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    ごはんはおいしい

    書いたもの置き場。

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    POIPOI 4

    サキュバスの肥前くんと高校教諭の先生の尻切れトンボな南肥。

    南海朝尊は一介の高校教諭である。
    担当は数学、所謂天才肌というやつで生徒たちの理解度を高めるという意味では有用な授業を行うが、それに追いつけない者が必ず出てくることに定評がある。しかしながら個人的に質問に行った際には理解できない部分の原因を追究、及び苦手分野を克服するための計画的な勉強法を書き記したプリントを用意してくれると生徒たちからの評判は上々だった。
    浮いた話のひとつもなく、教職員同士の飲み会に参加しても酒は一滴も嗜まず、時折奇妙な事を思いついてはそれに集中してしまい授業中でも構わず常に持ち歩いている帳面にペンを走らせ、そんなごくごくありふれた教師生活を送っている朝尊には今、ひとつだけ悩みがあった。

    「せんせぇ、もう帰ってきたのか?おかえり、この間先生が食いたいって言ってたやつ作ってみたから食ってくれよ」

    薄桃色のエプロンがひらりと翻る。あちこちへ向けて跳ねている黒髪は途中から赤色へと姿を変え、長い睫毛に縁どられた同じく赤い色をした瞳が朝尊と同じ高さで瞬いた。
    なあ先生、と甘えた声が囁いて淡い桃色をした唇がきゅうとつり上がる。初めのうちはその表情が何を示しているのかわからなかった朝尊だが、数か月も共に在るとそれが笑みを表しているのだと察しがつくようになった。
    黙って見つめる朝尊をどう取ったのか、教え子と同じかそれよりも幼く見える顔が覗き込んでくる。ゆらりとハートをさかさまにしたような尾が視界の隅で揺れ、ふわふわと宙に浮いたまま同居人は朝尊の首へ腕を回して抱き着いてきた。

    朝尊の同居人は、サキュバスだ。




    古来よりサキュバスとは、見目の良い女性の姿をした淫魔を指す。その美貌と魅力を持って人間の男にひと時の夢を見せて精を奪っていく者だ。反対に男性の姿をした淫魔はインキュバスと呼ぶが、こちらは比較的醜い悪魔の姿で描かれることが多い。
    しかし今朝尊の目の前で食事の用意を整えているその淫魔は、初めて朝尊と出会ったとき確かに男の姿をしてはいるもののサキュバスなのだと口にした。精を注ぐものではなく注がれるものの器を持ってしまったのだ、と。
    一般的な知識の範囲でサキュバスとインキュバスの違いこそ知っていた朝尊にとって、この非科学的で超常的な存在は非常に興味深かった。
    そのサキュバスは物珍しくも肥前忠広と和名を名乗り、一人前として認められるための試験の最中なのだと語った。その時すでに時計は深夜の二時を差していたが朝尊にとっては大した問題ではなかった。
    これも同様に一般的な(と呼ぶべきかは疑問だが)知識として、その肥前の言葉が創作物――いわゆる官能小説や年齢制限の掛かるゲームでありがちなものであることには気付いていた。しかし朝尊がそれを気に掛けることはなかった。好奇心に支配されていたというのもあるし、丁度期末試験を控えた時期で問題作成に気を取られ、数日碌な睡眠も食事も摂っていなかったことが災いしたのだ。
    なるほどなるほど、と好奇心の赴くまま、サキュバスだという肥前がねだるままに事に及ぼうとした結果、性交渉に特化しているはずの肥前の肉体はその存在の特殊性故に一般的な人間と同等であるということがわかるだけで終わってしまった。
    つまりはそう、原因が何であったのかはともかくとして肥前は碌に朝尊を受け入れることが出来なかった。肥前は妥協点として口淫によって精を得ることにしたものの、それでは合格にはならないらしい。
    そんな散々な夜は朝尊の精と体力が尽きて意識を飛ばすまで続いた。

    翌朝目が覚め一番に飛び込んできた青ざめた肥前の顔は、数か月経った今でも朝尊の記憶に焼き付いて離れない。柘榴石のような瞳に涙を滲ませ、せんせぇ、と殆ど涙声で聞き取りづらい声と共に首へと縋りついてきた。
    話を聞くに余りにも口に合い過ぎて夢中になり、体力の尽きかけたその様子に気付けなかっただけのようで、そこに悪意や危害を加えるつもりはなかったらしいと朝尊は結論付けた。
    肥前が「詫びに暫く家事を肩代わりする」と言い出したのはその直後だ。
    その時の朝尊の部屋の中はお世辞にも整理されているとは言えず、台所に至っては数日分の汚れた食器が溜め込まれていた。申し出を断る理由は無く、こうして朝尊と肥前の共同生活が始まった。
    当初肥前の家事スキルは高いとは言い難く、特に料理に関しては主食が人間の精であるためかまともに味付けも出来ない有様だった。朝尊も生きていくのに必要な分のカロリーが摂れるのであれば味は二の次、といったスタンスであったために暫くはそれが失敗作であること自体に気付けなかった肥前だったが、一度朝尊が気まぐれで買ってきたファストフードを口にし自分の作る物との味の違いに大きな衝撃を受けた。じゃりじゃりしていないし、焦げ臭くない。一般的な食事を知ってからの肥前の上達ぶりは朝尊が舌を巻くほどだった。

