には大量の意味が含まれている。苦手だ、とか、面倒だ、とか。厄介事に巻き込まれたくない、だとか。
隣に座っていた水木という男が、時貞翁の言葉に反応して即座に立ち上がり、社長室に消えてからの事を彼は詳しく知らない。どれぐらい喋っていたのかすら定かでない。気が付けば居なくなっていて、出張に出かけたとだけ後から聞いた。
いつも上司にしか土産買ってこないんだよなアイツ。
そういう媚びを隠さないところとか、同期である自分をあからさまに敵視しているところとか、値の張るPeaceを惜しげも無く吸うところとか、嫌いでは無かったが、向こうは別に自分の事は好きじゃないだろうと思っていた。
それが数日経って、何やら事件に巻き込まれたらしいと風の噂に聞いた。気が付けば水木の机には知らない奴が座っていて、水木とは打って変わってギラギラもメラメラもしていないそいつに毒気を抜かれたりしたものだ。
どうなったんだろうと思わなかった訳でもなかった。なので自然と噂話は耳に入ってきた。
龍賀製薬のお偉いさん方が住む村に向かったらしい。そこの村が、詳細は不明だが、一晩で全て焼け、村人全員が惨殺死体で見つかったらしい。龍賀製薬の重役も全て死に絶え、全てが灰燼に帰したらしい。
水木が唯一の生き残りらしい。
そんなアホな話があるかと思ったが、そんなアホな話もあるらしい。その上どこぞの小説の様に水木は一晩にして髪が真っ白になってしまって、白痴の様に口も利けなくなり、今は精神病院に入院中だとか。マリーアントワネットかよ。
あの水木がね。
想像がつかなかった。可愛い顔をしている割に立ち居振る舞いから何から男臭く、モーレツ社員の名をほしいままにしていたあの水木が、そんな風になることなんてことは彼の想定の埒外だった。やっぱりそんなアホな話があるかとしか思えない。世の中アホばっかりだ。
戦争も、龍賀も、血液を売るアホも、買うアホも。
売血追放運動もそろそろお盛んになってきた。そろそろアホに巻き込まれる前に、退散すべきかも知れない。そんなことを考えていた矢先にわざわざ例の社長室に呼び出されて、依頼された仕事がコレだ。
水木の様子を見に行って来いと。
頭のおかしくなった水木を野次馬根性で見に行くほど趣味は悪くないんだけどな。隠し切れなかった不平不満は無かった事にされて、彼は今病院の前にいる。水木が居なくなってから何となく懐かしくなってしまって、一度吸ってみたら気に入って、今や愛飲するようになったPeaceを吹かしながら。
「二〇一号室の面会ですね、お伺いしていますよ。こちらです」
灰皿をお持ちします、と看護師が退散して、入口で残された部屋は個室だった。会社の金で入院していると聞いた。そんな太っ腹な話があるもんかね、と思えばココはそもそも血液銀行のお抱えなのでそもそも社員ならロハだったりする。全く、どいつもこいつも、と息を吐いた。世知辛い話ばっかりだ。なぁ水木。
からりと軽い音と共に病室に入る。季節は秋。窓際の銀杏が黄色く染まっているのが目に入るのが先だった。それぐらい水木の存在感は薄かった。
「よ」
水木を認識するより早く声を掛けて、すぐさまそれの意味の無さを悟った。
さわりと風にたなびく白い髪の毛。何者も映していない暗い瞳。
噂通りの水木がそこにいた。彼の隣にいた水木はどこにもいなかった。
「おやまぁ……」
思わずそんな声が漏れた。人はこんなに変貌するものかと。呟いた言葉が誰にも届かず宙に浮かんで消えていく。
この空間だけが、切り取った様に静かだった。息をしていないのではないかと錯覚するぐらい、静やかだった。
灰皿を持ってきた看護師が、ごゆっくり、と声を掛けてさっさと立ち去った。ごゆっくりもクソもあるかよ、とため息をつく。こんなの、傍にいたって何もする事無いじゃないか。
仕方が無いので何をするともなく煙草を吹かした。ふと思いついて煙を吹きかけてやったが、目と喉に沁みたのか、けほ、と軽く咳き込んで、一筋涙を流して、それでおしまいだった。
生きてはいるらしい。それを確認してその日の面会は終わった。会社に戻って、報告を、と言われて、ありのままを答えた。生きてましたと。それだけだ。それ以上の何かは無い。
何を期待されていたのか、龍賀の関わることだから、恐らく『M』の事を何か水木が掴んでいないかが知りたかったのだろうが、あれは駄目だろう。一目見て駄目だと思った。それぐらい、現実というところから一枚ふわりと浮かんだところに水木が居た。
