明け方のファミレス。夜勤を終えて更衣室でスマホを確認すると狂児さんからLINEが入っていた。
『来週東京行くからお寿司行かへん?』
妙にリアルタッチの猫が「お願い!」という文字と共に手を合わせているスタンプ付きだった。狂児さんってホンマは暇なんかな?と一瞬思ったけれど、会うたびに濃くなっていく目の下の隈は彼の疲労を読み取るには十分な材料だった。
『寿司行きたいです。日にち狂児さんに合わせるんで。』
それだけ返信するとタイムカードを押してファミレスを出た。今日の講義は三限からやから少しは寝れるか。ぼんやりとした頭は霞がかっているようで、早く会いたいなんて思ってしまうから徹夜明けの頭は本当に判断力が鈍るんだろう。春にしてはまだ少し寒い空気、新聞配達のバイク、路地を通り抜けていった黒猫。彼から連絡が来たのは実に3ヶ月ぶりのことだった。この3ヶ月間、僕ばかりが彼のことを想っていたようで悔しくなる。帰宅したら恒例になった500円玉をいつもの缶に入れることも、彼のために置いてある僕にはサイズの大きいスウェットも、刺さりっぱなしの歯ブラシも、灰皿も、僕の家には狂児の気配が濃すぎるように思った。高校三年間のあの日々。何度もトーク画面を開いて『生きてますか?』と打っては消した。僕が知りたかったのは正直に言ってしまえばそれだけだった。僕の何もかもを奪っていった男が今、生きているのか死んでいるのか、それさえ知ることができない自分が如何に子どもなのか思い知らされている気持ちになった。
安アパートのドアがやけに重たく感じて最低限の着替えだけ済ませて布団に倒れ込んだ。目を瞑ると浮かんでくるのは、僕をみるあの男の顔だった。
待ち合わせの日、家から出ると狂児の車が止まっていた。ここ道狭いから停めて欲しくないねんけど…と思いつつ近づくと車の中から乗ってと手で示される。
「聡実くん、お久しぶり。元気やった?」
元気やった?はこっちの台詞じゃアホ狂児と思いながらも「まあ、ぼちぼちです」と答える。最近大学はどうだとか、バイト先に変な奴は来ないかとか、ご飯はちゃんと食べてるのかだとか僕の話ばかり聞きたがって、僕からは彼のことをほとんど聞くことはできなかったし、彼も話すことはしなかった。
明らかに回らないであろう高級な店構えの寿司屋に連れて行かれて、席に通される。
「なんでも好きなもん頼んだらええよ、お誕生日祝いやから」
「…覚えてたんや」
「あたりまえやーん!聡実くん、ほんまお兄ちゃんになったね」
そうや、僕もう19になったんや。子どもやない。子どもの成長が嬉しくて仕方ないみたいなそんな笑顔を向けて欲しいわけじゃなかったのに、僕が彼に求めていたのはもっとどうしようものない人間の欲みたいなものだったのに、そんなに愛しいもんを見つめるような目で見るな。
(こんなこと考えてまうのは僕だけなんやろか、)
着物を着た店員さんがさりげなく差し出してくれたおしぼりは暖かくて少しだけ心がホッとした。
「さー、ジャンジャン食べて!」
そう言いながら狂児があれは?これは?と僕に確認しながら注文をしてくれる。こういうところがスマートでむかつく。
運ばれてきた料理はどれも繊細で、なのに物足りないということがなく美味しかった。寿司は美味しかったけど、僕が寿司を食べているのを嬉しそうに見ている狂児の笑顔がやけに脳内に残り続けて、夜の闇みたいな目があんまり優しそうに弧を描いているものだから僕の相槌は終始適当だったかもしれない。悔しかったから腹一杯まで食べたけど、そんなことで彼の財布にダメージなんていかないんだろう。僕は彼を困らせることもできんのかと思うともはや少し面白かった。
帰りの車内で狂児さんが難しそうに眉根を寄せているから思わず「何?」と聞いた。
「聡実くんさぁ…」
「うん」
「お寿司あんまり美味しくなかった!?いや、いっぱい食べとったし、ホラ、聡実くんってうまいもん食うた時おめめがいつもよりぱっちり開くから、気に入ってないことはないと思ってたんやけどな…あ!やっぱり学校でなんかあったとか!?バイト先か!?オッチャンが懲らしめたろか?」
「狂児さんってアホやろ」
「ええ…」
車は音もなく発進していた。彼は昔から運転がうまい。まるで大切なものを運んでるみたいに運転する。いつの間にか降り出した雨が窓を打ち付ける。ああ、狂児さんと出会った日も雨だった。このまま車が僕の家に着かなければいいのに、どこかに僕を連れ去ってくれたらいい。僕はどこにだってついて行くし、そこに狂児さんがいればそれでいいのに。こんな考え方も彼からしてみればお子様の思考なのかもしれなかった。でも、彼を僕に縛っておく手段も、僕を彼に縛っておく手段もないのに、次に彼からご飯の誘いが来るまでまた不安で、退屈で、世界から色が消えてしまった見たいな日々を送らなければいけないのだけはごめんだった。
車内には沈黙が流れていた。あと2回路地を曲がったら僕の家についてしまう。
車が静かに停止したあとになっても、僕も彼も動こうとはしなかった。
「僕な、19歳になったんよ」
「ん?うん、そうやね」
「もう子どもやないねん」
ハハっと狂児さんの乾いた笑い声が響いた。やっぱりむかつくこの男。
「僕は、僕は!いつでも狂児のもんになれるのに、狂児だけのものになりたいのに。あんたは触れてこようともせん!!はよ抱けや!!意気地なし!!!!」
目に涙が滲むのがわかった。昔からだ、感情が高ぶると涙が出てくる。狂児さんがシートベルトを外す音がした。僕の伏せた瞼に唇と、柔らかい舌先の感覚。そのままするりと形のいい指が僕の頬を包んで、僕の耳にあの心臓に響く重低音がそっと囁いた。
「20歳になったら、聡実くんがやめてって泣いてもやめたらんから、それまでええ子でおってや な? お願い。」
やっぱりこいつは意気地なしや。雨はいつの間にかやんでいた。僕たちを照らすのは頼りない細い月だけだった。