終着点はまだ先和菓子屋を二人で後にして、未だに月島は混乱していた。前を歩く男の後姿には現実味が無く、白昼夢や幻なのではないかと思ってしまう。ふいに道のへこみに足を取られ態勢を崩しそうになると、体を支えるように腕を掴まれた。
「大丈夫か、月島」
腕に柔く食い込む掌の硬さと確かな体温を身を持って感じた途端、小樽の海で死んだはずの鶴見と目の前の男の存在が結び付いてしまった。心配そうに覗き込んで来た鶴見の顔をジイっと見つめ、あの頃から皺は増えていたが帽子の下に見える印象的な額の傷と瞳はそのままであった。あの鶴見篤四郎で間違いないのだと確認するなり月島は殴り掛かった。振りかぶった右手にしっかりと肉と骨の手応えを感じ、目の前に踞る男が亡霊や幻覚の類では無いと漸く納得した。
「はは、元気でなにより」
人気のない路地の地べたに買った和菓子と共に座り込みながら、あの頃の様に微笑む鶴見にカッと頭に血がのぼる。
「今更、なぜ会いに」
胸ぐらを掴んで再び殴ろうとする月島に、鶴見はそのままの笑顔で身を委ねた。
「このまま殺してくれても良いぞ。後はお前の為に残した命だから」
鶴見の投げやりな言葉に頭が真っ白になり、月島は咄嗟に叫んだ。
「ここであんたを殴り殺す程度の怨みなら、俺は間違っても今日まで生きてない」
叫んでからハッと正気に戻り、掴んでいた鶴見の胸ぐらを手放した。自分が何を言ったのか理解出来ずにいると笑い声が聞こえる。
「月島、生きていてくれて良かった」
そう言って笑う鶴見の顔は少し悲しそうに見え、月島は何も言えなくなってしまった。
人気がないとは言えこのまま爺二人が話し込む訳にもいかず、鶴見の頬が腫れてきた事もあり連れ立って月島の住む家に向かった。
道中会話らしい会話もなく、月島は腕の中の菓子を初めて煩わしく思いながらひたすら歩いた。月島の家は山際の集落の端にぽつんとある小さな家で、自分で開墾した畑が幾つかあった。
「手紙のひとつでも寄越してくれても良かったじゃないですか」
月島は井戸水で濡らした手拭いを手渡しながら鶴見の顔を見遣る。昔より痩けた左頬が赤く腫れて痛々しい。
「私が生きていると知ったら、お前が全てを放り出して私を探しに来てしまうかと思って」
鶴見の思いがけない言葉に虚を突かれ、月島はポカンと口を開けて、すぐ引き結んだ。
「…俺の事なんだと思ってるんですか。自惚れが過ぎます」
自分と同じように髪は白くなり皺は増えたが、昔と同じ呆れ顔でため息をつく月島の横顔を鶴見は懐かしそうに眺め、それに気がついた月島は顔を俯かせた。
「じゃあ、もし私が生きていると知らせていたら、お前はどうした?」
顔を見せないようにしたまま、月島はこの数十年考えないようにしていた もしも の可能性を考えてみる。
あの時、鯉登少尉の右腕として生きてみようと思えたのは、ただ明るく前向きな希望だけではなく、この役目は受け入れ難い現実から己の目を逸らす理由になり得るのではと少なからず思ったからだった。
いざ中央と掛け合う為にと必要な情報収集や雑務をこなし、どうにか我々の力になってくれる人間は居ないかと鯉登家のツテや鯉登自身の人柄で増やしていったあの頃。夜は夢見ずに泥のように眠りたくて、日が登っている間は仕事に奔走していたあの頃に、知らせがあったなら。
「……、そうですね。迅速に我々師団の問題を解決出来るよう、鯉登さんが地位を獲得して師団長の席に座れるようにもっと動いて、定限の歳までに信頼出来る人間に鯉登さんの補助を引継いで、…貴方を探しに出たと思います」
「ふぅん。あくまで役目を選ぶか」
「会いたければ、貴方が来れば良かったんです。その方が手っ取り早いでしょうに」
「…そうだな」
うんうんと芝居掛かった頷きをする鶴見に、生存の事実が軍に知られると不都合だった事もあるだろうが、きっとこの人も鯉登の成長の邪魔をしたくは無かったのだろうと月島は思い至った。過去、鶴見の掌中にあった蕾は手元から離れて大きく花開いて咲き誇った。