それで終わりと思っていたら、今度は一週間後の日を指定された。まさかまだ行けっていうのかよ。げんなりして、もう行ったことにして同じ報告を繰り返そうかとも思った。
ただ、水木の母はそうこうしている内に死んだという。あそこに居るのは水木だけで、誰も会いになんか来やしないだろう。そう思えば水木が少し憐れにも感じた。あんなにあくせく頑張っていたのに、お気の毒に。
そういうつもりで、その次の時も会いに行った。相変わらず水木の瞳は何も映さなかった。煙草一本分の時間、そこに立ち寄って、何も喋りませんでした、と報告するのが、二度、三度と繰り返された。
憐れみかも知れない。
あのギラギラと野心に燃える青い瞳が、あんな風に変わってしまったことへの、感傷かも知れない。
何かは分からなかったが、何か胸を焦がすものがあって、会いに行く必要は無いと分かっていても、得られるものは何も無いと分かっていても、ただ煙草一本分の時間、そこに何とはなく一緒にいて、またな、と声を掛けて去ることにしていた。
そんなことが繰り返された回数が、片手で足りなくなった頃。
「よ」
いつもと変わらず、何も映さない瞳にそう語りかけた時、ひく、と水木の鼻が少し動いた。きっかけは多分煙草の匂いだろうと振り返って思う。あの日、しばらく愛飲していたPeaceを切らして、たまたま元々吸っていたチェリーに戻した。それだけのこと。
ぱちりと水木が目をしばたたかせた。くすんだ青い瞳が、焦点を取り戻す。
「……あ、お前か」
あまりの衝撃に、最初に声を掛け状態のまま固まった。多分一分ぐらいそうしていた。久しぶりに聞いた水木の声はえらく掠れていて、あの日、その瞬間、あの村から帰ってきた水木が、初めて声を聞いたのが彼だったと知れたものだった。
「……どうしたよ、変なカッコして」
硬直する彼を、ひび割れて掠れた声で、水木は笑った。見たことも無いぐらい柔らかな笑みで、唐突に彼を迎えた水木に、初めに彼がしたのは、全力でナースコールを連打する事だった。
そこから、二週間。
隣の机の奴はいつの間にやら再度移動していた。どうやらそのまま首になったらしいとこれまた風の噂に聞いた。まぁパッとしない奴だったもんな。そうして隣に積まれたダンボールには、見覚えのあるクセのある字で水木と書かれている。
「よ」
隣に立つ白髪の男に声を掛ける。見慣れた身長と、可愛い顔。一つ違うのは煙草の匂いがしなくなったこと。
「よぉ」
聞き覚えのある甘い低い声に、再度硬直するぐらい驚いた。今まで声を掛けても、軽く会釈するだけで、返事が返ってくることなど無かったのに。
「……随分あか抜けたじゃねーの」
毒が抜けた、の方が正しいかも知れない。野心も、競争も、何もかも失った瞳で、やっぱり見たこともないぐらい優しく微笑みながら、水木がなんだそれと首を傾げる。
水木だった。顔も、声も、姿も全て、水木だった。だのに水木じゃ無かった。彼の知っている水木では無かった。
お前何度も見舞いに来てくれてたんだろう、迷惑かけたな、と目を伏せる様はどこか儚げで、どこか悲しげで、急に無性に喉が渇く様な気がして、一口珈琲を嚥下する。
段ボールの中身を取り出してごそごそと整理をつけている水木をぼんやり眺めていると、そうだ、と呟いて段ボールの底からPeaceの箱を二箱取り出してきた。
「お前、コレ吸うか?」
迷惑料、と言いながら差し出されたそれは、まだ封も開けていない。俺はもういいからやるよ、と言われ、突然の展開に目を白黒させる。
「お前煙草やめんの?」
このご時世、煙草を吸っていない奴の方が珍しい。中でもPeaceは少し高級品で、――水木の野心の象徴だった、筈だった。
なのにそれを呆気なく手放して、やっぱり見たことも無い表情で。地獄から帰ってきた筈の男は莞爾と笑う。
「もう良いんだ」
その目が見ているのは、煙草でも、隣に座る同僚でも、誰でもない。その感情が何なのか、その一瞬では分からなかった。事件の前と、水木が変わってしまう前と変わらず、隣に座って、水木を見ていた彼にだけ、ずっとずっと後になってからその正体はやっと分かった。
――多分、狂おしい程の、郷愁。
何も言わずに差し出された煙草を受け取る。封を開けて、燐寸を擦って、ぷかりと一口。
*
水木の感情の名前を知った頃になっても分からない事が一つある。
あの時吸った煙草の、喉の奥から広がる苦みと、腹の奥に貯まる重くて僅かに熱を持った何かの名前を、彼はまだ知らない。