    教諭という職業故に比較的小ぎれいでかっちりとした服装は朝尊の好むものではない。幼な妻よろしく肥前の用意していた楽な部屋着に着替え、視線の先でくるくると忙しなく動く肥前の背を眺めながら朝尊は眼鏡の奥の瞳を笑みに細めた。すっかり人間の生活が板につきはしたものの、サキュバスである肥前にとって人間の食事は嗜好品、つまり人間で言うところの酒や煙草のようなもので味を楽しめはしても栄養にはならない。どれほど食事の楽しさを知ろうとも肥前がそれを継続的に楽しむには朝尊の精を啜る以外に道はないのだ。
    初めての失敗がトラウマになっているようで、いざ事に及ぼうとすると肥前が怯えるため未だに体を繋げるには至っていない。けれどどうしたって腹は減るもので朝尊が疲れ切っている時以外は毎夜"食事"を行っている。基本的には口に合い過ぎると表現されるそれも、今日はちょっといがいがする、であったり、なんか甘いな、であったり、その時々に応じた感想が肥前の口から出てくる。どうやら食べたものの味が反映されるようで、これまで食に対して一切の興味を見いだせなかった朝尊も肥前と暮らすようになってすぐに食生活に気を遣うようになった。
    そのお陰かこれまでよりぐっと健康状態が改善されたことは言うまでもない。

    「先生、出来たぞ」
    「あぁ、ありがとう肥前くん。美味しそうなシチューだね、良く材料があったものだ」
    「ネットスーパーってやつ、先生が使っていいってカード置いてってくれたしこれで先生に買い物頼まなくて済む」
    「……成程」

    あってもあまり使わないから、とクレジットカードを渡していたことを思い出し朝尊は感心したように息を吐いた。これまでは朝尊に買い出しを頼むことが多かった肥前が新しいことを覚えていく事は好ましい。しかしそれと同時になんとも言えない感情が胸の奥にインクを垂らしたかのようにじわりと広がり、朝尊は自身の唇を指先で撫でた。
    考え事をするときの癖だ。
    肥前はその様子を気にする風もなく配膳していく、ふわりと立ち上った湯気が朝尊の眼鏡を白く曇らせた。

    「ふむ……肥前くん、やはり買い物は僕が行くよ。それか……僕の仕事が終わるのを待てるようであれば君も一緒に行くかね?」
    「急にどうしたんだよ、……外に行っていいなら行くけどさあ」
    「いや何、僕の与り知らぬところで君の姿を見る者がいるのかと思うと些か。それにいい加減軟禁じみた生活にも飽きてきただろう」

    白く曇った眼鏡を外しながら朝尊は少し首を傾けて見せた。その言葉通り、朝尊と出会った日から肥前は一切外へ出ていない。蝙蝠のような羽やすらりと伸びた尾は隠すことが可能だと聞きつつも、サキュバスという生物の特性を考慮してのことだ。それがただの建前になり、肥前を人前に出さず囲っておきたいと考えるようになるのにそう時間はかからなかった。
    そんな朝尊の考えを知ってか知らずか、とうとう便利なサービスの存在を知ってしまった肥前は宅配の人間と顔を合わせたのだろう。隠し事の出来ない肥前のことだ、何かあれば今頃は泣きじゃくっていることだろう。それがないということはそもそもとして持ち合わせていないのか、それとも朝尊以外の人間には効果がないのか、心配していたサキュバスの特性は発揮されなかったらしい。
    ならば知らないうちに他人と会われるよりは自身の監視下のもとで外に出す方が良いと朝尊が考えるのは当然の事だろう。
    本当にいいのかと気にする素振りを見せながら、朝尊の向かい側の椅子へ腰を下ろした肥前は目の前のクリームシチューの皿に視線を落とした。いただきます、と囁くような小さな声に促されて眼鏡を掛け直した朝尊も手を合わせる。鶏肉が多めのそれは自分で作るよりも上手く出来ているように見え、朝尊は感心したように目を細めた。
    肥前の少し小さな手が白くとろりとしたそれをスプーンでかき混ぜ、溢れた分を皿へ落としながら息を吹きかける。僅かに尖った唇が開いて迎え入れるように濡れた赤い舌がちらりと覗いた。刹那、同じように鮮やかな色の瞳と朝尊の青灰の瞳が交差する。

    「……今はそれより、めし、済ませようぜ。せんせぇ」

    甘えた声が朝尊を呼んだ。

    「今日はあんまり怖くねぇ気がするからさぁ…な?いいだろ、せんせぇ…♡」

    果たして本当に、サキュバスの特性は発揮されなかったのだろうか?口の中が乾いていくような感覚に襲われた朝尊に出来たことは、あぁ、と掠れた返事をすることだけだった。
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