「では、もっと動く、とは何をしようとした?」
「…俺が、」
優しく聞いてくる鶴見の声に、話すつもりのなかった記憶を話出してしまう。昔に染みついた癖故か月島は自分でも止められない。
「鯉登さんの出世の障害になる人物を、一人か二人消そうかと思った事がありました。実行はしませんでしたが」
最短で鯉登を師団長の席に着かせようと思えば軍を退いた後からでも暗躍して、就任を7、8年早める事も出来たのだと思う。昔なら邪魔する物は排除してヨシと言われれば消していたが、ヨシと言う人も居らず、その時は月島も胸の内で思うだけに留まった。
「うん。後暗い噂は鯉登師団長殿には似合わないから止めて正解だな」
正解という言葉に顔を上げた月島と鶴見の目線が合い、軽く睨みつけながら月島が口をゆっくりと開けた。
「鶴見中尉殿、と違って?」
月島からの久しぶりの嫌味に、今度は鶴見が虚を突かれて笑わずにはいられなかった。目線を逸らしてしまった月が可愛らしくて覗き込もうとすると、さらに逸らされて鶴見は抱き締めたくて堪らなくなった。
「はは、今日はよく喋るな月島」
「…積年の怨みがありますから」
死神の掌中にいた右腕は、月島の姿のままそこにあった。
「これからどうしようか?」
「考え無しにこんな田舎まで来たんですか」
和菓子と熱いお茶を口にしながら鶴見がのんびりと月島に問う。一息つきましょうと月島が一度奥に引っ込んでしまったので、先程までの重たい雰囲気は霧散してしまっていた。
「うん。月島の顔を見れたら後はどうなとなれと思ってた」
「…そうですか」
「うん」
月島も湯呑みに口をつけながら、じいっと思案する。顔を見ただけでハイさようならなんて思ってもいないだろう、自分も、鶴見も。
「……誰かに追われてたりしますか」
「うーん。今は国中がそれどころじゃ無いだろうから大丈夫だと思う」
ならば混乱に乗じて行動するのが良しと判断し、月島は茶をグイと飲み干した。
「この家は軍関係者に知られてるので、移動しましょう」
「すぐか?」
「はい」
そこからの月島の行動は早かった。元々少なかった荷物を必要最低限だけ鞄に詰め、日持ちのしない食糧は畑の隅に埋めて、水を貯めていた瓶や器類は逆さにして簡単に整理した。月島のささやかな城だったがもう必要は無くなったので、次に誰でも好きに住めば良いと扉を締めた。
「行きましょう、鶴見さん」
日が落ちる前に汽車へと乗り込み北へ向かう。
「本当に、何も考え無しだったんですね」
「元気な顔を見て、あわよくば月島が俺と一緒に付いて来てくれたら嬉しいなあ、とは思ってたよ」
「…もっと他に言う事はないのですか」
「謝って済むならそうするが、月島は俺の懺悔なんて欲しくは無いだろう。だから俺自身をやろう。今の俺には、お前の顔を見て、話せて、たまに手を握れたらそれで充分だ」
老練した笑みを浮かべ、手を握ってくる鶴見に月島は眉間に皺を寄せた。掌に力が入って握り返すかたちになるのが悔しいが、お互い老いてカサついた手触りに振り払う理由を失ってしまう。
「…むかし、あれだけ好きにしておいて」
「ふふ、そうだな。すまなかった。だから、今度はお前の好きにしてくれ」
汽車が駆ける音と車内の騒めきで二人の会話を聞く人間は誰も居なかったが、月島は鶴見にだけ聞こえるようにそっと顔を寄せた。
「では、もし、俺が先に死んだ時は貴方の好きにして下さって良いので、鶴見さんが先に逝った時は、後を追うことを許してください」
「…月島お前、生きて会えたばかりなのに、なんでそんな事いうかな」
突然の月島の要望に今度は鶴見は顔を顰める。その様子に月島は溜飲が下がり小さく微笑んだ。
「貴方が地獄の閻魔様に裁かれるのを、今度こそ最期まで齧り付きで見たいのですよ」
握りしめあった掌と触れた肩から交わる体温に、月島はやっと肩の力を抜いて鶴見にもたれかかった。